桜も散り、久方ぶりに続いた穏やかな日常も終わりを告げる。
「杏寿郎ォーッ。任務、任務ダァーッ。西ノ町ニ、鬼ィーッ」
「そうか。では千寿郎、続きは俺が戻って来てからだ」
「……はい」
竹刀を手にした千寿郎は、兄を困らせないようにと返事をするが、その声には幼子の気持ちがまざまざと現れていた。
杏寿郎は眉尻を下げ優しく笑みを浮かべ、弟の頭を撫でまわす。
「きっとすぐに帰って来る」
「はい。お待ちしております、兄上」
杏寿郎は名残惜しそうに弟をそっと抱き寄せ、その背中をぽんぽんと二度叩く。
それから自室へと戻り、黒い隊服に着替えてから白い羽織を纏り日輪刀を腰に差す。
その間に千寿郎は台所へと行き、握り飯を用意した。
出来るだけ大きなものを。
それを包み、すぐさま玄関へと駆ける。
「兄上っ、おにぎりを握りました。道中お食べください」
「すまんな、千寿郎。しかし、日に日に米を握るのが早くなっていってはいないか?」
「その代わり、具は何も入っていないので……
「はっはっは。食べられればそれで十分だ。では行ってくる」
「い、いってらっしゃいませっ」
死地となるやもしれない任務を見送るのは、弟の千寿郎のみ。
今日もまた、父である槇寿郎は部屋から出てこなかった。
日に一度も父の姿を見ないことなど、煉獄の兄弟にとってごく日常のことだった。
兄がいなければ、まるでこの広い屋敷にひとりで住んでいるようだと千寿郎は錯覚することもある。
「早く……お帰りください、兄上」
兄の姿がとうに見えなくなってから、千寿郎はそう呟く。
決して兄の負担にならぬようにと、幼い千寿郎は兄の前で本音を口にしない。
そして兄が無事に戻って来ることを、ただひたすら祈るのだった。
「夢乃! 任務で西へ行く。赤木尾という町だ!」
杏寿郎は駒澤村を出る前に、報告のためにあばら家を訪れた。
表玄関から声を張り上げると、奥から返事が返って来る。
「そこなら知っている。同行が必要か?」
「任務ゥー! 隊士、隊士。合同任務ゥー」
「だそうだが、来てくれると嬉しい!」
と、口にしてから杏寿郎は頬を染めた。
やや間があって、夢乃からは
「お前が嬉しいだけなら行く必要はないだろう?」
と。
その返答を耳にして、杏寿郎はぽかんと口を開けたまま固まった。
それから項垂れ、かと思いきやさっと面を上げて再び大音量で言う。
「怪我人の治療を頼みたい! だから後から来てくれ。約束したぞ!」
そう言ってスタスタと行ってしまった。
奥の座敷牢では、頭を抱えた夢乃がいる。
「約束してないぞ、おい」
言ったところで返事をする者は、とうにあばら家から離れてしまっている。
一方的とは言え、頼まれてしまったのでは行かない訳にもいかない。
夢乃は読んでいた本を閉じ、陽が暮れればすぐに出立できるように荷物をまとめる。
小振りの巾着に、包帯を何本か詰め込み、怪我に塗りこむ薬と止血剤も入れておく。
自分ひとりならこんな物を用意する必要もないが、人間が一緒なら必要になる。だから四月に入って、夜な夜な近隣の町に出かけて買い込んだものだった。
「夜までに片付けばいいのに」
そうすればわざわざ出て行く必要もなくなる。
が、そうならないことは分かっていた。
鬼を狩るのは夜の間だけで、昼間は隠れているので見つけるのは困難だ。
そして赤木尾という町はほどほどに大きい。
一晩で尻尾を掴むのも難しいだろう。
「そもそもこの時間からだと、今日中に町まで到着しないだろうし……いや。あいつのことだから暗くなっても構わず歩いて行こうとするんじゃ……」
仲間が待っているかもしれないと、夜の雪道を進もうとする男だ。
ただ暗いだけの夜道など、平然を突き進んでいくに違いない。
(到着は夜中か……そのまま鬼の頸を撥ね飛ばしてくれるといいのだけれど)
そんな願いも虚しく、陽が暮れて出立した夢乃が夜明け前に町に到着しても、まだ鬼を見つけることすら出来ていないと、鎹鴉から聞かされることに。
そして鴉からは、必要以上に近づくな──という杏寿郎の言葉も伝え聞かされた。
「近づくな?」
「勘。勘ノイィー鬼殺ガイルーッ」
「気配で気づかれるかもということか。はぁ……来なきゃよかった」
「夢乃、大変! デモ杏寿郎ハ喜ブカァーッ」
「うるさい。お前、主人に似て声が大きいぞ」
「カッ!?」
バサりと羽ばたき、それから少ししゅんとして小さく「カエル」と鎹鴉は呟いて飛び立った。
飛び去る鎹鴉を見送りながら、夢乃はため息を吐き捨て町はずれへと向かった。
古い、それこそ江戸時代の頃からの風景が続く長屋には、貧困層の者が多く住む。
空き家も多く、人が寝静まる夜のうちに忍び込めば、そのまま見つかることなく日中を過ごすことも可能だった。
両隣も空き家になっている場所を見つけ、音も立てずそっと中へ侵入し、夢乃はそのまま次の夜を待った。
「俺は煉獄杏寿郎という! 君の名は?」
時は少し遡る。
夜遅くに町へと到着した杏寿郎は、藤の家紋のある家へとやって来ていた。そこには既に到着していた他隊士の姿もあり、これから鬼の捜索に向かおうとしているところだった。
「……冨岡……義勇」
「そうか! 冨岡か!! よろしく頼む!!」
歳の頃は十七、八と、杏寿郎とそう変わらない冨岡義勇は少し面食らっていた。
藤の家に到着して早々のこの男は、陽が暮れてからもずっと歩いて来たのだろう。なのにこの異様なまでの元気はどこからくるのか……と。
「鬼の捜索に出られるのか? なら俺も一緒に行こうっ」
「いや……お前は到着したばかりで疲れ──」
「さぁ行こう!」
行く気満々な杏寿郎は、冨岡の話など聞いてはいない。
すたすたと門へと向かい、一歩出てからくるりと振り返って「冨岡!」と呼んでいる。
冨岡は間を置いてから「はぁ……」とため息を吐き捨て杏寿郎を追う。
夜が更けても通りを歩く人の数は少なくはない。
「電気が来ているのだな、ここには」
「……赤木尾全体ではない。街灯は大通りと、それから……」
そこまで言って冨岡は口を紡ぐ。
続きが気になる杏寿郎は、冨岡をじっと見つめて待った。
じっと、じぃーっと見つめて。
(目力……強すぎるだろこの男)
そんなことを思いながら、冨岡はすぅーっと目線を逸らして歩き出す。
「こっちだ」
「む?」
訳も分からず杏寿郎が付いて行くと、冨岡の言わんとしたことがようやく分かった。
「な、なるほど。この通りには電気があるのだな」
冨岡が案内したのは、西洋風の遊郭──娼館が立ち並ぶ通りだった。
こういった通りは自然と治安も悪くなる。電気で明るくすることで、掏りの類を減らす効果を期待したのだろう。
二人は通りを眺め、進むべきか引くべきかを考える。
その時、ふらりと女が近づいて来た。
「んふふ。若いお兄さん二人で、どうしたのかしら? もしかして初めて?」
胸元を大きく広げるように着物を着崩した女が、艶のある声を掛けて来た。
二人はほぼ同時に女から視線を逸らし、それから同時に踵を返す。
「と、冨岡。他を行こう!」
「分かった」
そしてスタスタと歩き出す。
「え? ちょっと、ねぇ」
追いすがろうとする女の声を振り払い、二人は足早にその場を立ち去った。