朝の身支度を終え、ゴミ袋を片手に玄関の扉を開けてアパートの廊下へ出た水原千鶴こと、本名一ノ瀬千鶴は新鮮な空気を吸っては吐き、深呼吸を繰り返す。昨日、レンタル彼女の客だった木ノ下和也が自分と同じ大学に通っている事を知った彼女は彼へ容赦のない口止めを行った。主に言葉で。
本人も参っていた様子だったので、特に問題は起こらないだろう。そう安堵して横を向いた千鶴の視界に突如見知った顔が映り込む。若者特有の茶髪に、これと言って特徴のない平凡な容姿。
件の人物、木ノ下和也がそこにいた。そして、お互いを認識すると同時に驚きの声を上げる千鶴と和也。悪夢、それが最初に千鶴の脳内に浮かんだ言葉だった。
「えっ...と...水原...さん?」
この異常な巡り合わせに何とか絞り出された和也の言葉。それが合図だったかのように、正気を取り戻した千鶴は野良猫の如き俊敏な動きで自室へと引き返し、扉を閉めてしまう。
「いや、ちょ!水原さん!水原さんだよね!?あぁ一ノ瀬さんか、こんな偶然ってあるんだね。
俺びっくりしちゃったよ。運命かな?あはは!で、でもストーカーとかじゃないからね!?絶対に、うん!」
昨日の口止めの件で千鶴の恐ろしさを身を以て味わった和也は彼女の機嫌を損ねないよう、混乱しながらも保身に走る。傍からは道化にすら見える和也の有り様を尻目にエミヤはゴミステーションへと向かうのだった。
そんなちょっとした騒動から九時間が経ち、時刻は十六時八分。日が傾き始めるこの時間帯、和也の部屋ではエミヤがパソコンを借り、調べ物に没頭していた。検索中のキーワードは、冬木市。魔力の通り道とされる霊脈が非常に強力な地で抑止力と契約する前のエミヤが住んでいた場所。
「やはり、存在しない...か。」
だが検索結果一覧には冬木市と呼ばれる都市が表示される事はなく、彼の地とは程遠い町が映し出されるばかり。元々、此方の世界には存在していない場所。その事実は過去の
一方、神妙な面持ちで思案に暮れるエミヤとは対照的にパソコンの持ち主である和也はカップラーメンを啜りながら千鶴の姿を思い浮かべていた。彼自身、昨日の今日で多少は狼狽えているものの、その実。彼女が隣人と言う点に関しては満更でもなかった。
「(あの水原千鶴が隣の部屋に......うん、悪くない。)」
そこで机に置いていたスマホが鳴っている事に気が付いた和也は着信の相手を確認した途端、露骨に眉を顰める。
「...もしもし、婆ちゃん?」
「おぉ和也、やっと繋がったか。」
和也にとって今一番話したくなかった相手、木ノ下和。水原千鶴との関係が偽りだった事を打ち明けねばならない重責が彼にプレッシャーを与える。されど、騙し続ける訳にはいかない。昨日のエミヤの言葉が頭を過ぎった和也は意を決して口を開く。
「あのさ...婆ちゃん、俺...もう千鶴とは別───。」
「時に和也、今からそちらに行く。千鶴姫を呼んでおいてはくれんか?」
「はぁ!?無理に決まって───。」
「それより知っとるか?最近、ほっと湯けむり若女将と言うソシャゲが流行っとってな?
それに出てくるキャラクターが千鶴姫に瓜二つなんじゃ。ついつい課金が嵩んでのう。」
一向に聞く耳を持たない祖母に和也の焦燥感が増していく。このペースでは埒が明かない、そう思った彼が制止の声を張り上げた時には既に遅く、通話は切れてしまっていた。青く染る顔、じっとりと汗ばむ体、早鐘を打つ心臓。蹣跚けながらも、何とか立ち上がった和也は縋るようにエミヤの背中を見詰める。だが彼は相当パソコンに集中しているのか、和也の方に振り返る事はなかった。
「(どうすれば...目の前で別れたって言って、泣いて倒れられでもしたら...マジでヤバい...。)」
結局、苦悩した末に和也が導き出した答えは水原千鶴に頼るというもの。唇を噛み締め、駆け足で部屋を出て行く和也。その姿を見て、エミヤは溜息を吐く。彼は和也を成長させるべく、意図的に無視を貫き通していたに過ぎなかった。そしてそれは、千鶴が和也からの協力の申し出を断る事を想定した上での行動でもある。
「頼む、もう一回だけ俺の彼女やってくれ!」
和也にインターホンを何度も鳴らされ、仕方なく扉を開けた千鶴が聞いた最初の言葉がそれだった。何度断っても粘り続け、終いにはアパートの廊下に額を擦り付けて土下座を決行する始末。和也の行いに殆呆れ果てていた千鶴は、ついに決定打を放つ。
「何回頼まれても無理なものは無理よ。嘘を吐くならちゃんとケジメを持って、後回しにした時に人は子供になるの。
第一、今日はレポート書くって決めてるから。さよなら。」
無情にも、再び固く閉ざされた扉。思い通りにいかない現実の前で、和也は腕を廊下に打ち付けた。
「くぅ...みずはらぁ......。」