シャングリィラの純白   作:四ッ魔ヶ刻

2 / 3
____回想____
ふりむくな
ふりむくな
うしろには夢がない
____________


愚鳥ドド、芋虫シーシャ

どれ程の時間をこの国を巡る旅に費やしたのだろうか。自らの脚で渡り歩いたからこそ、不思議の国「ワンダーランド」の広さを痛感する。疲労で軋む私の脚がこの国の広さを物語っていた。しかし、歩けども歩けども、私の求める愛しい少女、アリスは一向に見つからない。かつて、この森でアリスの姿を見たのだか、巨大な茸の陰に隠れたきり、再び目にする事は叶わなかった。そして私はこうして再び胞子の森を訪れているが、やはりアリスの姿は何処にもない。あれは胞子が悪戯に顕した幻覚だったのだろうか。いつか再び会えると願い当てもなく彷徨う旅。其れは宛ら砂漠でオアシスを求めるが如くの事だ。アリスは何処に行ってしまったのだろう、徒労に塗れた息と共に口から零れた言葉は自身で聞いても情け無いものだった。

「すぅー……。なんだ、わざわざ知人を紹介してやったというのに、まだアリスを見つけられないでいるのか。」

厭に鼻につく息を吐きながら、ゆったりとシーシャが返す。水煙草を嗅ぐのは初めてではないが、どうにもこの香りには慣れそうに無い。

「ふふん!アリス探しもほどほどにして、君も我が輩のコーカスレースに参加してみてはどうかね?」

ドドは普段に増して口調が得意気に帯びている。シーシャを眼前にしていると、いつもこうなのだ。

「…ヴァルクフォーゲル、今日は一体何の用で来たんだ?」

「一人で居てはシーシャさんの気も塞ぎ込んでしまうだろうと思って、我が輩がこうして直々に会いに来たのだよっ!」

「……は。余計なお世話だというのに。」

シーシャの握る煙管が紫煙燻らす。彼女は私やドドに目を向ける事無く、煙を啄み続ける。

 

この日、私はドドと共にシーシャの住処である胞子の森を訪れていた。この森は吸い込んだ者を幻覚で惑わす胞子が其処彼処に飛び交っている。霧の様に立ち込める胞子を超えた先で、シーシャは決まっていつも水煙草を吸っているのだった。私達は彼女にあまり歓迎されていない様であったが、それでもこうして時折ではあるが彼女の下へ通い続けるのである。この森の中は真偽の付かない虚像に塗れている。それでもシーシャだけは確たる存在だ。私はシーシャを見ているだけで些かの安堵を覚えるのだ。それはドドも同じ様で、先程もシーシャを見つけるや否や手を振りながら自慢の脚力で駆け寄って行ったのであった。そんな彼女を私は胞子のせいかおぼつかない足取りで追い掛ける。普段の調子であった。

 

「…しかし、コーカス・レースとやらは置いておくとして、わしもこれ以上のアリス探しの旅は賢いと言えないな。」

珍しくシーシャの方から口を開いたと思えば、私への侮蔑とも取れる話を切り出し始めた。

「…公爵夫人を頼ってもなお、何の手がかりもないのだろう。加えて、あんたの記憶まで無いときた。こんなにも無謀な旅をいつまで続ける気なんだ?」

茸に跨るシーシャが見下ろす形で言葉を投げ掛ける。皮肉にも聞こえるが、彼女の助言は何時にしても的確なものであった。

「…人間と云うものは本来はもっと開放的であるべきだ。社会の責任や他者のしがらみに縛られるべきではない。かつて、アラン・スミーシー監督がそう願った様に。」

シーシャの言葉が何を意味するか汲み取る事が出来ないが、彼女がいわんとしている事は理解できる。私に「一人で生きろ」と、そう指南しているのだ。すぅと息を吐くシーシャの視線は焦点が定まっておらず、何処か遠い目をしていた。文字通り、彼女は息をする様に煙管を吸い続ける。

「…わしにはあんたが如何してそこまで他人に縋ろうとするのか理解に苦しむね。」

たった一人の肉親を、気紛れで見捨てるなんて、出来るはずがないだろう。そんな所業が出来る人間など、外道に他ならない。思わず荒声を挙げそうになる。しかし、孤独を愛する彼女に理解出来る話では無いと、何処か冷静になる自分がいた。

「まあまあシーシャさん、あまり彼を責めないでやっておくれよ。こう見えて彼はとても繊細なんだ。」

口を閉じたままで居る私を、ドドが慰める。

「すぅー……ヴァルクフォーゲル……。元はといえば、おまえからアリス探しの旅をやめる様に言い始めたんだろう。」

そうだっけ、と首を傾げるドドを尻目にシーシャは煙管の先を私に向ける。黄銅の放つ光に、ちりと私の眼が焼かれる。

「…過去の記憶を失ってもアリスだけは忘れなかった、ねぇ。全く、随分と泣ける話じゃないか。」

そう語るシーシャの声は何処か気怠さを帯びていた。よくも思ってもいない事を易々と口にできるものだ。私はシーシャの眼が充血しているのは少なくとも涙が原因でない事を知っている。

 

シーシャの言う通り、私にはかつての記憶がない。生まれの国も、何をして生きたのかも。自らの名前を語るときでさえ、過去の不鮮明さからか張りぼての様な嘘臭さが纏わりついていた。そんな私がただ一つ憶えていたもの。愛おしい少女。アリス。名前も顔も鼻を蕩かす柔らかな香りさえ、鮮明に思い出せる。アリスは私に残された唯一の記憶であり、同時に失ってしまった家族でもあった。私はこの地で失ったものを取り戻さなければならない。私は信じている。アリスがこの世界の何処かいると。この地でアリスとの再会が叶えば、愛しい少女も、自分が何たる存在であるかも、その全てを取り戻す事が出来る。確信が何処から出たものなのかは分からない。それでも私は信じて旅を続ける。無力な今の私に出来ることなど、信じる事を除いて何も残されていないのだ。

「ふふん!物忘れの不憫さは誰よりも博識な我が輩が一番に理解してるとも!…して、その記憶というものはそれ程までに大切なものなのかい?」

それは、今の私には答える事は出来ないだろう。失ったものがどれ程大切か、その答えを何より求めているのは私だ。アリスが大切故に過去の記憶を求めるのか、それとも記憶が重要であるが為にアリスを求めているのか。そんな事も判らぬままこれまで旅を続けてきた。ただ、明らかなのは鶏が先か卵が先かを気にした所で無為な労力を費やすのみという事だ。

「んなぁ?!た、『卵』だなんてそんな破廉恥な事を急に言い出すんじゃないぞ!」

卑しい事を口にした覚えは無いのだが。ドドは紅潮した顔を羽で覆い隠す。その傍でシーシャは酩酊に身を任せて居るのだった。慣れた手付きで黄銅の煙管を口元に運ぶその仕草に、私は何処か病的なものを感じずには居られなかった。彼女はかつて2100万年もの間を生きてきたと口にしていた。それ程までに果てしない時を得て、何故彼女は森の深くで一人薬に溺れる事を選んだのだろう。彼女が人生の中で導き出した結論が今の退廃した彼女の姿なのだろうか。

「…生きた時間など関係ないだろう。実際、わしもこれまで多くのものを見てきたがその殆どは忘れてしまったからな。」

シーシャに心の内を知られた様な発言を受け思わず身動いでしまう。思えば、シーシャに初めて会った際も何故か彼女は私がアリスを探している事を知っていた。心を見透かされた私はその時焦りに近い感情を覚えていた。如何して、そんな事を今頃思い出したのだろう。

「…忘れられた記憶や時間に、果たして長短の概念は存在するか?逆説的に、失った過去の時間は刹那であり永久であるとも捉える事が出来る。」

私はシーシャの話と似た様な話を知っていた。とある学者の思考実験。死んでしまうかもしれない猫を不透明な箱の中へと入れる。するとその箱を開け放つまで、中では生きている猫と死んでいる猫がそれぞれ存在しているという例え話。数多の学説に異を唱える為に学者が生み出した机上論。そんな話を何処かで聞いた事があった。

忘却の果てに葬られた時間には刹那と永久が混在している。何の裏付けもないおかしな理論。しかし、学者の実験は量子力学の誤りを指摘したが、シーシャの話を妄言だと切り捨てるには私の中に決定的な根拠が欠いていた。生と死、刹那と永久。不確かな存在でしかないのに組み付けられる相互は宛ら背中合わせのシャム双生児の様だと、話の半ば、そんな事を考えていた。

「…昔を憶えていない事を嘆く必要はない。忘却は心を持つ生き物のみに許される特権なのだから。そう思わんかね?」

シーシャなりに、私を慰めてくれているのだろうか。何時もの如くその顔は倦怠の色をしているが、言葉の端に優しさを感じる。

人間には忘れる力が備わっている。心が躍る程に嬉しい出来事も、胸が張り裂ける程に悲しい出来事も、いつかきっと忘れてしまう。過去の積み重ねによって成長する人間が時にはその過去を切り捨ててしまう。人生とは何時だってそんな齟齬を孕んでいた。

私は。

自らの半生を失ってしまった私は、果たして人の心を持ち合わせて居るのだろうか。

「…あんたが忘れた過去っていうのは、本当はただ忘れたかっただけなのかもしれないね。」

 

血涙の池への帰路は随分と重苦しい空気を伴っていた。どれだけ進んでも景色の変わらぬ森の道は気が遠くなる程に長い。実際、行きは駆ける様にシーシャの元へ向かったので、歩路が長く感じられるのは当然の事だった。俯いたまま歩くドドは先程から何も口にしない。こんなにも弱々しい彼女を見るのは此れが初めてであった。身も心も険しい森の帰りは初めてでない気もするが、仔細までは思い出せない。

「…シーシャさんは」

重い口を先に開いたのはドドだった。

「シーシャさんは我が輩の事を嫌悪しているのだろうか…シーシャさんの言う通りに我が輩はもうシーシャさんと会わない方が良いのだろうか…。」

私は初め、ドドとシーシャの関係を犬猿の仲の様だと思っていたが恐らく其れは違うのだろう。彼女らは別の世界に生きており、見える景色が異なっているのだ。現に浅慮なドドは知識を蓄えようとするが、博識なシーシャは忘却が本質だと説いていた。相容れぬのではなく、反りが合わないのだ。彼女らの価値観の間に歪が生じている。ドドやシーシャ、そして私でさえ他者の価値観を受け入れる事は非常に困難であり、人は其処に心の隙間を感じてしまう。おそらくシーシャは人一倍、この隙間を忌み嫌っているのであろう。それ故に、彼女は2100万年もの間をたった一人で過ごして来たというのだろうか。シーシャは私の旅を理解出来ないと言ったが、私が何処かシーシャを理解出来ないで居るのも事実であった。

『人間と云うものは本来はもっと開放的であるべきだ』、先のシーシャの言葉が頭を過る。

確かに人は一人では生きてゆけない。何時であろうと他人を求めて、誰かと手を取り合いながら生きていく。しかし他者と一つになる為に、其の手と手を繋いだとしても、人と人の境界線が顕になるだけだ。肌と肌は同一には成れない。心だって同じだ。一人きりでは生きて行けないが、独りにしか成れない。人間とは何と孤独な生き物なのだろう。そんな生き物が群を成したとしても何も変わらないというのに、何故自身と違う何かを探し続けるのだろう。考えを巡らせれば巡らせるほど、寂寥に押し潰されそうになる。答えの無い問い掛け。やがてその問いの矛先は自分へと向けられる。

ならば私は、何故今もなおアリスを探し続けるのだろう。アリスに再び逢えたとしても、私は独りのままでしか居られないのだろうか。

成就した恋ほど語るに値するものは無いと言われ続けたのは、この孤独こそが所以なのかもしれない。

けれども。

そうだとしても。

私には信じる事しか出来ない。

ドドの手を取る。ふわふわとした羽毛に指先をくすぐられるも、私は力強く彼女の手を握り締める。驚いた様に顔を上げたドドに、私は言った。

シーシャさんはね、実は寂しがり屋なんだ。素直になれないだけで、本当はもっと誰かと一緒に居たいと思っているんだよ。だから____また二人で会いに行ってあげよう。

親が子を諭す様に、語り掛ける。ドドははにかんだ表情を見せたと思えば、照れを隠す様に再び俯くのだった。素直になれない点だけは、ドドとシーシャで似ているのかもしれない。そんなことを考えていたら、くすりと私の頬も緩んでしまった。

「君は昔の事を忘れちゃって寂しいのかもしれないけど…」

私の手を握るドドの力が強くなる。

「わたしやシーシャさんのことをずっと憶えて居てくれたら、きっともう、寂しくないよ…。わたしも君のこと忘れないから…。」

ああ、忘れない。きっと、忘れるものか。

人が忘れる運命に立たされて居るとしても、愛すべき君を、何時迄も憶えていよう。

不明瞭な過去と将来。私のそれは、余りにも不安定で、答えに手を伸ばせば忽ち壊れてしまいそうな繊細さを孕んでいた。

 

それでも。今だけは、ドドが私の手を握り返してくれる。掌に伝わる暖かさを感じられるだけで、其れだけで充分だった。




____回想____
私には、忘れてしまったものが一杯ある。だが、私はそれらを「捨てて来た」のでは決してない。忘れることもまた、愛することだという気がするのである。
____________
























※前書き及び後書きには寺山修司作の「さらばハイセイコー」、「ポケットに名言を」より一部を抜粋しています。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。