夜の闇に包まれた廃工場の中、壁の隙間から流れ込んできた風により無造作に置かれた蝋燭の火が妖しく揺らめいている。 朽ち果て役目を終えた工場の内部は様々な工具が散乱しており、人が足を踏み入れた形跡は見当たらない。 ならば何故、蝋燭に火が灯っているのか。 それはこの場に人ならざる存在が現れたからに他ならない。 コツコツと乾いた音を響かせながら、工場の地下へ向かう人影。 紫のローブを身に付け、黒いフードで顔を隠した姿はまるで御伽噺に登場する魔女。 体付きは女性のものだが動き一つ一つに隙を感じさせる事はなく、明らかに常人ではない。 彼女は地下に辿り着くと、眼前に鎮座する黒い衣服を着た端正な顔立ちをした男を見て、フードの下で顔を歪めた。
「魂は無く、与えられたのは器だけ。...随分とまあ、悪趣味なこと。」
波乱の飲み会が終わり、その帰り道。和也に千鶴、エミヤの三人は物思いに耽りながら、それぞれが歩幅を合わせていた。麻美が抜けた後、氷点下となった飲み会は程無くしてお開きとなった。和也達を誘った木部は責任を感じて落ち込んでいたが、和也のフォローによってその場は丸く収まった。エミヤが和也と千鶴の関係を見抜いていた事も二人の間で周知の事実となり、無事に情報を共有出来て隠し続ける必要がなくなったお陰か、千鶴の表情は憑き物が落ちたように明るい。ただ一つ、彼女にとって予想外だったのは和也の成長だった。麻美の言葉攻めに屈さず、彼女と真摯に向き合ったあの姿は千鶴の脳裏に強く焼き付いている。
当の本人である和也は自身の進歩を微量な成長と捉えているが、それは間違いだ。この短期間で彼は人間として大いに成熟している。その成長速度はエミヤの想定すら上回った、正に驚異的なスピード。だが、見事に欠点を克服した彼に大進歩の自覚はない。故に和也は更なる成長の為、自分が次に取る行動を定めた。迷いはある、しかし彼女との関係が後に禍根となるなら。誰もが口を開かずに黙々と足を動かし続ける中、和也は中央を歩く千鶴を横目で見詰め、密かに意志を固めた。
時を同じくして、歩道の右側を歩くエミヤは七海麻美について思考を働かせていた。彼女が飲み会から立ち去った後、部屋に戻る途中だったエミヤは苦々しい顔の麻美と店の通路で出会した。最初エミヤは道を譲ろうと端に避けたのだが、逆に麻美は彼へ詰め寄るような形で急接近。退路を塞がれた彼の耳元で、ある言葉を囁いて何事も無かったかのように離れていったのだ。
「偽善者、か。」
正に沈思黙考といった様子の彼等が歩き続けて早数十分、漸くアパートの前に辿り着いた全員はその場で足を止める。静まり返った住宅街に人の往来は無く、三人の息遣いだけが鮮明に聞き取れる。そんな空間で話を切り出したのは和也だった。
「今日は...その、色々とごめん。特に水原には迷惑かけたと思ってる。」
「そんなの今に始まった事じゃないわ。だから、別に怒ってない。」
千鶴の言葉に賛同するようにエミヤが頷く。そうした二人の反応を受けて一瞬だけ安堵の表情を覗かせた和也だったが、忽ちにその相貌は掻き消される。突如、和也の纏う空気が変貌したのだ。彼らしからぬ厳かな面持ちで千鶴と視線を合わせる姿。その眼から伝わる和也の意思はどこか生き急いでいるようにも感じられる。
「水原、俺さ......明日にでもこの関係を終わらせようと思ってる。」
何を言われたのか、理解が追い付かない。和也から発せられた漠然とした話に思慮を巡らせる千鶴だったが、次の彼からの言葉で全てを察する事が出来た。
「婆ちゃんに、別れたって言うよ。」
異分子の介入により、本来の道筋より外れたこの世界の運命。元凶はその有様を傍観しながら、不敵に笑う。彼の者にとって、人の定めを書き換える事は玩具を扱うに等しい行い。神の遊び、とでも言うべきだろう。だがその存在から言わせてみれば、これまでの出来事はただの座興に過ぎない。
「...今、笑った...の?」
廃工場の地下。中央に立つ魂を失った抜け殻であるはずの金髪の男は口元に一寸の笑みを浮かべ、悦びに身を委ねた。