2041年11月のある日の夕暮れ、自分に出来ることを探して日本を放浪していた一ノ瀬志希は長崎を訪れていた。
上手いこと見つかっていないのか、それとも呆れられて探してすらいないのか、G対策センターの追っ手はこれまで全くやって来なかった。
その日、志希は1人の女性と出会う。 妊娠半年で少しお腹のふくれた妊婦だった。 道で倒れていた女性は熱を出しており、志希は病院へ運ぼうかとも思ったが、彼女曰く今日はたまたま街に出ていただけでかかりつけは離島にあるのだと言う、連絡船も今日はあと1本しか無く、病院に行く暇がない。
「わかった、じゃあ私が簡単に診るから、少し体触るね」
志希は持ち出した資金の何割かを使って医療器具や薬を買い、他に手に入らない薬は自分で調合するなどして持ち歩いていた。
G対策センターにいた時に毒物兵器を作るために独学で医療を学んでいたが、このように正しい形で役に立つとはその時は思ってもみなかった。
「んー、風邪かな? 悪い病気じゃないと思う、これ妊婦さんにも優しい解熱鎮痛剤だから飲んで」
「あ、ありがとう……」
志希は粉薬と水を手渡すと、女性は素直に薬を飲む。 少し苦味が強くて顔をしかめはしたが、プラシーボ効果でスっと気分が楽にはなった。
聞くところによると、離島から街に出てきたのは買い出しのためで、女性の両手は買い物袋で埋まっていた。 志希は電動バイクの後ろに女性を乗せて港を目指す。
電動バイクは便利だ、行く先々でコンセントさえ貸してもらえればいくらでも動くし、志希の行動範囲は一気に広がった。
志希は神奈川の慰霊碑にたどり着いた後、しばらくあの黒い髪の女性の家……相葉家で世話になっていた。 相葉家の人たちは優しくていつまでも居ていいと言ってくれたが、流石にそういう訳には行かないと旅に出ることを話すと、この電動バイクと幾らかのお金を渡してくれた。
いつか恩返しに戻ってくると約束し、日本を巡る旅に出たというのが志希のここまでの経緯だ。
「お姉さん、着いたよ」
「本当にありがとう、あの、せめて何かお礼を……」
「いいのいいの♪ それよりちゃんと診てもらってね、さっきのは風邪薬じゃないからね〜」
「ええ、本当にありがとう! よければお名前だけでも教えてくれないかしら?」
「一ノ瀬志希だよ」
「志希ちゃん……志希ちゃんは全国を旅してるのよね? どうして人助けを?」
どうして……と問われれば、色々と理由はある。 最初は罪滅ぼしのつもりだった、間違った道を進み、間違った兵器開発に明け暮れた事の罪滅ぼし。 けど相葉家で無償の心遣いを受けていて、志希は心から人の役に立ちたい、この人たちのようになりたいと思うようになったのが、この旅に出た最後のひと押しだったのだと思う。
誰かの役に立ちたい、そんな何でもない理由で続けた旅は、志希にとってどこまでも自由で充実した日々になった。
そう、だから一言で言い表すとしたら……。
「愛と平和のためかな♪」
「……ふふふっ、そう、それはとても素敵ね」
くすくすと笑う女性の顔を見て、志希はどうしてか不意に母のことを思い出す。 面影がある訳では無い、母はこんな笑い方をする人ではなかった、ただ命を宿す事の母性になんとなく惹かれたのかも知れない。
「……ごめんね、ちょっとだけいいかな」
志希は女性の前に膝をついて、お腹に耳を当てた。
動いている様子はない、けれども確かな命の温もりを感じる。 母も胎児だった私に声をかけてくれていたのだろうか、父もこうして耳を当ててくれたのだろうか、そう思うと、じんわりと目頭が熱くなってくる。
「……いつかキミの元気な顔を見せてね」
私は人の役に立てているだろうか、誰かを救う事が出来ているだろうか、そんな自問自答を何度も繰り返している日々だった。 この子が生まれてきた時は、今よりいい時代になっていますようにと、誰にでもなく心の中で祈りを捧げる。
それから、船が出る時間がやってきて志希はバイバイと何度も手を振った、船が小さくなって見えなくなるまで、何度でも。
やがて日も暮れてきた頃、志希は人通りの少ない川沿いの道を電動バイクを押しながら歩いていた。 冬も近づいてきた長崎の夜は寒く、冷たくなった手を何度も擦っては息を吐きかけて、ゆっくりと歩く。
「一ノ瀬志希だな?」
そんな志希の前に、スーツ姿の男が現れた。 胸に付けられたバッジからG対策センターの人間だとすぐに分かる、志希は驚いた、まさか今になって接触されるとは……というより、多分ずっと前から監視されていたのだろう。
「どうかな〜? 人違いじゃない?」
「G対策センター情報統括部の者だ、これを」
とぼけた誤魔化しにも触れず、男はスマートフォンを差し出す。 少し警戒しながらもスマホを受け取って男の顔をチラッと見ると、耳に手を当てて電話に出るようにジェスチャーされる。
どういう事だ? 分からないが今は従っておくべきだろうと、志希はスマホを耳に当てた。
「……もしもし?」
『久しぶりね、それとも久しぶりすぎて覚えてないかしら?』
「……これは何のマネ? マキノさん」
電話の相手は八神マキノだった、情報統括部と言えばマキノの所属する部署なので、多少あたりは付いていたが。
『言いたいことはいくらでもあるけど、そうね……私たちはあなたの放浪を邪魔するつもりは無いわ』
「どうして?」
『あなたを追跡していた事はあの子にも話していない、あなたにもあの子にとっても今は余計な情報になると思ったからね……ただ、もしもあなたと接触できたのなら、ソレを渡すようにと頼まれていたのよ』
男は懐から1枚のカードを取り出した、新品のキャッシュカードだ。
『あなたの今までに稼いだお金を全て別の口座に移しておいたわ、当分生活には困らない額よ』
「……これを……池袋博士が……?」
『ええ、それに余計なこと……いいえ、今更なことかも知れないけど、あの子は本当にあなたの事を我が子のように思っていたのよ、だからせめて、あなたの邪魔にならないやり方で親らしい事をしたかったのだと思うわ……全く、血は繋がってないのに口下手なところは本当に親子みたいね』
「…………」
『それだけよ』
「待って!」
通話を切ろうとするマキノを制し、志希は何とか晶葉の事を聞き出そうとした。 だけど、咄嗟のことで言葉が浮かんでこない。
何を聞けばいい? 今更何をあの人に伝えればいい? もうとっくに見捨てられたと思っていたのに、最後まで面倒を見てくれたママに。
ママは元気? 違う。
ママは無理してない? 違う。
ママは私の事をなんて言ってた? 違う。
ママは…………ママに…………。
「いつか、ママに会いに行ってもいいかなぁ……?」
浮かんでは消えたいくつもの言葉、たくさん話したいことがある、たくさん聞いて欲しいことがある、だけどそれは今じゃない。 いつか、本当にいつになるか分からないけど、一番叶えたい事はそのひとつに限る。
無理だと言われたらどうしよう、失った信頼は今更取り返せやしない、けど会いたい、そんな感情が入り交じって不安になり、志希はぼろぼろと涙を零しながらしゃくり上げた声でそう聞いた。
少し間を開けて返ってきた言葉は、たったの一言。
『いつでも帰ってきなさい』
それだけで十分だ、自分はこんなにも愛されているんだという実感が、帰るべき場所がまだあるのだと言う実感が、またとめどなく涙となって溢れ出す。
「……ありがとう」
ひとしきり泣いてから、それ以上の言葉を交わすことなく志希は通話を終えた。 男にスマホを返すと、何も言わず立ち去っていった。 恐らく、今後監視されることは本当に無いだろう。
やがて夜が明け、志希はあてもなく走り出す。
行く先々で志希は人助けを続けた、時に病院であったり、時に難民キャンプであったり、志希のやる事はいつまでも尽きないでいた。
どうしてこんな旅を続けているのか? どうして人助けをしているのか? そう問われる度に、志希はいたずらっぽく笑いながらこう答えるのだ。
「愛と平和ため、だよ♪」
風のように現れ、風のように去る、自由を愛し、平和を愛し、人を愛し。 等身大の少女を取り戻した彼女は、今日もどこかで笑っているのだろう。
〈幕間:いつか遠い未来で〉 ー完ー