〈2041年7月25日〉
茨城県水戸市。
太平洋側から接近するメガギラス撃退のため出動していたGフォースは、予期せぬムートー襲撃に対応が遅れていた。
北条加蓮と木村夏樹が出会うよりも少し前の時間、まだ住民が避難を始めていた頃、その少女はパニックの中一人取り残されていた。
「あ……い、嫌……た、助けて……!」
メスのムートーに睨み付けられ、怯えた少女は立ち上がる事も出来ずに震えていた。 妖しげな赤い瞳を揺らめかせながらムートーはゆっくりと近づいてくる、まるで、籠の中の虫を弄ぶかのように。
死の恐怖を間近にして、少女は浅く荒い呼吸を何度も何度も繰り返す過呼吸に陥っていた。 さらに追い打ちをかけるように、ムートーが咆哮する。
「う……っ!!」
金属を擦り合わせたかのような不快な声が、耳だけでなく全身に響く。
耳を塞ぎ、身を竦ませる。 やがて咆哮が鳴り止んで顔を上げた、その次の瞬間だった、ムートーが足を動かすことによって不意に蹴り上げられたコンクリート片が飛び、少女の顔に直撃する。
「っっぅあぁあぁぁぁああぁぁぁぁぁーーー!!!!」
割れたメガネが地面に落ち、血を流しながら痛みに悶え絶叫する──これが、彼女が見た最後の光景だった。
気を失っていたのか、次に目が覚めた時は病院のベッドの上だった。 病院だと分かったのも、視覚以外の情報を繋ぎ合わせる事でなんとか把握したものであり、包帯に巻かれた目が見えなくなっている事に気がついたのも、この時が初めてだ。
あれから数日経ち、ずっと眠っている間に治療を受けたのだと看護師に聞かされた。 彼女は幸運にも生き延びた。 しかしただ一つだけ、最も不幸な事実が医者の口から突きつけられる事になる。
「あなたの目は治りません」
その目は完全に光を失っていた、手の施しようのない状態だと言われ、彼女は泣き叫んだ。
「ううぅぁぁぁ……あぁぁぁあぁあぁ!!! いやああぁあぁぁあぁああぁぁぁぁっ!!!!」
そうして彼女は──古澤頼子は、深く暗い絶望の底へと落ちていった。
〈2041年11月17日・12時6分〉
あれから4ヶ月、頼子は茨城を離れ神奈川のとある丘に立てられた小さな救護施設で暮らしていた。 目に取り返しのつかない障害を負った彼女にとって、ここが最後に行き着く場所だ。
両親も茨城にあった家を失った事でこの近くに引っ越したため、毎日のように会いに来てくれる。
光のない生活にも慣れてきた、だけど、頼子にとって生き甲斐だった芸術に触れることはもう二度と出来ないのだと思う度に、黒い感情が心の中に渦巻く。
何度も、何度も、何度も、もう死んでしまいたいと思ったけれど、周りの様子が分からず、しかも一方的にこちらを監視する人の目がある以上、思っても実行する事はできない。
そんなもどかしさと、短絡的な感情に陥る自分が嫌になり、心までも閉じてしまった頼子はやがて誰とも口を効かなくなった。 簡単な受け答えはするが、必要以上の事は何も喋らない、喋りたくない。
まるで素直になれない、反抗期の子供のように。
……今日、頼子は車椅子に乗せられ、職員に押されて施設の外へ出ていた。
近づく冬の気配に肌寒さを覚え少し身を震わすと、職員がブランケットを肩にかけてくれた。 ありがとうとは言わない、けどそんなささやかな反抗にも職員は屈せず、優しい言葉をかけてくれている事に、頼子はまた心を痛くする。
「すみませーん! お電話です!」
「あ、はーい! 今行きます!」
遠くから女性の声が聞こえた、他の職員の声だ。 頼子の車椅子を押す職員を呼んでいる。
「ごめんなさい古澤さん、少し離れるから、ここから動かないでくださいね」
そう言って彼女は車椅子のストッパーをかけて、頼子のもとを離れた。
しめた、と思った。 今なら頼子は自由だ、千載一遇のチャンスだと言ってもいい。 どこかへ……どこでもいい、どうせすぐに見つかって連れ戻されるだろうから、本当にどこだっていいのだ。
頼子は、半ば自暴自棄になって何の頼りもなく彷徨い歩く。 そう言えば、立って歩く事すら久しぶりな気がする、杖があればもう少し歩きやすかったのだが施設に置いてきてしまった。
(分からない……進めているのかも……どこへ向かっているのかも……)
不幸なことはいくつもあった、だけど頼子の心を苦しめているのは、なにより頼子自身でもある。 自分の中にこんなにも黒く汚い感情が存在する事を知ってしまった事が、一番辛かったのだ。
誰かを恨み、妬み、侮蔑し、自らも追い込んでしまう自分が嫌になり、だから死にたいと思ってしまう短絡的な考えすら嫌だと、感情がぐるぐると同じところを回り続ける日々を送っている。
「アー、ゥアー」
「……!?」
そんな思いを抱えたままうろついている、そんな時だった。 誰かの野太くとぼけたような声が聞こえて、頼子は驚き足を止めた。 職員じゃない、聞いたことの無い声だ、唸り声のようだが恐らく動物でもない、もしかすると他の施設利用者だろうか。
「あの……そこにいるのはどちらさまですか?」
「ウー、ウー」
質問には答えられない、というか言葉を話せないようだ。 何も分からない正体不明の相手、しかしどういう事か、頼子は不思議と警戒心を抱かなかった。
(どうしてでしょう……むしろ、安心するような……)
「ウ、ウーアー」
声の主は頼子の手を取る、大きく硬く分厚い皮をしたその手に導かれて、頼子は歩いた。 全く不審に思わなかった訳じゃない、けどなんとなく、その人がどこかへ連れ出してくれているような気がしたのだ。
しばらく歩いて、彼女は丘の上の公園に辿り着いた。 先客は2人の少女、1人は画材を持って傾斜のある芝生の上に座って神奈川の街並みを膝に乗せたスケッチブックに写し出しており、もう1人はベンチが数個置かれているだけの広い展望台の端から端までを、何度も往復するように走っていた。
「そろそろ休んだらどうっすかー?」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……うん、そうだね、そろそろお昼ご飯に……あれ?」
「ん? わぁ! 誰か来るなんて珍しいっすね!」
2人は傾斜の芝を頼りない足取りで降りてくる頼子に気づき興味を寄せる。 先に話しかけられるとは思わなかった頼子はほんの少しだけ身構え、足を止めた。
「あの……どなたか、いらっしゃるのですか? すみません、目が見えなくて……」
「ええ!? 目が見えないのに1人でここに来たんっすか!? 危ないっすよ、ほら座って!」
と言いながら立ち上がった少女は、行き場のなくなった頼子の両手を取りゆっくりと芝に座らせた。 だがおかしい、1人では無いはずだ。 そう頼子は思ったが、言われてみて手の大きなあの人の気配がどこにもない事に、その時ようやく気づいた。
「え? あ……あれ……?」
思い返せば、2人が頼子に気づいた頃には手を引かれず自分で歩いていたような気がする。
どこかへ行ってしまったのだろうか? それにしては足が早い、頼子には分からないがこの辺りにすぐ隠れられる場所は無いはずだ。 しかも隣で手を取っていたはずなのに居なくなったことを悟られもせずに。
不思議な体験だ、狐につままれるとはこういう事なのだろうか……だけど、頼子の手には確かにあの人の手の温もりが残っていた。
(今のはいったい……?)
「初めまして! アタシは吉岡沙紀、ここで絵を描いてるんっす」
「絵を……」
両手を繋ぎながら話す沙紀の言葉に、ズキッと心が痛む。 絵など、もう4ヶ月も目にしていない。 毎日のように見ていた芸術の数々にも、もう出会えない。 そんな事を思い出して、また少しセンチメンタルな感傷に浸りかけた。
「はぁ、はぁ……ふう、私は北川真尋! あなたは?」
何往復も展望台を走り続けたその足で斜面を駆け上がってきた真尋が、息を切らしながら自己紹介し、尋ねてくる。
「古澤頼子です、ごめんなさい、目が見えなくてどちらがどちらか……」
「ならアタシが頼子ちゃんの左手側、真尋ちゃんが右手側に座れば分かりやすいっすね」
そう言って沙紀は画材ごと頼子の左隣に、真尋は右隣に座り込むと、沙紀はカバンから2人分の弁当を取り出す。
「頼子ちゃんはお昼まだっすか?」
「い、いえ、もう食べた後なのでお構いなく」
「じゃあ遠慮なく……へへへ、沙紀ちゃんのお弁当楽しみだったんだ〜」
何もかも戸惑うばかりだ、頼子をここへ連れてきた人物は誰だったのか、目が見えない自分に優しく接してくれる2人も、初対面のはずなのに優しく隔たりない態度で頼子の緊張を解してくれている。
それから話したのは自己紹介の続き、出身地だとか、年齢だとか。 驚いたことに、ここにいる3人全員が同じ17歳だと分かってから、打ち解けるのは早かった。
「……同い年の人と話すの、久しぶりです」
なんだか嬉しくなって頼子は久しぶりにくすくすと笑った。 あの被害の後学校のみんなや友達がどうなったのかも全く分かっていない、頼子自身知るのを拒否していた、皆が皆無事だとは思えないし、なにより今の自分を誰にも見られたくなかったからだ。
しばらくして、頼子は自ら視力を失った原因について話した。
「7月のムートー被害の時に瓦礫が顔に当たって……私、メガネをかけていたんです、打撲とメガネのガラス片が目に刺さったのが原因だと言われました」
「そうなんだ……」
「顔も腫れていて……でも、顔は綺麗に治ったと言われました」
「うん、頼子ちゃんすっごく綺麗な顔してるっすよ」
そこまで言ってもらわなくても……とあせあせと恥ずかしがる頼子と、それを見てニヤニヤと笑う沙紀を横目に、真尋は神妙な表情のまま食べ終わった弁当を綺麗に直し沙紀に手渡した。
次に口を開いたのは、その真尋だった。 頼子の怪我の話を聞いて、自分自身と重ねる。
「私も去年怪獣の被害に遭ってね、その時に右足を複雑骨折したんだ」
「え……っ?」
元気でハツラツとした印象の真尋から発せられる、静かで重々しい口調の言葉は、たったそれだけの一言で苦しい過去を連想させるには十分だ。
「ま、私なんて今走れてるだけマシだよ! ご馳走さま沙紀ちゃん!」
しかし、次にはもうすっかり元通りの口調に直っていて、立ち上がってから大丈夫だとアピールするようにトンットンッと軽快に跳ねてみせる。 手足を伸ばし軽いストレッチを行うと、よしっ、と両手を腰に当てた。
「もうトレーニング再開っすか?」
「座ってても調子は戻らないらね!」
言葉が先か走り出したのが先か、真尋は芝を駆け下りてまた展望台を往復し始める、沙紀もやれやれと言わんばかりにため息をついて、弁当箱をバッグに仕舞いながら話を切り出す。
「真尋ちゃん、足はちゃんと治ってるんっすよ、ブランクがあるから調子を取り戻そうとしてるってのも多分本当なんっす……けど、問題はそこじゃないんじゃないかなって」
そう言いながらもう一度画材を手に取り、スケッチブックにペンを走らせる。 写実的に描き出される絵の中には、走り続ける真尋の姿もあった。
「と、言いますと……?」
「多分怖いんっすよ、走るのが……もう二度と走れないようになるかもって言われてて、だからきちんと治ったって言っても、一度壊れた足に恐怖が染み付いてるんっす」
「そう……ですね、一度経験した痛みと恐怖はそう簡単には癒えませんから……」
その通りだ、最後に目に焼き付いたまま今も残り続けるあの恐怖だけは鮮明に思い出され、寝ても覚めても嫌というほど、何度も何度も閉ざされた瞼の裏に映し出されてしまう。
「真尋ちゃんにとって走る事が彼女の全てなんっす、走りたい、でも……足が折れた時の感覚がこびり付いて離れないからどうしても足を庇って走りをセーブしてしまう、そんなもどかしさがあの子を焦らせてるんっすよ。 まあ本人がそう言った訳じゃなくて、全部アタシの予想なんっすけど」
タタタタ……と向かって右から左へ駆けていく真尋の足音が聞こえる、確かに、音だけでも短距離を走るスピードにしては遅すぎるような気がする。 走る事が全て、ならば自分にとって全てと言っても過言ではなかったものは……。
「……私も、大好きなものを諦めなくちゃいけなくなりました」
打ち明ける弱々しい声に沙紀の手が止まる。
「絵が大好きだったんです、芸術は人が生み出した最も美しい文化なのだと私は思います……時代、思想、変革、人生、その時代を表し今に伝えるのが芸術です、絵も、彫刻も、音楽も、演劇も、芸術と呼べる全てのものにはいつだって人の心と歴史が詰まっている……!」
今にも泣き出してしまいそうな声を必死に堪えながら、頼子は心の内を吐露し、沙紀は黙して話に耳を傾けた。
「いつの時代も芸術は守られてきた、それはきっと芸術が全ての人にとって普遍的な文化だったからなのだと私は思います……けど怪獣にはそんな事は関係ない……! 私は悔しいんです! 人の培ってきた本当に美しいものまで壊されて行くことが! そして私からも……奪ってしまったことが……! 返して……! 私たちから理不尽に奪った全てを……返してください……! うっ……うぅぅ……」
耐えきれず、とうとう頼子は涙で頬を濡らした。 後には頼子の嗚咽と、真尋の不安定な足音だけが耳に聞こえる。
怪獣に心はない、あるのはただ破壊と殺戮の力のみ。 それは衝動なのか、或いはただ歩む道に転がる石ころを蹴っているだけなのかは分からないが、文化、文明、歴史、遺産……古き時代から脈々と受け継がれてきたものの多くが、怪獣によって踏みにじられているのは事実だ。
人と人が争い合う戦争の時代と、人と怪獣が殺し合う怪獣時代の決定的な差はそこにある。 この戦いに理由はない、未来はない、怪獣はただ、全てを壊すだけなのだから。
「……アタシ、幼い頃に親を失ったんっす」
やがて沙紀は静かな声で語り始めた。 泣き腫らした顔を両手で覆う頼子の肩に手を回し、その体を引き寄せて。
「そんなアタシを拾ってくれた人達がいて、まあ児童養護施設みたいなもんっすかね……そこに優しい先生がいたんっす、左目に泣きぼくろのある女の人で」
「…………」
「その時は今のアタシより何個か年上くらいだったのかな、アタシに絵を教えてくれたのもその人なんっす、でも先生は絵の描き方は教えてくれなかった、教えてくれたのは心構えだけ」
沙紀は空いた左手で地面に置かれた水彩絵の具を撫でる。 その時に譲ってもらった絵の具セットと同じものを、あれから何度も買い直しては使い続けていた。
「心に浮かんだものを描きなさいって、教えてくれたのはそれだけっす」
「心に……?」
「それが目に見えているものでも、描き出されたものは写真とは違う、絵は人の心が形になったものだっていつも言ってたっす……だから……その……あはは、何言いたかったのか分かんなくなっちゃったっすね!」
気恥しそうに沙紀は頭をかいた、頼子を励ますつもりだったのだが、どうにも上手く言葉が出てこない。 けど、沙紀の優しい心遣いはきちんと頼子にも伝わっていた。 頼子は泣くのをやめて、肩に置かれた沙紀の手を握り返す。
「…………私の心には、今までに見て触れてきた幾つもの芸術が浮かんでいます」
きっと沙紀が言いたかったのはそういう事なのだろうと、頼子は考えた。 そう、この瞼の裏に映るのは惨劇だけじゃないはずだ、そう思った瞬間、これまでの生涯で得たかけがえの無い景色が暗闇の中に幾つも浮かんできた。
「……芸術は人の歴史って言ってたっすよね、アタシもそう思う、失われた物は数え切れないくらいあって、それは人にとって大きすぎる損失だとも思うっす……けど大切なものは人から人へ伝わって、人がいる限り本当に失われることはないって、そうとも考えられないっすか?」
「…………人の歴史が続く限り、先人たちの残した芸術は残る……ええ、そうですね……だってそうでなければ、歴史は成り立たないのですから」
それから、2人は言葉を交わすのをやめた。 草木の風に揺れる音が聞こえる、鳥のさえずりが聞こえる、真尋の足音が聞こえる、自分の鼓動が聞こえる。 耳と肌に感覚を委ねると、まるで周りの景色が浮かんでくるようだった。
あぁ、それでも彼女の目に光が差し込むならば……沙紀は悔しくて、頼子に悟られないように顔を強ばらせる。
(アタシにはもう殆どモスラの巫女としての力が残っていない、モスラを呼べるだけの力があれば、何人の人を救えたか……)
沙紀はモスラの巫女である。 預けられた施設というのも、M研究所の事だ。 だが、彼女の能力は特別優れたものではなく、モスラの巫女としての限界である18歳に限りなく近づいている今、モスラを一人で呼べるだけの力はない。
もしも、仮に沙紀にモスラを呼び寄せるだけの力があったとしても濫用してはならない。 先生はこうも言っていた、「人の力だけで乗り越えられる困難は、その人自身で乗り越えなくてはならない」と。
(分かってる、分かってるんすよ……でも……先生ならこの2人を救いたいってアタシの想い、理解してくれますよね……?)
モスラは決して万能ではないし、まして救いの神なんかでもない。 ほんの少数の傷を癒すためだけに、安易に神秘の力に頼ってはならないと、理屈の上ではちゃんと分かっている。
今この瞬間にもモスラの力を欲する人達は世界中にいる事だろう。 そもそも、繰り返しになるが今の沙紀にモスラを呼び出せるだけの力が残っているかも分からない。
モスラの巫女は18歳までに完全に消失すると言うルールは、誰よりも優れた能力を持っていたとされる先生ですら例外ではなかった。
結局、自分が巫女として誰かの役に立てた覚えはない、特別な力を持っていながら、それ故に突きつけられる無力感は今なお沙紀を苦しめている。
(先生……成宮先生……アタシはどうして、モスラの巫女なんてものに選ばれたんでしょうか? アタシも、先生のようになれたなら……)
「うあっ!!」
その時、不意に聞こえた悲鳴にハッと2人は顔を上げる、真尋の声だ。 転んだのか地面に倒れ肘と膝で体を支えていた、沙紀は頼子に待っててと声をかけて真尋のもとへと駆け寄る。
「真尋ちゃん!」
真尋は自ら仰向けに寝転び、ぜえぜえと激しく荒い呼吸を繰り返していた。 よく見ると全身汗だくになっており、地面についた肘と膝を擦りむいて血が出ている。
「大丈夫っすか!?」
「はっ、はっ、はっ……はぁ……! だ、大丈夫……!」
「足は?」
「大丈、夫……はぁ……はぁ……はは、ちょっと走りすぎたかな……足がもつれちゃった……」
原因はオーバーワークだった、大きな怪我はないが、体力の限界を超えるまで走り続けたせいで体が脱力してしまったのだろう。
(どうして止めてあげられなかったんだ! 走りすぎだって、分かってたのに……!)
「こんなになるまで走ったって、むしろ悪化するだけっすよ!」
「分かってるよ……分かってるんだけどさぁ……!」
腕で熱くなる目頭を押さえ、真尋は言葉にならない悔しさを必死に堪える。 待っていてと言われた頼子も、放っては置けずおぼつかない足取りで斜面を降り、音を頼りに2人の元まで寄ってきた。
沙紀はそんな頼子に気づくと彼女の体を支え、ゆっくりと地面に座らせた。
「気持ちの問題なんだよ、もう……私の足は治ってるはずなんだから……でも! 怖いんだよ……! 怪獣が来てさ、建物が崩れて、私の足はその瓦礫に押し潰されて! 痛かった! 怖かった! その時の感覚が走る度にまた襲ってくるんだ!!」
「真尋ちゃん……」
「ならいっそ走るのを諦められれば良かったのに……でもダメなんだ、治っちゃったんだから……私は諦められなかった……!」
風を切って走るあの感覚、誰も追いつけない先頭の景色、その景色を今もずっと求めている。 けれど走るほどにどんどん自分自身の背中が遠ざかっていき、やがて足が止まる。
「頼子ちゃんは治らないって言われたんだ、私は恵まれてる……ならもっと頑張らなきゃ、示しがつかないじゃん……う、うぅ……くっ、う……!」
沙紀は浅はかな考えに頼ろうとした自分を恨んだ。 真尋の傷はとっくに治っている、けどモスラにだって心を癒すことはできない。
神は乗り越えられる試練しか人に与えないというのは誰の言葉だっただろうか? その真意は知るところではないが、本当にそうなら神様なんてろくなものじゃない。 自分には何も出来ないのか、そんな無力さに打ちひしがれていたところで、頼子が真尋の手を取った。
「いいえ、真尋さんと私は一緒です、思うように走れない真尋さんと、大好きな芸術に触れる事ができなくなった私、同じでしょう? 私の方が辛いとか、真尋さんの方が恵まれているとか、そんなことはありません、辛いのは一緒なんです」
「頼子ちゃん……」
「自暴自棄になっていました、死んでしまいたいとも思っていました、それを実行する力も勇気も無いことを悔やんだりもしました……でも、お2人に会えて私は救われた」
「どうして……?」
「沙紀さんには私の大好きなものは本当には失われていないと教えられました、真尋さんには諦めないことの大切さを教えられました……だから……だからあなた自身を捨てないでください、私も真尋さんに負けないくらい頑張りますから、どうか焦らないでください」
「でも……」
「私も怖いです、最後に見た怪獣の顔が頭から離れません、暗闇の中で数え切れないほどあの日の恐怖に襲われました……けど真尋さんにも沙紀さんにも、そんな私の心を救えるだけの力があるんです……だから、私の大好きな真尋さんを、真尋さん自身が大切にしてあげてください」
それは頼子自身にも言い聞かせている言葉だった。 励ましの言葉なんていらないと何度も何度も人の言葉を跳ね除けてきたのに、自分では真尋に言い聞かせるなんてずるい事をしているとも、自覚している。
だけど言葉をかけずにはいられない、傷ついた心は、ましてや脳裏に刻み込まれたトラウマは、いつまでも真尋を蝕み続ける。 自分に出来るのは、ただ声をかける事だけだった。
「私も諦めません、だからいつか必ず真尋さんの走る姿を、そして沙紀さんの絵を、この目に見せてください」
無理な話だと言うのは頼子が一番よく分かっている。 医師には手の施しようがないと言われている以上、決してその景色を見る日は来ないだろう。
でも世界を感じる事はできる。 真尋の息遣い、走る足音、沙紀の筆を走らせる音、スケッチブックに写し出された乾いた絵の具の手触り。 残された視覚以外の五感の全てを使って、この世界を感じ取る。
「そうだよね……私はまだ走れるんだ、ただ怖がってるだけ……目が見えない怖さに比べたら、些細な事だよね」
「そ、そういうつもりでは……」
「いいんだ、頼子ちゃんのおかげですっごく気持ちが軽くなった気がする……だから必ず追いついてみせるよ、理想の私の背中に、私の見たい景色に届くまで、どれだけ時間をかけても、必ず」
真尋は仰向けになったまま空を仰ぐ、冬の到来が近づくことを教えてくれる、澄み切った青空と流れる雲。 焦りも恐怖もこの空に溶けて消えてゆくような気がして、背負っていた幾つもの邪魔な荷物が肩からすり落ちていった。
「いい天気だなぁ……」
つられて沙紀も寝っ転がり、頼子もそれに続く。 少し肌寒くもポカポカとした陽気に包まれ、心地よい微睡みが3人を安らぎへと誘う。
(あぁ……感じる、肌に空気を感じる、鼻に草の香りを感じる、耳に2人の息を感じる……私はまだ、生きている……)
「…………ん……?」
頼子がこの世界を感じ取っている、そんな時だった。 沙紀はなんとなく誰かに見られているような気配を感じてゆっくりと瞼を開けると……目の前ですっとぼけた顔をした灰色の怪獣が、寝転ぶ沙紀の顔を覗き込んでいた。
「うおおおぁぁぁっ!?」
驚いて飛び起きた沙紀にまた驚き、2人も飛び起きる。 真尋は「誰!?」と怪獣を見て混乱するが、頼子には何が起こっているのか分からない。
「み、ミニラ!?」
沙紀が怪獣の名前を呼ぶと、ミニラは笑っているような声を上げながらぴょんぴょんと跳ねて喜んだ。 どうやらビックリさせて遊んでいたようだ。
「その声は……私をここに連れてきてくれた手の大きな人……!?」
「ウーウー、ウァー」
そうだそうだと言っているのだろうか、ミニラは自分が彼女をここに連れてきた事をアピールしているような仕草をとる。
ミニラは非常に友好的な怪獣だ、あまり姿や名前は知られていないがモスラの巫女である沙紀はよく知っている。 モスラと同じく、人類に味方する怪獣……もっとも、人より力が強いくらいで怪獣としての戦闘能力は無いに等しいが。
「そっかぁ、ミニラが頼子ちゃんを連れてきてくれたんっすね」
「ウアー」
「へへ、ありがとうっす」
「言葉わかるの?」
「いや? 全然」
沙紀と真尋が話している隙に、ミニラは頼子のもとに近寄り目の前で綺麗に正座する。 差し出された右手にはキラキラと黄金色に光る粉が乗っていた。
「それはモスラの鱗粉!?」
粉の正体に気づいた沙紀は驚きのあまりついモスラの名を口にしてしまう。 だが本物なのは間違いない、どうやって持ってきたのかは分からないが、沙紀にはそれが紛れもなくモスラの鱗粉であると感覚的に分かる。
「え!? これがそうなの? よく知ってるね?」
「あっ……あー、いやその、昔ちょっと見たことあるんっすよ、ははは……」
復習になるが、モスラの巫女は表向きには秘匿されているし、G対策センターにとって重要機密でもある。 もちろん、普通の友達である真尋には自身がモスラの巫女である事は教えていないし、真尋もモスラの巫女という少女がいることさえ知らない。
「ミニラさん……?」
「ウゥー、アー」
ミニラは頼子の頭の上にパラパラとモスラの鱗粉を振りまくと、暖かな光が頼子を包み込む……この後に起こるであろう奇跡を予感し、沙紀と真尋は息を飲んでその様子を見守った。
「…………!」
ふと、暗闇の中に光が差した。 うっすらと、少しずつ光は広がっていき……頼子は恐る恐る目を開ける。
「ああ……こんな……こんな事が……!」
ボヤけた世界の輪郭が、色が、少しずつ鮮明になっていく。 目の前にいる灰色の「優しい人」の顔も、スポーツウェアを着たショートヘアの少女も、指や頬に絵の具が付いたままの少女も、ハッキリとその目に映る。
「沙紀さん……真尋さん……!」
2人の顔はすぐに分かった、全て見える、青い空も枯葉が舞う地面も……しかしそれらは間もなく不明瞭に滲み出して、再び頼子は視界を失った。 もっと見ていたい、けれど、溢れ出る涙はそれでも止まらないのだ。
「う、うぅぅ……!!」
涙を拭ってはまた目を開けて、嘘じゃないことを何度も確かめる。 沙紀と真尋が体を抱き寄せ、3人はしっかりと体を支え合う。
「よかったぁ……よかったよぉ!」
「頼子ちゃん……!」
「う……うぁぁぁ……! あぁぁぁ……!!」
その言葉にとうとう頼子は子供のように泣きじゃくり、喜びを涙と共に顕にする。 こんな日は決して訪れないと思っていた、二度とこの世界を見る事は出来ないと思っていた、けど、奇跡は起こったのだ。
「ありがとうございます……! ありがとう……本当に、本当にありがとう……!」
3人はずっとお互いの体を抱き寄せ合い、涙が乾くまで泣き続けた。 ひとしきり喜びを分かち合い落ち着いた頃、3人は顔を見合ってついクスクスと笑った。
「ウウアー」
ミニラは体を離した3人の間に割って、手のひらに残されたあと僅かなモスラの鱗粉を真尋に見せた。 真尋の足を指さし、鱗粉を使うのか?と問いかけているようだ。
真尋は、ふるふると首を横に振って、迷いなく答えた。
「もう治ってるよ」
答えを聞いたミニラは大きく頷くと、手を強く振り払って残った鱗粉を空に離す、すると鱗粉はキラキラとその光を増したかと思えば空気に溶けていくように消え去った。
ほんの一瞬見せた儚くも幻想的な輝きはまるで祝福の花火のように、全員の瞳に強く焼き付いた事だろう。
「……私に必要なのは奇跡じゃない、ちょっとした時間だけなんだ」
それからミニラは立ち上がると、手を前に出したり、走るようなジェスチャーを見せるが何を伝えたいのか分からない。
うーん……とミニラは顎に拳を当てて悩むような動作を見せたあと、そうだ! とばかりに拳を左手のひらに打つ。 言葉は分からないが感情はとても分かりやすい、ミニラはやんちゃな子供のようだった。
ミニラは沙紀の置きっぱなしの画材を取りに走ると、鉛筆を手に取ってスケッチブックの真新しいページに何やら描き始めた。 太く大きな指の割には意外と器用な手つきだ。
気になった3人がミニラに追いつく、描いていたのはイラストのようだった。 子供の落書きのような大雑把なイラストだが、走っている人の絵とそれを追う角の生えた人の絵に見える。
「あ、鬼ごっこだ」
真尋が答えるとそうそうと言わんばかりにミニラが真尋を指さし、続いて拍手を送る。
「おー、意外と上手いっすね」
「ミニラさんは鬼ごっこがしたいのですね」
「やろうやろう!」
それからジャンケンで最初の鬼になった沙紀と、沙紀から逃げる頼子、真尋、ミニラの3人。 彼女たちは童心に返りまるで古くからの友人のようにはしゃぎ回った。
今この世界はゆっくりと、しかし確実に破滅へと向かっている。 この30年間、奇跡に縋り救いを求める声が止んだことは無い。
ミニラはなぜ彼女たちの前に姿を見せたのか、ミニラはどこから来て何のために去っていくのか、その真意を知るものは誰もいない。 神出鬼没、不意に現れては誰かに手を差し伸べて、いつの間にか居なくなる謎の怪獣ミニラ。
鬼ごっこを始めてしばらく、くたくたになった4人が芝生で寝転がっている所へ頼子を探しに施設の人間がやってきた。
頼子の目が治っている事に驚く彼女にこれまでの経緯を説明するのはちょっと大変だったが、やはり不思議な事に彼女は3人を発見した時、一緒に寝転んでいたはずのミニラを目撃していなかった。
だけど3人には分かる、きっとミニラは世界のどこかに居る、助けを求める誰かのもとへと行ってしまったのだろう。
「ありがとう、そしてさようなら……手の大きな優しい人」
滅びゆく世界の片隅で起こった、とある小さな奇跡のお話。 少女達の瞳に映る景色は、それでもまだ輝いて見えた。
これは、怪獣によって狂わされた世界を生き抜く少女たちの群像劇。 数多の困難と、幾多の決断の先に辿り着いたただ一つの終着点。
対ゴジラ最終決戦まで、あと17日──。
〈エピソード13:心の景色〉 ー完ー