魔法使いと黒い太陽   作:水代

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一話 黒い太陽と空虚な都

 

 

 

「世の中望んでも叶わないことなんていくらでもある。けどよ、だからって望まなきゃ何も始まらないぜ。それは意思であり、意志だ。口に出し言葉にして、そうして実際に行動に移して初めて願望だ」 by向坂仁

 

 

 

 

 

 絶体絶命だった。

 前から蛇、後ろからは犬…………のようなもの。

 断定できないのは、俺自身の十七年分の知識の中であんな生物を見たことが無いからであり、最も近いものを挙げるならソレ、と言うだけである。

 

 日本では吉兆とされる白い白い蛇。だがそのサイズがビル一つに巻きつけるほどとなると最早ホラーでしかない。

 蛇とは対照的に真っ黒な毛並みをしたゴールデンレトリバーのような犬。だがそのサイズは蛇と同じく小さな家一つ分程度にはある。

 

 分けが分からなかった。

 自身は先ほどまで確かに普通に学校で授業を受けて、放課後少し寄り道して帰るかと考えながら帰り道を歩いていたはずなのに。

 

 気づけば、ここに迷い込んでいた。

 

 シン、と静まり返った街。現実の世界を反映したかのような景色だが、その中に人の姿は無い。人が作り上げた人のための街なのに、けれどその中に人の姿が無いことがあまりにも奇妙であり、怖気が走った。

 異様と言えば異様な光景。だがそれでも空にあるソレに比べれば、まだマシだったのかもしれない。

 

 空に浮かぶ、黒い太陽に比べれば。

 

 それに比べれば地上のどんな光景もまだマシだった。それは空と言う目立つ場所にあって、一際異彩を放っていた。

 初めは空に黒い穴が開いているように見えた。だが次第にそれが違うことに気づき、やがて気づく。それが太陽であると言うことに。

 黒い、黒い、一切の光を放たないはずの黒い太陽。けれどそれに照らされた地上は明るさを持っており、俺のちっぽけな頭脳ではあまりにも不可解なその光景に、即座に理解を諦める。

 だがそれで正解である、あまりにも理不尽で、あまりにも不条理なこの世界を、ただの人の身で理解しようなど無謀にもほどがある、それを知ったのはもっと後の話であるが。

 そうして空の異様を眺めていた俺の元に、あまりにも突然、それは現れた。

 それは影だった。自身の覆うほどの影。建築物ほどに巨大なけれど動く影に、目を見開き振り返る。

 そこにビルに巻きつき、眼下を睥睨する何かがいた。

「………………………………はっ?」

 見たことも無い、否、存在するはずも無い。そんな感想を抱くソレは蛇だった。全長三百メートルを越しそうなほどの超巨大な白い蛇。

 チラチラとその口から鮮血のように赤い舌を見せながら、こちらを見る蛇に思わず思考が止まったのは無理も無かったはずだ。

 蛇が巻きついたビルからゆっくりと胴を動かし、降りてくる。

 数瞬の思考の空白、そして動き始めた思考。

 踵を返した、何の躊躇も無く。

 頭の中は混乱しきっていたが、けれどそれでも分かることがある。

 あのままあの場所にいれば俺は死ぬ。

 いや、このまま逃げたところで逃げ切れるかすらも分からない。

 だがそんなことは関係ない。

 

 ただ恐ろしかった、ただ死にたくなかった。だから逃げた。

 

 自身の後方で音がする。あの巨大な蛇が這う音。道中の障害物を壊してこちらにやってくる音。

 ただ怖かった。ただ背筋が凍った。ただ死にたくなかった。

 叫びたくなる衝動を抑えただけでも大したものだったのだろう。

 足を止めなかっただけでも大したものだったのだろう。

 ただ、ただ、圧倒的だった。

 圧倒的な恐怖。圧倒的な死。逃げることなど果たして可能かどうか。

 

 逃げて、逃げて、逃げた先で…………。

 

 そうして再び絶望が襲い掛かる。

 

 そこにいたのは犬だ。蛇とは対照的に真っ黒な毛並みをしたゴールデンレトリバーのような犬。だがそのサイズは蛇と同じく異常であり、小さな家一つ分程度にはある。

 そんな化け物が、街角に建てられた一軒家の向こう側から姿を現すのが見えた。

 足を止める。後ろからは蛇が未だ追いかけてきている。けれど進んでも前方には犬の化け物。

 犬の化け物がのそり、のそりと歩いてくる。

 

 その視線が…………俺と…………ぶつかる。

 

 瞬間、犬の化け物がその巨大な口を開き、牙を剥き出しにする。

 敵だと思われているのか、それとも餌だと思われているのか。

 どちらにしても殺意アリアリのその様子に、これ以上進むことはできず。

 

 絶体絶命だった。

 

 前方から犬の化け物。

 後方からは蛇の化け物。

 

 どちらも自身を殺す気満々であり、このまま立ち止まっていては十秒もしない内に殺される。

 

 だが、どこへ行けばいい?

 

 どこまで逃げればコイツらから逃げ切れるのだ?

 

 呼吸は荒い。当たり前だ、こんな状況でずっと全力疾走を続けてきたのだ。

 

 本当に逃げ切れるのか?

 

 そんな疑問が鎌首をもたげる。

 瞬間、恐怖に抑えつけられていた、生存本能が見ないようにしていたその疲労が全身を襲い、体を鉛のように重くする。

 不味い、そう思った時には既に遅かった。全身に広がった疲労が一気に体中の力を抜き去っていき、ストン、膝が崩れる。すとん、と尻餅を付き、立ち上がろうとしても力が入らない。

 もう蛇も犬もどちらの化け物も数秒後には自身に追いつく。今から立ち上がって逃げていはもう間に合わない。

 

 終わった、そう思った。

 

 こんなわけの分からない場所で、わけの分からないままに、わけの分からない生物に殺されて自身は終わるのか?

 

 それは…………嫌だった。

 

 と、その時。

「……………………」

 どこかから聞こえた声。そして突然周囲に立ち込める霧。

 そして。

「…………こっちだよ、早く」

 あっという間に周囲が見えなくなると同時に聞こえた声に、即座に立ち上がって、ちらりと見えた影に向かって走った。

 走った。もう走れないと、そんなことを考える余裕の無いくらい、目の前の生にしがみついた。

 必死に目の前に走る誰かの存在を追いかけた。それが誰かは知らないが、さっきの怪物たちよりかはよっぽどマシだ。少なくとも人の形をしているのだから。

 そうこうしている内に、徐々に目の前の誰かの足が遅くなってくる。それに合わせるように自身も足を止める。

 二人分の荒い息が静かな街に響く。

 何かの事務所のような建物の非常階段に座りこみ、ぜいはぁ、と荒い息を吐きながら二人してしばらくの間言葉を発することすらできなかった。

 やがて呼吸が整ってきたころ、先に端を発したのはもう一人の誰かだった。

「大丈夫だった? 怪我とか無い?」

 聞こえたその声に驚く。だってそれは、少女の声だった。影だけでは分からなかったが、どうやら自分の助けてくれたのは少女だったらしい。

 気づけば霧が大分薄れて、目の前の少女の姿がはっきりと見えてくる。

 十六、七…………ちょうど俺と同じくらいの年頃の少女に見える。淡い栗色の長い髪を三つ編みにし、白のTシャツと黒いスカートを着ており、眠そうに見えるやや垂れた両目が愛嬌を振りまいていた。

 美人、と言うより可愛らしいと言ったほうがよさそうなそんな少女に少しだけ驚く。この不可思議な世界にあまりにも不釣合いな存在。そのギャップに、少しだけ思考が凍ったのだ。

「えっと? 大丈夫? どこか怪我でもした?」

 そんな俺の様子を深読みしたのか、自身の体のあちこりを注意深く観察し、どこか怪我でもあるのか、と視線を寄越す少女に、慌てて首を振る。

「あ、い、いや。大丈夫だ…………えっと、助けてくれてありがとう?」

 助けてくれた、のだろうか? 多分そうなのだろうと思うが、どうしてか語尾が疑問系になった。

「あーうん…………そうだね。まあ無事なら良かったよ」

 少女は自身が無事だと分かると、少しだけ表情を緩める。

 けれどすぐさまハッとなって、俺の肩を両手で掴んでくる。

「ねえ、ところで聞きたいことがあるんだ」

「な、何だ?」

 間近に近づけられる整った顔に、思わず仰け反りながら応えると、少女が至極マジメに顔で言う。

 

「ここはどこ? 私は誰?」

 

 

 * * *

 

 

「イサ」

 女の呼び声に、イサと呼ばれた若い男が振り返る。

「見つかった?」

 こちらへとやってきた若い女がそう問う、だがイサは首を振って答えを示す。

「ハルは?」

 ハルと呼ばれた若い女も肩を竦める。

 さて、どうするか…………イサは手の中のメモ帳を弄びながら考える。

 どうやらこの周囲に彼女はいないらしい。一体どこまで行ったのか、と考えるが…………まあ事情を考えれば仕方ないのかもしれないが。

「どうする?」

「どうしようかねえ」

 ハルの問いに、イサは曖昧に返す。

 

 早く決めなければならないのは分かっている。

 だが簡単に決められないのも実情である。

 何せここは敵地だ。人類の…………否、()()の敵たちが集う場所。

 いくら自分たちだろうと、迂闊に動けば命の保障は無い。

 そしてだからこそ、早く見つけなければならない。

 何せいなくなった人物は、自分たちと違って自衛の手段などほとんど持たないのだから。

 しかも敵はそれだけではないのだ。

 自身たちがここに来ることとなった原因。

 

 IEIがいる。

 

 あのキチガイたちも同じくやつらに追い掛け回されて適当にくたばってくれていれば楽なのだが、向こうとて一線級の強者ばかり、そう簡単にはいかないだろう。

 この広い街でそうそう簡単に出会ったりはしないとは思うが、逆に言えばアイツを見つけるのも難しいと言うことであり…………。

 

「頼むから無事でいてくれよ…………ヒサ」

 

 そう呟かずにはいられなかった。

 

 

 * * *

 

「ここはどこ? 私は誰?」

 

 少女がそう言った。確かにそう言った。

「………………………………」

 予想外の問いに答えを窮する。その反応をどう受け取ったのかは分からないが、少女がどこか困ったように俺の肩から手を離す。

「そう、知らないのね」

「えっと、ああ…………助けてもらっといて悪いが、俺はアンタとは初めて会うな」

 それと。

「ここがどこかって質問は俺も聞きたい、アンタは…………知らないんだろうな」

「うん」

 わざわざ質問しているぐらいだし。まあ当然知らないのだろう、何故ちょっとドヤ顔なのかは分からないが、まあそれはさておき。

「これからどうしよう…………」

 天を仰ぎ呟く。気づけば霧はすっかり晴れており、黒い太陽がまた空から顔を覗かせていた。

 異常だった。あれもこれもそれもどれもかも。異常過ぎて異常じゃないほうが逆に異常なのではないかと錯覚するほど、現状はおかしかった。

「アンタはこれからどうするんだ?」

 現状考え付く案があるわけでもなく、自身よりも余裕のありそうな少女に話を振ってみる。

 少女が話しを振られ、数秒考え込む仕草をして、それから答える。

「あなたについてくことにするよ」

 返って来た答えは何の役にも立たなかった。

 思わず嘆息する。命の恩人に向かって失礼かもしれないが、現在進行形で命の危機なのは代わり無いのだから仕方ない。

「そう言うのじゃなくてもっと具体的に何か無いのか?」

 それでも何か無いか、と尋ねてみると。

「自分の名前すら覚えていない私に何か期待しないで欲しいな」

 とのこと。さっきも思ったが、もしかしてこの少女。

「記憶喪失なのか?」

「そうとも言うかな? 自分の名前もそうだけど、昨日どころかついさっき目が覚めるまでの記憶含めて全部無いんだよね」

 だから自分がどこの誰って人で、なんでこんなところにいるのか、まるで検討がつかないよ。なんて…………明るい声で言われてもこちらとしても困る。

「ああでも…………あなたを襲っていた化け物なら、この街に他にもいっぱいいるみたいだよ」

 途中で見かけたしね。なんて言って…………よりにもよってピンポイントでこちらを絶望の淵に叩き落すような情報だけ残して口をつぐんでしまった。

 

 さて…………どうする?

 どうすれば生き残れる?

 前提条件を整理しよう。

 

 まず目標は?

 生き残ること、そして五体満足で元の場所へ帰ること。取りあえずこんなわけの分からない場所で死ぬのも、永遠に暮らすのも嫌だ。隣にいる少女もそうだろう。

 

 現状の問題点は?

 怪物。やはり一番の問題はこれだろう。この場所の異様さもあるが、最も直接的に被害があるのは怪物だ。

 それから、場所。ここはどこだ? こんな場所が世界にあるはずが無い。となれば俺の知らない世界? 異世界などと言うものが本当に存在するのか? だとすればどうやったら俺たちは元の世界に返れる?

 

 では次に手段を考えよう。

 生き残るための手段、言い換えればあの怪物たちから逃げ切るための手段…………あるのだろうか?

 少なくとも、俺には無い。少女には…………期待できそうにない。

 それから、ここから脱出する手段。ここから…………この世界から脱出する手段。あるならとっくに使っている。

 

 となると、目的は決まった。

 最優先で怪物から逃げ出す手段を見つけること。

 次点でこの世界から抜け出すための手段を見つけること。

 

 だとすればいつまでもここで立ち止まっているわけにもいかない。

「よし、行こう」

 そう言って少女に声をかけると、少女がこくりと頷き共に歩き始める。

 人のいない街を少女の二人、練り歩く。

 時に遠くに見える化け物の姿に全力で道を逆に駆け、時に化け物に見つからないように建物の中に隠れてやり過ごし、時に襲ってくる化け物から逃げるため巨大な化け物の入れない細い路地へと逃げ込み…………。

 そうしてどれだけ歩いただろうか。どれだけ走っただろか。どれだけ時間が経ったのだろうか。

 太陽が西の空へと傾き、あと数時間もすれば日が沈むと言った頃。

 この世界でも星は自転しているのか、などとつまらないことを考えつつ、少女と二人、足を止める。

「…………化け物の数が多すぎるだろ」

 そう、まともな探索なんてできやしないのだ。どこに言っても化け物の姿がある。

 建物の中ですら時に小柄な…………と言っても2mサイズの化け物が徘徊していることがあるのだ、どこに行けば安全なのか教えて欲しい。

「日が沈むね」

 空を見ながら隣で少女が呟く。

 そんなことは分かっている、と言いたいがここで声を荒げても意味が無い。

「どうする…………どうすれば良い?」

 逃げるための手段も、逃げきるだめの手段も無い。そしてそれを探すことすら許されないこの状況。

 どうにか一発逆転の手段は無いだろうか?

 

 考えろ。死にたくなければ考えろ!!!

 

 そう自身を叱咤する、だが次々と浮かぶアイデアは浮かぶ端から棄却されていく。

 どうする、どうすれば良い? そう思考を廻らせていると、くいくい、と袖口が引っ張られる。

「どうした?」

 少女のほうを向けば、青褪めた顔の少女がくいくいと指を空へと指す。

「上に何か…………あ…………る…………」

 空を仰ぎ見、目を見開く。

 

 ばさっ、ばさっ

 

 大きな羽ばたく音が聞こえた。

 それと同時にごうごう、と風が吹き荒れる。

 絶句する。

 

 そこにいたのは。

 

 幻想の怪物(ドラゴン)だった。

 

「…………う……そ……だろ」

 言葉が、続かない。圧倒的目の前の現実に、打ちひしがれる。

 無理だ、いくらなんでもこれは無理だ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 では逃げたら? それも無理だろう、何せ飛んでいるのだ。逃げ切れるはずが無い。

 隣の少女と握った手の力が強まる。果たしてそれは自分からだったのか、それとも少女からだったのか。

 動けない。恐怖もそうだが…………あまりの風圧に、身動きどころか立っていることすら難しい。

 今にも倒れて転がってしまうそうな圧に、けれどそうすれば確実に殺されることを確信して、背一杯の抵抗を見せる。

 かと言ってこのままでは同じことなのだが…………だが、どうすれば良い?

 この絶対強者から逃げる…………否、生き残るために、一体どうすれば?

 答えは出ないままに思考だけが空回る。

 そうこうしている内に。

 

 ガアアアアアアアアアアアアアアアアアア

 

 ドラゴンが吼える。

 羽ばたきが強くなり、ついに俺と少女が風圧で吹き飛ばされる。

 と、同時にドラゴンが狙いを定め…………。

 

魔法形式(コール)死閃(デスサイズ)

 

 どこからか聞こえた呟き。

 

 そして……………………。

 

 ドラゴンの首が落ちた。

 

 

 * * *

 

 

 走り回って、走り回って。

 けれどどこにもいない。

「どうする…………そろそろ時間ではあるが」

 イサがハルに問いかけると、ハルが少し考えて答える。

「時間いっぱいまで探そう…………エネミーの存在もそうだけど、IEI(やつら)の存在も気になる。このまま放置、と言うわけにはいかない」

 確かに、とイサが頷く。ここまで未だにIEIの連中とは遭遇していないが、いることは確かなのだ。こちらにいないということは、ヒサのほうが出会っている可能性もある。

 そう考えれば、確かにここで探索を打ち切る、と言う手は悪手だろう。

「だが…………エネミーの数が予想外だな」

「…………私たちですら危うくなってきたけど、ヒサは大丈夫かな?」

 分からん、と答え、イサが嘆息する。侭ならない。本当に…………。

 手の中のメモ帳を弄びながら、どうするか、ともう一度呟き…………。

 

 ガアアアアアアアアアアアアアアア

 

 その叫びを聞いた。

「「?!」」

 イサとハル両者が同時にその方向へと振り向き、ソレを見つける。

「「ドラゴン!?」」

 空に浮かぶ巨大な幻想。そして眼下を睨んでいるように見えるその先には…………。

「ヒサか、それともIEI(やつら)か…………」

「どっちにしても急ぐべき」

 そうだな、そう答え、両者が走りだす。

 ドラゴンまでの距離はそう遠く無い。今までどうして気づかなかったのかと思ってしまう程度には。

 頼むから俺たちがいくまで()ってくれよ…………?

 心中でそう呟いた、その瞬間。

 

 ぼとり、と…………ドラゴンの首が落ちた。

 

 

 * * *

 

 

 次から次へと怒涛のごとく押し寄せる突然の事態に、先ほどから俺の思考は止まりっぱなしだ。

 ドラゴンが現れて、絶体絶命だと思ったら。

 次の瞬間にはドラゴンの首が落ちたのだから、もうわけが分からない。

 そして極めつけが。

 

「…………大丈夫だったかしら?」

 

 突如、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう降って来たのだ。文字通り、空から。

 高さ十メートル以上から生身で飛び降りてきて、けれど女は何ごとも無かったかのように軽やかに着地した。

 腰よりもさらに長い薄紫の髪が特徴的だった。けれど、印象的だったのはその眼だ。

 

 氷のような冷たい眼差し。

 

 感情が凍ってしまったかのような眼で、表情で、女は俺たちを見下ろしていた。

 よく見れば不思議な格好の女である、まだ暑さの残る初秋の候。けれど女はどこかの学校の制服の上からその髪と同じ薄紫色のコートを羽織り、両手には黒い手袋をしていた。

 暑くないのだろうか、そんなことを現実逃避に考える。否、最早思考放棄に近い。

 展開の急さに理解が追いつかない。だが状況だけは目まぐるしく変わっていく。

 

「問題なさそうね」

 

 そうこうしている内に、女はこちらの様子を確認し終わったのか、一瞥して去ろうとする。

 

「あ、おい!」

 

 咄嗟に女の声をかける。それは何のためなのか自分でも分からない。

 助けてくれたお礼を言いたかったのか、お前は何者だここはどこだと疑問を投げかけたかったのか。

 後になって考えればいくらでも言うことは思いつくが、とにかく今は頭がいっぱいでそんな余裕は無かった。

 

「何?」

 

 女が振り返り、尋ねる。

 言葉は出ない。何を言えばいいのか分からず、けれどいつまでも引き止められないことは分かっていて。

 

「な、名前」

 

 咄嗟に出た言葉がそれだった。

 

「名前…………アンタの名前、教えてくれ」

 

 もっと他に言うことはあるだろう、と後にして思ったが、今はこれが精一杯である。

 

「…………………………………………(ゆかり)

 

 その時女が何を思ったのか、想像すら出来ないが、けれど女はぽつり、とだが返事を返し、そのまま立ち去っていった。

 紫…………確かにそう言った。女の名前をしっかりと頭に焼付け、それからゆっくりと立ち上がる。

 放心していた思考がようやく動き始め、もう一人の少女について思い出して、ハッとなる。

 すぐに少女の姿を捜して…………すぐ傍で同じように呆けていた少女の姿に安堵する。

「良かった…………とにかく、生き残れたな」

 色々と問題はあったが、とにかくまたこうして生き延びたことを感謝するとしよう。

 そうして今になって思うが、先ほどの女についていけば道中の怪物たちも問題なかったのではないだろうか?

 

 否、それ以前に。

 

「あれは何だ?」

 さきほどの光景を思い出す。

 女は手に何も持っていなかった。しいて言うなら手袋をはめているくらいだが、逆に言えばそれだけである。

 なのに、ドラゴンの首は落ちた…………自身の中でどこか確信しているものがあった。

 あのドラゴンを殺したのは、先ほどの女なのだと。

 

 だが…………どうやって?

 

 先ほども言ったが、女…………紫は何も持っていなかった。

 近くに転がるドラゴンの首を見…………ようとしてそれが無いことに気づく。

「どこに行った?」

 まさか生きている?! と考えたところで、ドラゴンの胴を見つけ、目を丸くする。

 崩れていた。まるでその体が砂で出来た彫像だったかのように、ドラゴンの胴が粒子となって消えていった。

「…………どうなってんだ、これ…………?」

 物理的にあり得ない…………しいて言うなら風化のような現象に、この世界の異常性を実感する。

 失敗した、と思う。先ほど紫にもっと色々この世界について聞いておけば良かった。ドラゴンなどと言う異常に対し、全く動じた様子も無かったし、きっと紫はこの世界について何か知っていた。

 だがすでに行ってしまった相手だし、そもそもまた見つけれるとは限らない。

 そして見つけるまでにまた怪物たちに出会ってしまったら今度こそアウトかもしれない。

「………………どうする、どうする?」

 自身の隣で少女も何か考えているのか、一人目を閉じて唸っている。

 と言っても…………選択肢など初めから無いのかもしれない。

 

 俺たちの現在の目的は?

 

 最優先で怪物から逃げ出す手段を見つけること。

 次点でこの世界から抜け出すための手段を見つけること。

 

 どちらも持っているかもしれない紫が俺たちの目的の一番の近道では無いだろうか。

 

「…………よし、決めた。紫を追おう」

 そうして口に出し。

「ちょっと待て!」

 どこかから聞こえた声。

 それがなんだか既視感(デジャビュ)で。

 直後、空から降ってくる一組の男女。

 まるで双子のようにそっくりな男と女。

 小柄なショートカットに肩口までしかない黒いインナーシャツにカーゴパンツ。

 違いと言えば男が淡い茶色の髪で、女が色褪せたような水色の髪をしていることだった。

 そうしてやってきた男が俺…………の隣の少女に向けて口を開く。

 

「見つけたぞ、緋咲(ひさき)

 

 それが、少女の名前だった。

 

 

 * * *

 

 

 こぽこぽ、と湧き上がる泡の音。

 泡が水面から浮かぶと同時に弾けて消え、代わりに泡立つ水面から湯気が立ち昇る。

 湯気と共に香って来るのは、珈琲の良い匂い。

 ガラス容器の中に十分に溜まった黒い液体をマグカップへと移し、そっと鼻元まで近づけ香りを嗅ぐ。

「…………良い香り。あなたも飲む? (はやて)

 砂糖もミルクも無しに少しだけ口をつける。ほんの一口ほど口に含むと何とも言えない風味が口に広がる。

 自身がその味を十分に楽しんだところで、部屋の入り口に佇む少女…………否、幼女に尋ねると、颯と呼ばれた幼女がこくりと頷く。

「ミルクと砂糖二つだったわよね、すぐ入れるから待ってて」

 少しだけ子供っぽいな、なんて考えて、けれど見かけは子供なのだから、それも無理は無いかな? なんて、つまらないことを思いつく。

 どうぞ、と言ってもう一つのカップを颯に差し出すと、残った珈琲をタンブラーの中へ入れていく。

 颯が一口珈琲に口をつけ、息を吐く。

「………………………………………………で?」

 どっぷりと長い沈黙の後、吐き出された言葉はその一文字だった。

 だがその一文字で問われている意味を、自身はちゃんと理解しており。

「時間にしておよそ三分前、ユウキから連絡があったわ」

 その一言に、颯の眉根がひそめられる。その意味を理解しているならば、当然の反応かと納得する。

 手元にあるメモ帳に書いたメモに目を通しながら続きを告げる。

「まず緋咲ちゃんとの合流に成功。IEIとも接触したみたいだけれど交戦は無いまま分かれたらしいわね。取りあえず二人とも無事よ」

「………………………………そう」

 あまり表情に変化は無い、が僅かに安堵の気配を見せていることに苦笑する。

 と、同時にこれから告げることを考え、それを告げた時の彼女のリアクションが想像できず、顔を顰める。

 そんな自身の気配を悟ったのか、颯が不審そうな顔つきでこちらを見つめてくる。

「………………………………それで?」

 まだ何かあるのか? 暗にそう告げる颯、一つ大きく深呼吸して。

「あのね…………颯、落ち着いて聞いて頂戴」

 告げる自分のほうが緊張してくる。彼女の願いを知っている自分だからこそ、これを告げるのが辛い。告げた後の反応が怖い。

「今回発生した虚界送りで、一人、一般人が巻き込まれたわ」

 そう、一般人が一人巻き込まれてしまった。その一般人はエネミーたちの溢れる街中を緋咲と数時間に渡って逃げ回り、ユウキに保護されたらしい。

 それだけなら確かに残念ではあるが緊張はしない。

 問題は、その一般人の名前が…………。

 

「向坂仁…………今回巻き込まれ、保護された一般人の名前よ」

 

 向坂颯…………彼女の戦う理由の全てであり、彼女の生きる意味の全てでもあるはずの

 

 ―――――彼女の兄だと言うことだ。

 

 

 

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