〈2025年9月23日、14時21分〉
沖縄県のとある浜辺を歩くひとりの女性、名は伊集院惠。
世界中を旅することが生きがいの彼女は、今は海外ではなく国内各所を巡っていた。 押しては返す波の音、潮の香りを胸いっぱいに集め、潮風に飛ばされぬようハットを押さえる。 あいにくの曇り空ではあるが、沖縄の海というものを五感で感じ取るには十分だ。
同時に……沖縄が直面している問題も十分すぎるほどに理解出来た、惠は浜辺に打ち捨てられた大量のゴミを避けながら歩く、ここも昔は観光地として有名だったらしいが、今は見る影もない程に汚れてしまっていた。
惠の表情は憂いに満ちたまま、決して笑顔を取り戻そうとはしない。かつての美しかった沖縄の海が、二度とその姿を見せてくれないのと同じように。
「本当に変わり果ててしまったのね……」
取り出した一枚の写真、その昔の美しい姿を残していたこの浜辺の写真と見比べながら、惠はため息混じりにそう呟いた。 彼女が世界中を旅する理由は、怪獣時代の訪れによって変貌してしまった世界の有様をその目で確かめてみたかったからだ。
怪獣と怪獣との戦いによる遺産や景観の崩壊、増大する人類の軍事力と乱立する軍事施設、東京を初めとし都市機能を失った地は対怪獣施設を設ける土地として再利用されていき、世界規模での深刻な環境問題へと発展している。
観光地、世界遺産、大都市、美しい自然……人と地球が長い年月をかけて作り出した多くの景色が、写真や映像といった記録の中に残されるのみで現実の世界から消えていった事を嘆く事に、暇はない。
「……?」
足元を見ながら歩いていた惠は、不意に耳に届いた美しい鼻声に視線を上げた。 そう遠くない岩場の上で、潮風を全身で受け止めるように長い髪を揺らしながら、1人の少女が歌を奏でていた。 聞いたことの無いメロディーだが、不思議と心が落ち着く。
「あ……こんにちは、今日は潮風が心地いいですね」
惠の接近に気づいた少女は、鼻歌をやめて振り向く。
「こんにちは、綺麗な歌声が聞こえたものだからつい……私は伊集院惠、世界中を旅しているの」
「まあ、それは素敵ですね! 私は瀬名詩織と言います、沖縄へは初めてですか?」
詩織はパアッと表情を明るくするが、惠はこれまでの旅を思い出して神妙な顔を見せた。 世界中を旅すると聞けば確かに華やかなものを想像するだろうが、彼女の旅の目的はそんなに前向きなものじゃない。
「ええ、けど私の旅はそんなに素敵なものじゃないわ……怪獣と、怪獣との戦いで壊れてしまったものを目に焼きつけるの、この海のようにね……」
波にさらわれて浜へとたどり着いたゴミを足で弄びながら、惠は声のトーンを落としていく。 怪獣が初めて出現してから今年で14年経つが、怪獣災害の規模も頻度も年々増加傾向にある。 当然、それに合わせて軍事力も補強しなければならず、開発は加速度的に進んでいく。
「そう、なんですか……惠さんは自然を愛しているんですね」
「……自然だけじゃないわ、人が積み上げてきた歴史も遺産も好きよ、だから悲しいの、私がこうして世界を渡り歩ける歳になる頃には、その多くが失われてしまったから」
惠はもう一度写真と風景を見比べる、目に見えて変わったのはゴミなどの投棄物ばかりではない、空模様の違いもあるだろうが、汚染物質の増えた海は見るからに汚れきっていて、とても泳いでみようなんて気にはなれない。 そうしていると、惠はふとさっきの鼻声を思い出した。
「そうだ、さっきの鼻歌、あれは何の歌だったのかしら?」
「あ……あれはミヤラビの祈りです、古くから沖縄に伝わる、守り神キングシーサーに捧げる歌」
詩織の口から出た名前、キングシーサーを国内で知らないものはいない。国内初のクラスーEの怪獣であり沖縄の守護神たるキングシーサーを一目見る事は、惠が沖縄へと訪問した目的のひとつだ。
「そんな歌が……ねえ、無理な話かもしれないけれど、キングシーサーを見ることは出来るのかしら? この辺りを住処にしてると聞いたけど」
「ふふ、そんなに会うのが難しいわけではありませんよ? 遠目でなら簡単に拝めます、少し歩きますけど」
そのまま、詩織の案内で惠は岸壁の洞穴にあるというキングシーサーの寝床へと向かう。 守護神などと祀られているから難しいのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
キングシーサーは2016年、まだクラスーEという怪獣の規格が定められていない頃に出現した怪獣、もとい沖縄の守護神である。 世界中でも数少ないクラスーEの怪獣は、日本国内に生息するものに限ればキングシーサーとキングコングの2頭のみである。
そのどちらもが沖縄、大阪と行動範囲が狭く、人類はその力に頼りきれてはいない。 それを叶える唯一の存在であるモスラも1頭しか存在しないために、G対策センター擁する巫女たちによる意図的な召喚は事前の承認が必要とされ、風通しが悪い。(当然、モスラの巫女は極秘情報であるため一般には「モスラは気まぐれにしか出現しない」という認識である)
故に、クラスーEの守護神を擁する沖縄県民はキングシーサーを信仰し、その力を頼りに今日まで怪獣災害から守られてきた。
「あそこで眠っています、少しだけ顔が見えるのが分かりますか?」
詩織の指さす岸壁に大きな空洞があり、金の鬣を生やした巨大な獅子の顔が半分ほど見える。 普段はこのようにして眠り、沖縄に危機が迫る時をじっと待ち構えているのだと言う。
「すごい、こんなに近くで見られるなんて……キングシーサー信仰は昔からあったのよね?」
「信仰と言っても風習くらいのものですが、そうですね。 沖縄のシーサーはキングシーサーを祀る為にその姿を象っているくらいですから、風習は古くから続いています……もちろん、実在するとは誰も思っていませんでしたが」
それはそうだろう、信仰とは自然の中に見出した神性を崇めるものであり、裏を返せば存在しないからこそ信仰は信仰たり得る。キングシーサーも、本来なら伝説の中の生き物に過ぎなかったはずだ。
「普通はそうよね、でも知っているかしら? キングシーサーのような事例が世界各地で起こってるのよ。 ある文明の壁画にはモスラらしき姿が描かれていたり、クラーケンならゲゾラ、リヴァイアサンならマンダと言ったように伝説上の怪物を彷彿させる怪獣は数多くいる」
その他にも多数、怪獣が出現した近年になって、信仰や神話の一部があながち“実在しないもの”とは限らないという説が濃厚になってきた。 とは言え、その全てがまだ通説のひとつとして広まっているに過ぎないが。
「もしかして……怪獣ははるか昔から存在していて、神話や伝説にその姿を残している……と?」
「まだ確証のない説だけど私はそう考えているわ。 なにより大戸島の呉爾羅という怪物は、調べるほどに怪獣のゴジラと特徴が一致していくの、黒く巨大な体に、灼熱の息を吐く怪物、とね」
にわかに信じ難い話ではあるが、そう考えてみると都合がいいのは確かであると惠は感じていた。 大昔に不意に人前に姿を現した活性状態の怪獣の姿が、伝説となって今日まで伝わってきたという考えには納得が行く。
「もっとも、この説には怪獣が太古から生きていた証明となる痕跡が無いこと、現代に至るまで全く発見されなかった謎、怪獣が存在していながら人類が今日まで生き延びてこられた謎……なにより、14年前になって一斉に活性化した理由が説明できないのだけれど」
「……難しい話なんですね」
「ごめんなさい、つい語りすぎちゃったわね。 案内してくれてありがとう、もう行くわ」
踵を返し歩き去ろうとする惠に、詩織は問いかける。
「惠さん、この海を汚したのは怪獣だと思いますか? それとも、人だと思いますか?」
その問いかけに惠は足を止めた、確かなひとつの答えを導き出すことは出来ない。 惠の旅は、その問いの答えを探すための旅でもあるのだから……今出せる最善の回答はこうだ。
「どちらにしても責任の押し付けよ、環境を壊してしまうのは人でも、怪獣がいなければこうはならなかった、ってね。 あなたはどう思うの?」
「私は…………取り戻せるのも人の力だと信じたいです」
暗に人の責任だと捉えられる曖昧な答え、論点のズレた回答ではあったが、惠はそれを追求しなかった。 詩織は海を愛し、自然を愛するように、人を愛している。 あるいは人を悪いと思えないのかもしれないが、故にどうしても答えが欲しいのだろう。
「信じてみればいいと思うわ、理屈じゃないのよ、きっとね」
そう諭す惠自身、答えには迷い続けている。 人を信じてみたい想いと、現実のギャップに何度も苦しんできた。 この旅を続けていく果てに何が見えるのかは分からないが、世界を取り巻く現状を知るほどに答えに近づいていけるような気がしていたのは間違いない。
積み上げたものと、奪われ壊されたもの、それを取り返そうとする人の行為を悪であると誰が言いきれるのか。 怪獣時代が訪れた事の意味を探すあてのない旅路に、惠はまた足を踏み出した。
〈同日、20時18分〉
それからしばらく、惠は沖縄の各所を渡り歩いた。
沖縄は非常に怪獣災害に遭いやすい土地であるとされているものの、文化遺産や市街地といった人の住む場所はきちんと守られている。 キングシーサーの守護による怪獣の撃退、米軍とGフォースによる水際での防衛が機能している証拠だ。
ただ、やはり表があれば裏もあるというのが現実で、G対策センターの軍事工場、あるいは怪獣の防衛に向かい撃破された米軍の戦艦などの残骸が、深刻な環境汚染を引き起こす原因になってしまっている。
住民の中にはキングシーサーによって守られるなら無用な兵器運用には反対するという声を上げる者もいる。 分からない話ではないが、G対策センターの見込みではキングシーサーの戦闘能力はよくてクラスーB相当とされており、決して過信出来るものではない。 軍事力による外からの防衛、キングシーサーによる内部の守護、どちらが欠けても沖縄は守られないだろう。
(色々と複雑なのね……)
ビジネスホテルにチェックインした惠は、ベッドの上でノートパソコンを開き、旅のレポートを書き記していく。
地域の歴史を探るために資料館を訪れてみて知った事だが、キングシーサーの目覚めにはミヤラビの祈りを捧げなければならないのだと言う。 信仰、あるいは風習が正しくそのまま現実の形となっている事に対し、惠はこう考えた。
──風習が現実になったのではない、事実が風習として伝えられてきたのではないか? ……と。
歴史書によればキングシーサー伝説では数百年前、まだ琉球王国であった時代に王国を襲った厄災を払うために海の果てより現れたキングシーサーは、以後この地に根付きミヤラビの祈りを捧げる事で王国を守ってくれると伝えられてきたそうだ。
つまるところ、これはただの伝説ではなく、数百年前に起こった事実であると惠は考えている。 厄災というのが怪獣のようなものを指しているのかは分からないが、キングシーサーは本当にこの伝説通りの来歴を辿っているのだと。
(もしその通りだとするなら……怪獣は太古からこの地球に存在し、いくつもの伝説の元になっているという説を裏付ける証拠になる……)
そこまで頭を巡らせた後で、はぁ……とため息をついてノートパソコンを閉じる。 簡単に文字を羅列し終えたところで旅の疲れがどっと出てきて、倒れ込むようにベッドに体を預けた。
スマホを見る、着信や連絡はない。 9月23日20時30分……その日付を見て、惠は思い出した。 3日間ほど休みを取れたので前から来たいと思っていた沖縄に来てみたが、休日だということを意識しすぎてすっかり忘れていた。
(明日……私の誕生日だ……)
21歳の誕生日をよもや沖縄で迎えるとは思ってもみなかった。 ただのスケジュール管理ミスではあるのだが、別に困ることでも無い。 帰ってから大学の仲間に誕生日だったと伝えて、簡単にお祝いでもしてもらおう……そんなことを考えつつ、惠の意識は少しずつ遠のいて行った。
──同時刻、昼に惠が訪れた浜辺に、黒い影が侵入した。
沿岸を警備するGフォースのレーダー包囲網にもかかること無く、静かに上陸した泥の塊。
およそ生物のようには見えないその泥は、しかして呼吸するように体を膨らませ、脈打つように体をうねらせている。 ギョロリと覗く幾つもの赤い瞳は、果たして視覚としての機能を保持しているのかも怪しい。
やがて誰にも気づかれることなく、それはゆっくりと市街地へ向けて動き始めた……。
〈同日、21時03分〉
部屋の電気も消さず、乱雑に荷物を散らばらせたまま微睡む惠を起こしたのは、フロントからの電話だった。
眠気でボーっとした頭のまま、半開きの目で電話を取る。 フロントからの電話だという事くらいは理解出来ていたが、要件については見当もつかず、疑問に思う頭もなかった。
(……ちょっと寝ぼけすぎてるわね)
「はい……もしもし……」
『あ、お客様! お休みのところ申し訳ありません、近隣に怪獣が上陸しました、避難のためロビーまでお越しください!』
「か……怪獣……!? わ、わかりました! すぐに……行きます!」
振り返り散らかった荷物を見ながら、歯切れ悪く返事をする。 どうやらすぐに、とは行かなそうだ。
「お陰で目は覚めたわね……」
ため息をつきながら首を鳴らしてから、急いで荷物を纏める。 幸い着替えもまだ出していない、とりあえず目につくものを閉まっていくだけでいい。 カバンに詰め終わったところで、スマホから警報が鳴り響く。 怪獣災害の知らせだ。
「……黒い怪獣らしき物体……正体不明……どういう事……? 新種の怪獣が出現した……?」
情報を辿っていく、発見されたのは20時35分ごろ、市街地にたどり着く寸前に複数の近隣住民が見つけすぐにG対策センターへと通報が入った。 撮影された写真や映像を見る限り、おおよそ生物とは思えない風貌だが、動きには一定の意志が宿っているように見える。
「既に市街地へ侵入、進行跡は黒い泥のような物体で汚染されている為、絶対に近寄らないこと……」
避難することも忘れ読み耽っていると、新たに速報が入ってきた。
「正体不明の怪獣が……形態を変化させて飛行開始!?」
その時、窓の外を黒い何かが通り過ぎたのを横目に捉え振り向くと、バシャっと音を立てて窓が黒い泥で染め上げられた。
その直後、ズンっと揺れを伴う大きな音が響き、惠は思わず肩を竦ませる。 辛うじて見える窓の隙間から、七色に光る光線が通り過ぎたのを見た。 重たい足音が響き、光線の主が窓の前を通り過ぎる。
黄金の鬣、厳つい風貌の顔、それは紛れもなく沖縄の守護神、キングシーサーであった。
〈同日、20時55分〉
時は遡り、発見された市街地内にて。 グズグズと不快な音を立てながら、泥のような黒い塊が地面を這いずっていた。
踏み入れた後の地面は黒く汚染され、なぎ倒された木々は跡形もなく飲み込まれていった。 そして飲み込んだ木の体積だけ、泥はその体を膨らませていた。
その容姿は黒い粘り気のある泥に、不揃いな大きさの目がいくつも付いているだけであり、生命から大きく逸脱している。
汚染怪獣ヘドラ……後にそう呼ばれることになる怪獣は、あるいは人類に対する警告だったのだろうか。
膨張する様は捕食活動とも似つかず、繁殖もせず、眠りもしない、臓器も無ければ脳と思われる部位もなく、複数の目は後に何も機能しない飾りであることが判明している。 生態と呼べる特徴のないヘドラは史上最も謎の多い怪獣のひとつとして、G対策センターに登録されている。
──20時55分、米軍によるミサイル攻撃が開始。 しかしヘドラへと向けられた攻撃は、効果を示さなかった。
不発弾ではない、ヘドラは超音速で接近するミサイルを形状を変化させて空中で掴み取り飲み込んでしまったのだ。 さらにミサイルの文だけ体を大きくし、ヘドラは凶悪性を増していく。 その後も集中放火を続けるがその全てが無効、いたずらにヘドラを肥大化させるだけとして米軍は攻撃を中止した。
粘る泥の吸着力と衝撃吸収性は凄まじく、あらゆる物理攻撃が通用しない。 Gフォースのメーサーによる効果を期待し、米軍は撤退を余儀なくされた。
同時刻、キングシーサーの眠るあの洞窟が見える場所へ、たった1人やってきた少女がいた。少女、瀬名詩織はミヤラビの祈りを口ずさむ。 不穏に荒れる波の音に掻き消されないように、精一杯の歌声をキングシーサーに捧げる。
「お願い、目覚めて……キングシーサー!」
乙女の願いを聞き留めたかの如く、獅子の紅い瞳が開く。
ゆっくりと洞窟を抜け出し、波荒ぶ海を歩き詩織のもとへ近寄る。 彼女の立つ崖は、丁度キングシーサーの顔と同じ高さにあった。
わずか10mほどの距離で目と目が合う、遠方から響くのは悲鳴とサイレン、撤退する米軍ヘリのローター音。 耳をピンと立てたキングシーサーは、そこから2歩下がって腰を落とし、ヘドラの下へ跳躍した。
「お願い、負けないで……!!」
一息に数百メートルの距離を詰め、キングシーサーはヘドラの前に立ち塞がった。 不気味な風貌のヘドラに警戒心を強めるキングシーサーだが、敵の接近に対し動きを止めたのはヘドラも同じだ。
睨み合う両者、キングシーサーの威嚇も目と耳に相当する器官をもたないヘドラには無意味で、動きはしないが怯みもしない。
痺れを切らし先手を打ったのはキングシーサーだ、走り寄って拳を突き出すと、ギョロギョロと不規則に動く目がまるで泡のように容易く弾け大量の泥を周辺に撒き散らす。
「グオオオオオ!!」
泥を浴びたキングシーサーが悲痛な叫びを上げる。 泥には多量の硫酸が混じっており、キングシーサーの皮膚を焼いてしまうのだ。 既にヘドラが通過した跡には毒ガスが発生しており、風下の住民にまで被害を及ぼしていた。
当然、不定形の泥の塊であるヘドラにキングシーサーの攻撃が通用したわけでもなく、既に潰された目玉を再生させている。
物理攻撃が通用しないと分かるや、キングシーサーはプリズム構造の目をギラギラと輝かせ七色の光線を放つ。 高熱の光線は体表を焼き水分を蒸発させ、さしものヘドラもダメージを負う。 泥であるヘドラは乾燥に弱く、熱や電流が効く。 Gフォースのメーサー攻撃が有効と判断されたのもそのためだ。
しかし、ヘドラも弱点を突かれると分かれば対抗する。 なんと体を飛行円盤のような形状で固め、ガスの噴射を利用して飛び立ったのだ。
恐るべき順応性と進化速度、短時間のうちにこれほどまでに急速な変化を見せる怪獣など他にはビオランテくらいのものだっただろう。
そのビオランテも生物としての進化はゴジラと対峙した時点でほぼ止まっていたが、ヘドラはまだ進化の可能性を多分に残しているし、無尽蔵に巨大化し成長する。
ここで倒さなくては被害は沖縄どころではなくなる、キングシーサーは飛び去るヘドラを追いかけた。
──やがていくつかの街を移動した後に飛行するヘドラはキングシーサーの光線によって撃ち落とされ、惠の止まっていたホテルの目の前に落下し現在へと至る。
惠は急ぎ1階のロビーへ向かう、電気は生きているがエレベーターは閉じ込めの危険があると判断し、階段を利用するが……この判断が命運を分けた。
2階の踊り場を抜け1階へ向かおうとした惠は、信じ難い光景に足を止めた。 鼻の曲がるような異臭、既に1階全てが、ヘドラの泥によって埋め尽くされていたのだ。 もしエレベーターを使っていれば1階に着いた時点で泥の侵入を許し、高濃度の硫酸と毒ガスによって即死していただろう。
1階の様子はほぼ分からない、だが人の気配はしない。 惠はもう“そういう事”なのだと考えた。 ここに人はいない、みんな逃げたのだ、そう思い込むことでなんとか気を落ち着かせようとしていた。
(微量だけど嗅いでしまった……逃げられない……助を待つしか……)
惠は屋上を目指した、時折来る激しい揺れによって何度も転びそうになったが、なんとか足を踏ん張って耐える。
運良く停電にはならなかった、屋上に辿り着く頃には怪獣たちはホテルから数百メートルほど離れた場所に移動しており、街の明かりによってその様子もはっきりと見ることが出来た。
「あれがキングシーサー……と、黒い泥のような怪獣……? なんなの……アレは……?」
形のない泥の塊がただ蠢いている。 鼻を刺す腐卵臭とひたすらに環境を汚すことだけに特化した体、捕食するわけでもなくむやみに人を殺し、目的もなく暴れ回る。
同じく捕食しない、人を殺す、非常識な体をしたものでも、あんなものと比べたらまだ形あるゴジラの方が理解出来る。
「……? 形が変わって……膨れ上がっている……?」
ヘドラは体を大きく膨張させ、次の瞬間、キングシーサーを飲み込むほどの大口を開けた。
そう、口だ。 食事をしないヘドラにそんなものは無いはずだ、だがヘドラは口を開けた、人のものに似た歯が綺麗に生え揃っている。
体全てが顔になったような大きな口と強靭な歯、キングシーサーは咄嗟に後退するが口の中より伸びた泥の触手に左腕を捉えられた次の瞬間。
「グォォオオオオ!!」
バチンッ、と勢いよく口が閉じられ左腕の肘から先を喰いちぎられた。 キングシーサーの左腕から血が噴出し、それを浴びたヘドラが全て飲み込んでいく。 血で、己の体を潤している。
「……っ!!」
衝撃的な光景に惠は思わず口を押さえた、あまりの痛々しさにこれ以上見ていられない。
そこからの戦いは一方的だった、痛みに怯み冷静さを欠いたキングシーサーはヘドラの猛攻を避ける事も出来ない。 足を取られ倒れ込み、惠の位置からは見えなくなったがマウントを取られ溢れ出す硫酸で全身を焼かれている。
苦痛の叫びもヘドラの泥に覆われ掻き消され、万事休すと思われたその時、ようやく海上警備の船から発進した2機のメーサーヘリの攻撃がヘドラを引き剥がした。
予想通り、ヘドラに対してメーサー攻撃はかなり有効なようで、メーサーの連続照射によって体が乾き、蒸発しみるみるうちに弱まっていく。 やがて、ヘドラはたまらず飛行形態へと変形し逃走し、行方をくらました──。
〈9月24日、10時9分〉
一夜明けた今日も、あの海岸に詩織は立っていた。 傷つき眠るキングシーサーに祈りを捧げるようにして、歌を奏でながら。
「詩織」
背後から惠が声をかける。 戦いを見届けた後、惠は人気のないホテルで一晩を過ごし、早朝に屋上にてヘリで救助された。
「……」
詩織は振り向いても何も言わず、ただ優しく微笑み返す。 無言ではあるが、惠の無事な姿を見て安堵していた。
「キングシーサーは……大丈夫かしら」
洞穴に眠る守護神の姿は、痛々しいものだった。 黄金の鬣は大部分が失われ、皮膚の多くが爛れ落ちている。 見えないが、左腕も失われたままだろう。
「……キングシーサーの傷は、時間をかければ癒えると思います、左腕も恐らく……いつかは元通りになるかと」
「そう……なら良かった」
「ですが……」
詩織は言葉を途切れさせた、自分の胸の内にある不安を上手く言語化できない。
この海を汚したのは人か、怪獣か。 答えは分かりきっていたからこそ惠に否定して欲しかった。 だが惠はどちらのせいにしてもそれは責任の押しつけでしかないと言った、人を信じてみればいいとも。
今になって思えば、あの質問は自分が本当に知りたがっている答えを得るものではなかったのだと気づいた。 詩織が胸に抱く不安の正体……人と怪獣の共生。
「キングシーサーは怪獣と戦う、それは人を守るためです……だとしたら、この世から人を脅かす怪獣がいなくなった時……キングシーサーの瞳に映る敵は、誰になると思いますか?」
「敵……」
「キングシーサーにこれ以上傷ついて欲しくない、彼にはただ、ここで波の音に包まれながら眠っていて欲しいのです……でもどうしても、頼らざるを得ない……私たちは、生き延びたいから……その見返りがいつか降りかかるのではないかと、思ってしまいます」
生きたいから、強いものに頼る、誰かが代わりに傷つく事で、自分たちは今日まで生きてきた。 そんな自己中心的なエゴの成れの果てが、ヘドラという不浄を生み出したのではないか。
大地を削り、海を汚し、空を淀ませた代償が、新たな惨劇を引き寄せているのだとしたら……それとも、そういった無自覚な人の傲慢さこそが、怪獣時代を呼び寄せたのかもしれない。
ならば怪獣時代が終わりを告げる時、人が怪獣よりも強い存在になってしまった時、キングシーサーはそれでも人の味方であり続けるのか。
「いつかキングシーサーの怒りを買うのではないか、そう考えているのね?」
「……はい」
「いいじゃない、頼れば。 いつか来るかもしれない見返りに脅えていては、明日を生きられない」
「でもそれは、あまりにも身勝手で……」
「あなたの不安も、生きたいというワガママも、何も間違ってない、誰だって迷うし間違えるのよ、それが人に与えられた、他の動物たちとは違うただ一つの特権よ」
「……強いですね、惠さんは」
「必死なだけよ、生きたくて、生きるために必死で……それだけなの」
詩織は深く息を吸った、鼻を抜ける潮の香りは、昔とは違っているかもしれない。 けれど思う、私はこの海が好きだと、今も昔もそれだけは変わらないと。
「……ありがとうございます」
「ええ……ありがとうついでと言ってはなんだけど、ちょっとだけ沖縄観光に付き合ってくれない?」
「え?」
「帰りの飛行機が無くなって明日になっちゃったのよ……それに実は今日が誕生日でね、私の」
「……ふふっ、それで、誕生日祝いに観光案内を?」
「ダメかしら?」
「まさか、案内しますよ、沖縄って凄くいい所なんですから」
そうして2人は他愛ない会話で笑いながら、海岸を後にした。
犠牲になったものと、守られたもの、そのバランスはいつか崩壊し取り返しのつかない事態を引き起こすかもしれない。
クラスーE、人に無害あるいは味方をする怪獣。 いつかその矛先がこちらに向く時が来たとしたら、人が取るべき選択は2つに1つ。
今日も明日も人は、生きるために戦い続けている。
〈2025年12月〉
約2ヶ月半後、一本の連絡がG対策センター本部から全世界へと通達される。
──月面にて休眠中だった“嵐の王”が覚醒。
怪獣時代始まって以来の大災害、かつて南極大陸へ落下し、ゴジラを退け全世界を恐怖の底に叩き落とした最強最悪の“宇宙怪獣”。
太平洋「ポイント・ネモ」に落下したそれは、気象を操る能力によって逆巻くスーパーセルを従えながら、太平洋を北上した。
嵐の王、キングギドラ襲来。
〈エピソード8:その瞳が映すもの〉 -完-