「鼻が利く?」
「はいっ。俺、昔から鼻が凄くよくって、それでニオイで相手がどんな人なのかも分かるんです。夢乃さんは、すごく優しいニオイがします」
「は? いや、や、優しいとか、そういうのはニオイではないだろう?」
突然のことに夢乃は赤面する。
二人は暗い山道を下り、まもなく麓へ到着しようとしていた。
「分かりますっ。あ、でも、ずっと同じニオイじゃないですよ。怒ったり悲しんだりした時は、違うニオイがしますから」
「え……」
分からない。夢乃には炭治郎の言葉の意味がさっぱり分からなかった。
人、いや、生き物というのは、感情によってニオイが変わるのだろうかと本気で悩んでいる。
「あ、鱗滝さんの家は、あそこです」
炭治郎が指さしたのは、山を下って少し行った先の小さな民家だ。
周りには他に家はなく、この一軒だけがぽつんと建っていた。
家の前には人影がある。
自然と炭治郎は夢乃の背中へと隠れてしまった。
が、すぐに思い出す。
「夢乃さん、ここまでありがとうございました。俺の事はいいので、逃げてください」
「逃げる? なぜ」
「鱗滝さんは凄く強いです。凄く。だから」
だから夢乃が首を斬られてしまう。
そう思って炭治郎は逃げるように伝えた。
「私を心配してくれているんだね。大丈夫。私は君のお師匠に後れを取るほど、弱くはないよ」
「でもっ」
「それより、禰豆子と言ったね、君の妹さんは。その子に会ってみたい」
「禰豆子に、ですか? でも禰豆子はずっと眠ったままで」
構わない。
そう言って夢乃は歩き出す。
炭治郎は心配になって鱗滝のほうを見るが、その影はまったく動いていない。
ただじっとこちらを見ているようだった。
やがて戸口から漏れる明かりによって、鱗滝の姿がはきり見える距離までやってきた。
その顔には能のような面を付けているため、表情は分からない。
だが、不思議なことに鱗滝からは怒りでも恐怖でもない、不思議なニオイがすると炭治郎は感じた。
(鱗滝さん、怒ってはいないようだけど)
「あんな山に子供をひとり置き去りにして、鬼に喰われでしたらどうするおつもりか?」
先に声を掛けたのは夢乃のほうだった。
「その時はその時」
感情の読み取れない返事をし、鱗滝が動いた。
「炭治郎。中に入っていなさい」
「で、でも鱗滝さん」
「炭治郎っ」
語気を荒げた鱗滝だが、炭治郎にはそれが怒りではなく、自身を心配する優しさのように聞こえた。
「炭治郎、心配ない。中へ入っていなさい」
「夢乃さん……分かりました」
炭治郎が渋々と家の中へと入ると、鱗滝は戸を閉めた。
炭治郎の耳に、鱗滝の足音が聞こえる。すぐに二人が遠ざかる音が聞こえ、やや不安になった。
「あの頃とちっとも変らぬ」
「鬼なのだから、年を取ることはない」
「あの者は鬼殺隊の選抜試験を受けるために、修行をさせているところ」
「育手になったのか」
「はい」
夢乃と鱗滝は、家から離れた場所で話をしていた。
二人は一度だけ、顔を見合わせたことがある。
僅かに刀を交えもしたが、それは鱗滝が一方的に仕掛けたこと。
彼がまだ若い頃、水柱になるよりも前の事だ。
町で鬼狩りをしていた際、狩るべき鬼を横取りした相手が夢乃であった。
鱗滝も炭治郎ほどではないが、鼻が利き、気配以上にニオイで相手が鬼であるとすぐに察した。
だが同時に、人を喰らう鬼とまったく別のニオイもあって困惑したほどだ。
「炭治郎の妹は、鬼にされたと聞いた」
「はい。ただわし自身、あの子が目を覚ました姿を一度も見ておりませなんだ」
「ずっと眠っているのか?」
鱗滝が頷く。
「ふむ。私も、血鬼術を使って多量に血を流した後は、何日か眠ることはある」
「さようで? 鬼は眠らないものだとばかり思っておりましたが」
「私が知る限り、私以外で眠る鬼なんて知らないな」
だから禰豆子に会おうと思ったのだ。
自分と同じように、鬼舞辻無惨の支配を受けない鬼なのかどうか。
もしそうならいいが、支配されたままであれば危険だ。
「眠ったままでいい。会わせて欲しい」
「会って、どうなさいますか?」
「無惨の支配を受けているのかいないのか、確認する必要がある」
「もし支配されていたならば?」
その時は、兄妹を引きはがすことになる。
命を奪おうとは思わないが、どこかに監禁して人を喰らわぬようにしなければならない。
果たしてそれが可能かどうかは、分からないが。
「これまで人は喰っていないと聞いた。本来なら、鬼として目覚めた時が一番空腹を覚えているはず。その時に身内が傍にいれば、真っ先にその血肉に飛ぶ点くのだが」
「妹以外の家族は、みな無惨に殺されたようです。妹だけが生きて、鬼に変えられたと」
「じゃあ、誰も食べていないというのは本当なのか」
「はい。喰っておりません」
だとすれば、無惨に支配されている可能性は極めて低い。
そう考えて、夢乃は改めて鱗滝に乞う。
「禰豆子に会わせて貰えるか?」
鱗滝と夢乃が戻って来た時、炭治郎は安堵したのと同時に驚きもした。
鱗滝の正体について、鬼殺の者を育てる人物だとは聞かされている。
恐らく、若い頃にはその鬼殺隊の者だったのだろうことも想像出来た。
そんな鱗滝が、鬼と肩を並べて家の中へ入って来たのだ。
驚かない方がおかしい。
「鱗滝さん」
「禰豆子をこの方に会わせる。よいな?」
「あ、はい。俺は構いません」
奥の部屋で眠る禰豆子の下へ、夢乃を案内する。
妹の禰豆子は、鬼が近くにやって来ても眠ったままだ。
「炭治郎、禰豆子に触れてもいいだろうか?」
「え、別に構いませんよ。わざわざ俺の許可を取らなくたって」
「そうはいかない。この子は君にとって大切な妹なのだろう?」
「そ、そうですけど。でも夢乃さんは女の人ですし、いいですよ。男なら許しませんけど」
ふんっと鼻を鳴らす炭治郎を見て、夢乃はふっと笑った。
それから禰豆子の手を、まるで脈でも測るかのようにして取った。
「いい知らせがある」
「はい?」
「この子は無惨に支配されていない。初めからなのか、途中からなのか分からないけど」
「鬼舞辻無惨の支配を受けていない鬼……あなたと同じということですかな?」
鱗滝の質問に、夢乃は首を振った。
分からない、と。
「そもそも私の場合は、無惨に与えられた血が少なすぎて比較対象にはならない」
「無惨の血が、少ない?」
炭治郎の言葉に、夢乃は彼の頭を撫でながら頷いた。
自分の中にある無惨の血は、僅か一滴しかない。そう説明する。
「たった一滴でも鬼になるんですか!?」
「あぁ、そうだよ。この子は与えられた血の量が少なかった訳じゃない。私とはまったく別の理由で、支配を免れたのだと思う」
もしかすると免れたのではなく、自ら支配から逃れたの顔しれない。
そうは思っても、ここでは口にすることを控えた。
「いつ、目を覚ますのでしょうか」
「そうだね。鬼になったのはいつ?」
「今年に入ってから、山に雪が積もっていた時期です」
半年以上は経っている。
禰豆子が眠りについたのは、鬼になってすぐではない。
最初は起きていた。そして暴れもした。
炭治郎は禰豆子が眠るまでのことを夢乃に聞かせ、その話で出した彼女の結論が──
「暫く目覚めないだろう」
「ど、どうしてですか!?」
「人は鬼になるとね、物凄く飢えを感じるものなんだ。だから鬼と化してすぐは完全に自我を失くし、ただ血肉を求めて身近な物を喰らう」
自分の血に近しい者こそ、食欲をそそられると夢乃は話す。
喰わねば飢餓状態になり、より狂暴化が増すとも。
だが禰豆子は身内は愚か、とにかく喰らっていないのだ。
その状態で冨岡と戦い、血を流し、更には鬼によって体を欠損させられている。
欠損部分は再生したが、眠りについたのはそれからだ。
「極度の飢餓状態で、更に血を消費している。回復するには、本来ならば血肉を摂取するのだが……」
「ご、ご飯じゃダメなんですか?」
懇願するような炭治郎の言葉に、夢乃は首を振った。
彼女は食事をする。
だが鬼は本来、食事とは人間を喰うこと。
夢乃が普通ではないのだが、禰豆子が同じであるとは考えにくい。
実際、炭治郎も最初は禰豆子に襲われたと言っていたが、夢乃は最初から自我を持っていた。
そこが禰豆子と夢乃の大きな違いでもある。
「私とて、やや血を失った場合には眠ることがある。ほんの数日だから、禰豆子とは比べようがない」
「禰豆子は違うから、眠ると長いのですか?」
「うーん、なんて言えばいいのか。比較対象が皆無だから私の主観でしかないのだけれど。他の鬼と近い状態で目覚め、だけど何かが原因で変わってしまった。君にとってはいい方にね。だけどそれは、鬼の生体としては、よくないこと」
鬼になろうとする因子と、そうなりたくないという因子とが、禰豆子の中で攻め合っている。
失った血を回復させるために、そして相反する因子を鎮めるため、禰豆子は深い眠りについている。
その為に長い時間、眠りについているが心配ないだろうと彼女は言った。
「目覚めた時には、ちゃんと妹の禰豆子になっているだろう」
それは夢乃にとって希望でもあった。
だがそう伝えることで、この少年の力となるなら──
「はいっ」
夢乃の言葉に、炭治郎は屈託のない笑みを浮かべて返事をした。