「なるほど。誕生日、ねぇ」
山林の屋敷へと戻って来た夢乃は濡れた袴を脱ぎ、着物の帯を締め直しながらそう呟いた。
(明日……明日か……はて、明日とは何日だっただろうか?)
長く生き過ぎると、月日の概念が希薄になってしまう。
自然の移り変わりで季節ぐらいは把握しているものの、何月何日なのかまではすっかり忘れていた。
(そうか。あいつは一つ歳を取るのだな……)
そんな当たり前のことですら、夢乃にとってはとうの昔に忘れてしまったことだった。
「ん? そう言えばあいつ……次で十七だったか?」
彼女が鬼となったのも十七の歳。
外見だけで言えば同じ年齢という訳だ。
「同じ……いや、こちらは百をゆうに超えたばばぁじゃないか」
そう言って、夢乃はひとりでくすりと笑った。
その日の晩になって雨が止むと、夢乃は濡れた袴の洗濯を始めた。
それを干し終わる頃、風呂敷を抱えた杏寿郎が満面の笑みを浮かべてやって来た。
「おかえり、夢乃」
「……ぬかるんで歩きにくかっただろうに、よく来たな」
「君こそ、随分とずぶ濡れだったではないか。しかも雨が降っていたとはいえ、日中に出歩くのは危険ではないのか?」
「陽光さえ出ていなければ問題ない。あんな日でもないと、昼間に外を出歩くなんて出来ないしな」
そう言うと、夢乃は縁側に腰を下ろす。
今日の稽古はなし──という意思表示だ。
「しかし、君は着替えを持っていたのだな。いつも同じ袴を穿いているから、持ち合わせがないものとばかり思っていた」
「あー……これは人に貰ったものだ。普段は……代えは持っていない」
「人に? い、いったい誰だ! 男か? 女か?」
杏寿郎はばしゃばしゃとやって来て、縁側に座る夢乃へと迫る。
その顔は困惑と、そして不安に満ちていた。
「……男だが」
「お、男!? どこの男だ! 何故男から貰ったのだ!!」
必死の形相でまくしたてる杏寿郎の顔を、夢乃は鬱陶しそうに押しのける。
「誰だろうとお前に関係ないだろう」
「関係あ──……ないが……ないがっ!」
「声が大きい!」
「むぅ……む? 着物も濡れているのか?」
空にはまだ雲がかかっており、頼りになるのは蝋燭の火のみ。
分かりにくくはあったが、夢乃の着る着物の裾は水を含んで色が変わっているように見えた。
「さすがにあの雨だったし、袴もずぶ濡れだからな。染み込んでしまった」
「何故着替えない? 風邪を引くだろう」
「……鬼だぞ? 風邪なんて引く訳ないだろう。あと着替えはない」
「そ、そうか! だったらこれを着るといい。俺が鬼殺隊に入隊前ぐらいまで着ていたものだが」
杏寿郎は風呂敷を夢乃へと差し出す。
「安心しろ! ちゃんと洗濯して桐箪笥に入れていたものだから虫食いもないはずだ!!」
「いや、そういうことは気にしていないのだけれど……いいのか? 弟に着せるために取っておいたものでは」
「うむ! だが千寿郎には真新しい着物を買ってやりたい──いや、き、君に古着を着せたいとかそういうことではなくてだな」
杏寿郎は慌て、「新しいものが必要なら」と声を上げる。
その杏寿郎の額に指先を押し当て「必要ない」と夢乃は短く答える。
だが、風呂敷包みを抱えすっくと立ちあがると、
「これは……借りておく。風邪はひかないが、冷たいと感じる器官は残っているから」
そう言って屋敷の奥へと下がった。
「そ、そうか! 役に立てるのなら貰ってくれ。本当はもっと、色味の良い着物でもあれば良かったのだが。生憎そういうのは持ったことがないのでな」
夢乃がいなくなった縁側に腰を下ろし、杏寿郎は晴れ間の覗かぬ夜空を見上げる。
暫くして着替えた夢乃が戻って来ると、やや頬を赤らめその姿を見た。
「君は女子にしては上背がある分、男物がしっかりと似合うのだな」
「だから男物の着物を好んで着ているのだ」
「うむ! だが上背があるからと言って、女子の着物が似合わないという訳でもないだろう!」
焔色の瞳に見つめられ、夢乃はふいに視線を泳がせた。
そして気づく。
「月が出て来たな」
「む? おぉ! ようやく雲が晴れるか!!」
一日中空を覆っていた雲が晴れ、月が顔を覗かせる。
月明かりに照らされ周囲が明るくなると、そのせいで杏寿郎の泥まみれの姿が浮かび上がった。
その姿を見て夢乃は呆れたように顔を振る。
「お前……着替えを届けてくれたのはいいが、自分も着替えなきゃならない状況じゃないか」
「よもや!? これはなかなかに酷いな。はははははははは」
ここへやって来る間の道は雨でぬかるみ、歩くだけで跳ねた泥が袴だけでなく上の着物にまで及んでいた。
「笑いごとか。どうせ洗濯は弟に任せているのだろう?」
「うむ。千寿郎がやってくれるが、任務がないときは俺だって少しは家のことをするぞ!」
その言葉は夢乃にとって意外だった。
この男は家事手伝いなど、何もできないだろうと思っていたから。
「もっとも俺が洗濯をすると、力が有り余って着物をやぶくこともあるがな! はははははははは」
「笑いごとか!?」
「いや、前はこうじゃなかったのだ。ここ二年ほどでな」
と、今度は流石に苦笑いを浮かべる。
体の成長と共に筋力も上がり、雑巾や木ものを絞ろうとすると力が入り過ぎて破れてしまうようになったのだ。
千寿郎に叱られ、以後は洗濯をしなくなったと話す。
(弟も大変だな……)
先ほど目にした千寿郎の姿を思い浮かべ、夢乃は同情する。
「煉獄、今日はもう帰れ。で、それを破らないように力加減して洗っておけ」
「なかなか難しい任務だな! だがさすがにこの泥はねを放置しておくわけにもいかんな。俺の目的は達したことだし、帰るとしよう」
「力加減も鍛錬のうちだぞ」
「なるほど。洗濯も鍛錬のうちか! うむ、相分かった」
立ち上がった杏寿郎は、去り際に振り向き手を振る。
「明日は千寿郎の自慢の料理を持ってこよう!」
「煉獄……前々から気になっていたが、お前。ここに来ていること、弟は知っているのか?」
「うむ! 知っているな!!」
元気にそう答える杏寿郎に対し、夢乃は頭を押さえて顔を伏せる。
「何故……」
「実はな……あー……ここには鬼に追われた者を匿っていると、そう説明してあるのだ」
「……なんでそんなことに」
「ここに通うようになって直ぐに、掃除道具だなんだの運び込んだだろう。その時に尋ねられてな!」
咄嗟にでた言葉だったのだ、許せ──と謝罪する。
嘘が苦手な男にとって、これが限界だったのだろうと夢乃は理解し、深く、海よりも深くため息を吐き捨てた。
「せ、千寿郎には父上にも内緒にするよう言ってある。弟は素直な子だ。兄との約束は決して違えない」
「それは分かっている。問題はだ、同時に聡い子だということだ」
「うむ! 千寿郎は優しく、強く、そして聡い!! それのどこに問題があるというのだ?」
夢乃はもう一度ため息を吐きだすと、じと目で杏寿郎を睨んだ。
「聡いからこそ、お前がいう匿っている者が私だと──つまり鬼だと気づく時がくるのではないかということだ」
「君だと?」
「私が……鬼でなければなんの問題にもならない。だが私は鬼であるし、変えようのない事実だ。そしてお前は鬼殺の隊士」
鬼を狩るべき者が鬼を匿っている。
本来なら鬼殺の者にあってはならないことだ。
その事実を弟が知った時、兄に対してどのような感情を抱くか分からない。
夢乃はそれを危惧していた。
「だ、だが千寿郎は君が鬼だと分かっていながら、俺から君を庇おうとした。もし真実を知ったとしても、千寿郎はきっと受け入れてくれるだろうっ」
確かにそうかもしれないと思いつつ、それでも夢乃は心配だった。
自分が尊敬する兄が、実は鬼と繋がっていた。
それを知った千寿郎が、兄に対し不信感を抱くようになりはしないかと。
「大丈夫だ夢乃。君の本質を見抜いているからこそ、千寿郎は君を庇い、俺を遠ざけようとした。俺と君が知己の仲だと知れば、きっと安心すると思う」
「……弟のことを良く知るお前が言うのなら……そうかもしれないが」
「うむ! いつか千寿郎には君のことを話したい!!」
「はぁ?」
話すのかと夢乃は尋ね、杏寿郎が眉尻を下げて「ダメだろうか?」と尋ね返す。
夢乃は暫く考えてから、
「好きにしろ。責任は全部お前がとれ」
と答えて屋敷の奥へと引っ込んでしまった。
それを聞いて杏寿郎は満面の笑みを浮かべ、家路へと急いだ。
そして──
「うわあぁぁぁ。あ、兄上、どうしてそんなことになっているのですか!?」
「よもやっ。まだ起きていたのか千寿郎」
「あ、明日の仕込みがまだ……あぁもうっ。湯を沸かしますから、体をお拭きくださいっ。あとお召し物、さっさと脱いで寄こしてくださいっ」
「い、いやこれは俺が──」
「兄上が洗濯したら、着替えがまた減るじゃないですか!!」
と、しっかり者の弟は、兄の袴と着物を奪い取って持っていってしまった。