「千寿郎、今帰った」
「兄上!? お、おかえりなさいっ」
まだ陽も昇らぬうちから、千寿郎は帚を手に持って家の門前の掃除をしていた。
この季節は落ち葉に悩まされることはない。
それでも毎朝こうして早い時刻から掃除をするのは、兄の帰りを心待ちにしているからだ。
「お勤め、ご苦労様です」
「うむ。お前が留守を守ってくれるので、兄は安心して任務に励めるぞ」
「る、留守を守ると言っても、ここに鬼が出る訳ではありませんから。そうだ、朝餉の用意を」
急いで駆けだろうとする弟を、兄がその手で優しく頭を撫でて制する。
「すぐに休む。にぎりめしがあればそれでいい」
「夜の間ずっと巡回をなさっていたのですか?」
「鬼は夜行動をする。日中では意味がないのでな」
日の当たらないどこかに隠れている鬼を見つけ出すのは難しい。
殺気も、鬼の気配も隠しているのだから。
「分かりました。すぐご用意いたします。兄上は汗をお流しください。あ、夢乃さんは?」
「夢乃なら林の家に戻った」
「そうですか。では後で何かお届けします。兄上も一緒に行かれますか?」
「いや、俺は休もう。休まず出かけていたら、またどやされるだろうからな」
確かに──そう言って千寿郎は笑った。
二人は煉獄家の門を潜って家へと入ると、千寿郎は台所へ、杏寿郎は自室へと向かった。
羽織と隊服の上着を脱ぐと、手拭いを持って庭にある井戸へと来ると、水を汲み上げ体を濡らす。
「ふぅ……今日も暑くなりそうだ」
東の空に太陽が昇る。
一日の始まりを知らせる朝焼けは、鬼狩りにとっては一日の終わりを知らせるようなもの。
その太陽を背に、杏寿郎は桶の水を頭からかぶるのだった。
「夢乃さん、帰って来てますか?」
千寿郎は風呂敷包みと、竹の水筒を抱えて山林の屋敷を訪ねていた。
いつもは締め切られている雨戸が、今は開け放たれている。
「帰っているぞ。どうした、千寿郎」
襖の奥からひょっこり顔を出す夢乃だが、その襖から手前には出てこないようだ。
陽光の差す境界線のようなものだろう。
「あの、素麺を持って来たんです」
「素麺?」
「それと枇杷も」
千寿郎が中へ入ると、ほんのりと風が吹き抜けなかなかに涼しい。
もとより屋敷の裏手は竹林になっており、日陰も多く風通しさえ良ければ夏でも快適に過ごせる。
「意外と涼しいですね」
「風が吹けばな。こうでもしていないと、暑くて敵わん。陽が暮れるまで水浴びは出来ないし、陽が暮れたら暮れたでお前の兄上がこっちに来るだろう」
「あぁ……兄上には、今夜は遅い時間まで、こちらに行かないようにと伝えておきます」
「そうしてくれ」
素麺を茹で、冷たい井戸水で枇杷を冷やし、それを二人で食べる。
昼食の時間だが、杏寿郎はまだ眠っていた。
久方ぶりの実家で、安心して眠っているのだろう。
「あの……夢乃さんは、その……最終選抜……いつ受けられましたか?」
「ん? んー……十五だったか。一年ほど育手の下で修業して、それからだったな」
「育手……やはり育手の方の下で修業してからの方がいいのでしょうか」
本来であれば、それは父の槇寿郎が担うはず。
だが酒浸りで、柱となった兄の杏寿郎ですら、今の千寿郎の年には独学で鍛錬を積んでいた。
そして兄は柱となったため、以前にも増して忙しい。
千寿郎に鍛錬をつけてやれる状況ではない。
自分も早く鬼殺隊士に──そう思う反面、今の自分では最終選抜で生き残れないとも思っている。
「千寿郎。お前は今いくつだ?」
「え? 歳ですか? 今年で十二になりますが……」
「そうか。ならまだ早いだろう。そう急くな」
「でも……」
確かに兄の千寿郎も、最終選抜を受けたのは十五の歳だ。目の前の夢乃もそうだと言う。
十五より若くして最終選抜を受ける者もいる。だが十五を過ぎて受ける者もいる。
だから焦らなくていい。
そう夢乃は彼に説いた。
「七日間、鬼の住む山に籠ることになる。体力と忍耐力が重要だ。十二なら体力面が心もとない。こればかりは歳を取らねばどうにもならぬことだ。焦らず、時が来るのを待ちなさい」
「……は、い」
「お前が十五になるよりも前に、鬼舞辻が倒されるかもしれないしな」
「兄上ならきっと! ……やっ、でも……それは……」
それは同時に、夢乃の消滅を意味する。
鬼舞辻無惨の死は、全ての鬼狩りの、そして鬼狩りを生業とする者に近しき者の悲願だ。
なのに手放しで喜べないのは、夢乃という存在がいるからだろう。
自分を思って悲しんでくれる少年を、夢乃はそっと胸に抱く。
「鬼のいぬ世界が、何百年と続く鬼狩りの悲願だ。私にとってもそうであり、そのために命を落とすことは、何も私でなくてもみな覚悟の上だ。だから悲しむな──とは言わない。せめて後悔だけはしないで欲しい」
「夢乃さん……」
だけど存命を願うのはいけないことなのだろうかと、千寿郎は思う。
その方法を探すこと。それも願ってはいけないのだろうかと。
暫く千寿郎と夢乃は、土間に置いた井戸水を入れた桶に足をつけて涼をとる。
そして巡回の間の出来事を、夢乃は千寿郎に語って聞かせた。
自分の知らぬ兄の話が聞けることが、千寿郎には有難かった。
そうして時間が過ぎていき、やがて──
「千寿郎、夢乃、いるか?」
話題の人物の声が聞こえた。