「よく降るな!」
「梅雨だからな。降って当たり前だ」
六月も半ばを過ぎ、関東では梅雨に入った。
三日前から雨は降ったりやんだりを繰り返しているが、そのせいで煉獄家別荘ことあばら家の前にある庭兼修行場はすっかりぬかるんだ状態になっている。
「うちの道場が使えればな!」
「集中。羅刹が途切れているぞ」
「む!? ふぅー……」
剣の打ち合いが出来ないので、杏寿郎はあばら家内で基礎鍛錬を繰り返した。
その全てを常中の羅刹状態で行う。
今は腹筋を繰り返し行っているが、夢乃は杏寿郎の足を押さえて正面に座っている。
この状態では集中を少しでも切れさせると、呆気なく羅刹の状態が途切れていた。
そして夢乃は嫌がらせのように杏寿郎へと話しかける。
「煉獄は帝都にも行くのだろう?」
「う、む!」
「この百年でこの国も随分様変わりしたな……。あぁ、お前は百年前にはいなかったんだな」
「生まれて……いないな! 江戸の時代、とは……比べ物にならないぐらい、文明が! 発達! して! いるだろう!!」
「……普通に話せ。あと集中」
「よもや!?」
会話をしながらも呼吸を持続させる。それが可能にならなければ、羅刹を完全に会得したとは言えない。
夢乃による嫌がらせではなく、これも立派な訓練なのだ。
それが分かっているから、杏寿郎は腹を立てることもなく話題に乗っているのだが。
「ふぅ──」
「そうだ。お前、鉄の塊に乗ったことはあるか?」
「都電のことか? 見たことはあるが、乗ったことはないな」
「煙を出す奴もあるだろう」
「蒸気機関車だな! 幼い頃に二、三度乗ったことがある! 弁当がうまい!! 集中!!」
杏寿郎は自分に言い聞かせ、羅刹を途切れさせないようにする。
「ふぅー……五百……」
「じゃああと五百だな」
「承知した! ところで君は蒸気機関車にも乗ったことがないのか?」
「ないな。あんな鉄の塊が、炭で動くなんて未だに信じられない」
百年以上を生きてきたが、文明の進歩にはついていけていない。
帝都に行けば何十年か前から地面に線路と呼ばれるものが敷かれてはいたが、彼女自身がそれに携わったわけではない。
突然ぽんっと出来て、突然鉄の塊が置かれて、煙を吐き出しながら物凄いスピードで走っているのだ。
「あれを初めて見た時、もののけか何かだと思った」
「ふっ……はははははははははははは」
「笑い過ぎだ」
そう言って夢乃は脇に置いた刀を掴み、鞘の先で杏寿郎の脇腹を突いた。
「はっ、止めろ!」
「集中」
「無理だ! それだけはっ」
杏寿郎が仰け反り、全力で逃れようともがく。
彼の足首を掴み、体重を預けていた夢乃は呆気なく力負けしてふわりと浮いた。
「夢乃っ」
杏寿郎は自身の足からずるりと落ちた彼女を受け止めようと手を伸ばす。
結果として夢乃をその腕に抱くことになった。
さらりと零れた黒髪が、杏寿郎の鼻をくすぐる。
杏寿郎の胸に顔を埋める形いなった夢乃は、慌てて離れようと身を起こそうとするが──それを杏寿郎が力任せに阻止した。
「お、おいっ」
「くすぐった君が悪い。これはその罰だと思うがいい」
「罰って……おいっ」
抗議の声を上げるが、杏寿郎の腕はしっかり背中と頭に回され、夢乃の力で離れることが出来なかった。
とくとくと、夢乃の耳に杏寿郎の鼓動が聞こえる。その鼓動は早く、決して平常心ではないことを示した。
「……集中」
夢乃がぽつりと漏らす。
「ふぅー……」
杏寿郎は深呼吸を繰り返し、少しずつ呼吸を整えた。それに合わせて鼓動の速度も穏やかなものへと変わってゆく。
「君も集中。常中も切れているように思えるのだが?」
「ぅ……わ、私は鍛錬している訳じゃない。お前の……面倒を見てやっているだけだ」
「ん? 俺は共に鍛錬をしようと言ったのだが。それに、さっきまで常中だっただろう?」
こんな状況で集中できるものか──と一瞬思ったが、自身が杏寿郎に集中を促していたことを思い出して舌打ちする。
それから小さく、深く呼吸を整えた。
「集中だな」
「黙れ」
「ははははは」
常中状態へと持って行くと、夢乃はそこから更に呼吸の精度を高め羅刹へ。
次第に彼女の体温が上がって来ると、それを感じた杏寿郎が「温かいな」と呟く。
「お前の体温も上昇しているのだぞ。まぁ羅刹状態になると、体温が上がるのは普通だから気にすることはない。安定すれば平熱に戻る」
「なるほど。羅刹の訓練時に暑いと感じるのは、気のせいではなかったのか」
「ずっと暑いのは、呼吸が安定していない証拠だ。私はそろそろ体温が戻る頃……」
集中し、自分の体温がどのくらいまで安定しているか確かめる。
──が。
「下がらないな」
「くっ」
「はははははは。集中、集中!」
「羅刹は切れてないっ」
「はははははは」
それから二人はどちらが先に安定するか勝負にでたが、その決着はつかず。
(温かい……この男はまるで……太陽のようだ)
とうの昔に忘れてしまった日差しの温もり。それはきっとこんな感じだっただろうと、夢乃は思う。
その日差しを実際に見れば、鬼としての本能が恐怖を感じ、逃れることしか頭になくなってしまうけれど。
「煉獄……そろそろ」
「嫌だ!」
「子供かお前は! 離せっ。汗臭さが移る!!」
「なんと!?」
夢乃を抱えたままガバっと起き上がった杏寿郎は、慌てて自身の臭いを嗅ぐ。
それから夢乃を見て、「臭うか?」と問う。
夢乃が無言で頷くと、杏寿郎は彼女を捉えていた腕から力を抜いた。
ほっと溜息を吐き、夢乃が離れる。
「しかし、今のは集中力を養うのにいいと……おも……わないか?」
「思わない」
「き、緊張の中で呼吸の精度を上げるというのは、元々鬼殺隊の鍛錬法でも──」
「ただの助平だろうがっ。調子に乗るな!」
と、夢乃は杏寿郎の頬を摘まんで、ぐいぐいを押し付ける。
「痛いっ。イタタタタタッ」
「今日はもう面倒をみてやらん! とっとと帰れっ」
夢乃は杏寿郎に背を向け、それっきり顔を合わせようともしない。
本気で怒っている。
そう感じた杏寿郎は、何も言わず大人しく従った。
「すまない」
と、そう言い残し屋敷を出て行く。
暫くして杏寿郎の気配が完全に消えると、ようやく夢乃は膝を折ってその場に座り込んだ。
両の手で顔を覆い、そこに熱が籠っているのを理解する。
「そう何度もやっていられるか……馬鹿」
降りしきる雨の中を帰宅すると、杏寿郎の姿に驚いた弟が声を上げる。
「ああ、兄上!? どうなさったのですか? 何故傘もささずに。それに」
兄の頬をじっと見つめ、千寿郎は慌てて土間へと急ぐ。
今になってずぶ濡れだと気づいた杏寿郎が、このまま上がってもいいものかと首を傾げていると、千寿郎が手拭いを二つ持って戻って来た。
「兄上、これで頬を冷やしてください。いったい何をしたのですか? 真っ赤ですよ」
「いや、これは──痛っ」
どうやら夢乃につねられた場所が、赤くなっていたようだった。
杏寿郎が受け取った手拭いで頬を冷やし、千寿郎が兄の体を拭く。
「もうこのまま稽古着を脱いで風呂に行ってください」
「分かった。すまぬな、千寿郎」
「いいですから。お風邪を引きます。早く温まってください。あ、温まると頬が痛むかもしれませんからね」
珍しくため息を吐く兄を見て、どうやら原因は想い人にあるのだろうと理解する。
(兄上の気持ちは、まだ相手の方には届いていないのだろうか……。想えばきっと伝わるという訳でもないのだなぁ)
しかし──とも千寿郎が思う。
兄は優しく、強く、立派な人間だ。そんな兄のどこが不満なのだろうかと思わずにはいられない。
自分が女子であれば、一にも二にも杏寿郎という男の想いに応えるだろうにと。
(それが出来ない訳でもあるのかな……。はっ、もしかして)
千寿郎は兄の濡れた稽古着を思わず抱きしめ青ざめた。
「兄上はどこかの人妻に恋を!?」
学び舎の女子たちの間では、その手の恋愛物語が大人気であった。