千寿郎はどうしていいか分からず、ただ黙ってある人物の姿を目で追った。
満開の桜が舞う夜に、自分を救ってくれた鬼の女──夢乃の姿を。
「ちゃぶ台」
「心得た!」
夢乃の言葉に、兄の杏寿郎は壁に立てかけてあったちゃぶ台を出して用意する。
何の用意かと言えば、朝餉の用意だ。
それに気づいて千寿郎が立ち上がる。
「て、手伝います」
「勝手が分からないだろうから、座っていなさい」
「う……はい」
確かにこの屋敷内の勝手は分からない。
掃除はしたが、土間の辺りはほとんど手をつけなかったから、皿がどこにあるのかすら分からなかった。
運ばれてきたのは白米と味噌汁、おしんこに焼き魚だ。
「釣って来たのか?」
「いや。魚屋は夜が明ける前から店を出しているから、そこで買って来た。本当は天日干しにして干物にしようと思ったのだけどね」
「む。ではあとで代わりの魚を買ってこよう」
「いや、別にいい」
千寿郎は二人の会話を聞きながらじっと見つめる。
その視線に気づいた夢乃が、柔らかい笑みを浮かべ「どうした?」と尋ねる。
「あ、あの……た、助けてくださって、ありがとうございます」
「ん。それはあの時にも聞いたな」
「あ、そ、そうでした。えっと、あの……」
何を話していいのか分からず、千寿郎は固まってしまう。
ふと視線を兄に向ければ、彼は弟に優しい眼差しを向けて頷いた。
それで思い出す。
「あ、あのっ。俺は、煉獄千寿郎と申します。貴女のお名前を聞いてもよろしいですか?」
「私の? お前、教えてやってなかったのか」
「いや、夢乃という名は教えたが、苗字までは言ってない。千寿郎も俺から聞くより、君から聞きたいだろうと思って」
「そんなものか?」
と、夢乃は千寿郎に尋ねる。
聞かれた千寿郎は、大きく頷いた。
ふ……と、夢乃は笑みを浮かべる。
それから、
「氷月夢乃だ。騙して悪かったね」
そう告げた。
千寿郎は首を振り、自分も早合点して夢乃を逃がそうとしたのだから仕方なかったのだと話す。
「兄上が鬼殺の者だし、夢乃さんと合わせてはいけないと、俺が勝手にそう思ったのですから」
「庇ってくれてありがとう。しかし君は本当に物怖じしない子だね」
そう言って夢乃ははにかんだように笑った。
と、ここで杏寿郎のお腹が鳴る。
「……お前……」
「兄上……」
夢乃が呆れたような視線を向け、千寿郎は苦笑いを浮かべる。
音を鳴らした張本人は、唇を尖らせ抗議の声を上げた。
「目の前に食事が用意されているというのに、ずっとお預けを食らわされているのだ! し、仕方ないだろうっ」
「はいはい。それでは、いただきます」
「いただきます!」
「い、いただきま、す」
そこでふと千寿郎は首を捻る。
用意された朝餉は三人前。
鬼は人間を喰い、食事はしない。
煉獄の家に生まれた者は、幼少の頃より鬼の話は聞かされて育つ。
本来であれば父からそれを学ぶのだが、千寿郎は兄から聞き、また煉獄家に伝わる鬼に関する書物で読んでいた。
人間と同じように箸を持ち、そして白米を口に運ぶ夢乃という名の鬼。
見られていることに気づいた夢乃が首を傾げ、そして理解したように笑う。
「あぁ、私はね、食べることができるんだよ」
「そ、そう、なのですか?」
「うん。味覚もちゃんとあるし、食事をしなければ空腹を覚えることもある。栄養を食事から得ているからね」
それは人間とまったく同じだと、千寿郎は何故だか嬉しくなった。
千寿郎も食事に手をつけ、すすった味噌汁は出汁が効いておりとても美味しかった。
味覚が無ければこれほど美味しいみそ汁は作れまい。
「美味しいです!」
千寿郎が感想を口にすると、向かいに座る兄も、
「うまい!」
と声を上げる。
「お前は静かに食べような」
「よもや……」
一口ごとに声を上げようとする杏寿郎に、間髪入れず夢乃が説教する。
その一連の動作が、この二人のこの光景が自然なものなのだと千寿郎に理解させた。
(出会って一年ほどだと兄上は仰っていたけれど……長年連れ添った……まるで夫婦のような)
けれど兄の想いは相手に受け入れられていない──というのを以前にも聞いている。
が、今の二人の様子にそんな感じはまったく見受けられない。
「お二人はどうしてお付き合いをしないのですか?」
それは十歳になる少年の、何気ない一言だった。
その一言に、杏寿郎も夢乃も喉を詰まらせ咽返す。
「わっ。す、すみません、余計なことを言って」
慌てた千寿郎は、夢乃の背中をさする。
その夢乃は恨みがましい視線を杏寿郎に向けた。
(こいつ。弟になんて説明してあるんだっ)
獲物を狙う猛禽類のような視線を一身に浴び、杏寿郎は戦々恐々とする。
(絶対に次の鍛錬でしごかれる)
そう、杏寿郎は覚悟した。
「兄上、すみません」
「大丈夫だ千寿郎。なに、あとでみっちりしごかれるだけだ。はははははは」
「うぅ、本当にすみません。だけど兄上、あんなに仲が良いように見えるのに……本当にフラレたままなのですか?」
弟にそう言われて杏寿郎は目を見開く。
「な、仲が良いように見えるのか?」
「はい」
こくりと頷く千寿郎の瞳は、嘘など言ってないことが分かる。
「仲の良い夫婦のようです」
「そうか!」
と嬉しそうに笑みを浮かべて杏寿郎は応えた。
が、直ぐにその脳天に平手打ちが叩きこまれる。
「なにが『そうか!』だ。変なことを弟に吹き込むんじゃないっ」
「むぅ。痛いではないか夢乃」
「痛くないだろう!」
「確かに痛くないな! はははは──」
再び夢乃の平手打ちを見舞いされ、杏寿郎は少し拗ねたように唇を尖らせる。
それを見て千寿郎は「夫婦漫才だ」と、ぽつりと漏らす。
「違う」
と、夢乃が間髪入れずツッコミ、千寿郎は思わず噴き出した。
「はぁ……あのな千寿郎。私は鬼だ。鬼であるのだから、人との色恋などあり得ないのだぞ?」
「では、夢乃さんが人であったら、兄上とお付き合いしてくださったのですか?」
「ぐっ……何故そうなる?」
「え? そういうことではないのですか?」
真っ直ぐ見つめる焔色の眼は、兄と瓜二つ。
その瞳から逃れるため視線を逸らす夢乃は、ちょうど良いものを見つけた。
「そうだ煉獄。かすていらを貰ったぞ! それにちょこれいとだ。あとクッキーもある」
「なに!? い、いったいどうしてそんな高級菓子をっ」
「先日話しただろう。時期もあるし、貢ぎ物を持って来る男がいたのだろうさ」
まさにその通りで、都会ではクリスマスにプレゼントを贈る──というのがはやり始めた頃だった。
それもあって闇医者に頼らざるを得ない高給取りたちが、珠世を振り向かせるために高級菓子や着物を貢にやって来る。
「贈り物……か。──時に夢乃!?」
「いらん。何もいらん。それで、食べるのか、食べないのか?」
「頂こう!」
言葉を遮られた杏寿郎だが、これまで口にしたことのない菓子を見せられ、意識はすっかりそちらへ。
その隣で千寿郎がため息を吐く。
「兄上……食べ物のことになるとこれだから……」
そんな千寿郎に、夢乃が「どうする?」と尋ねた。
「い、頂きます!」
こちらもまた、元気な声で返事をするのだった。