ダンジョンにすっごい研究者が現れた 作:緑黄色野菜
「トーッドくーん」
「なーあーにー」
ある日のこと。
ヘスティアはにっこにこに笑いながら、スキップしてアルテミス・ファミリアを訪ねた。アルテミス当人はおらず、どこかに出かけているようだったが。なぜだか最近は、彼女がホームを空ける事も多い。どのみち、その日用があるのは彼女ではなかったが。
「えへへー。なんとだね! ついに! ボクにも眷族ができたんだよ!」
「そりゃ、おめでとうございます」
胸を張るヘスティアに、トッドはぱちぱちと手を叩いた。
(ヘスティア視点で)万雷の拍手を受けながら、彼女は悦に至っていた。トッドも、調子よくそれに乗る。
今、彼が何をしているでもない事は分かっていた。今一番の稼ぎであるシザウなんちゃらを作るのも、一段落していると聞いている(一本のお値段も聞いた気がするが、その直後の記憶がない。きっと覚えていない方が精神衛生上いいことだったのだろう)。今は、次の研究テーマを決めるための、こまごました研究をしているのだとか。まあつまりは、割と暇なわけだ。
「という訳で、お願いがあるんだけどいいかい?」
「なんすかー?」
庭でひなたぼっこをしながら、あれこれ研究テーマを考えて。そんな風に軽く答える程度には暇だった。
アルテミス・ファミリアは、オラリオでも珍しい研究系ファミリアである。昔は金策のために探索系ファミリアの真似事もしたが(そのため結果的にLv.4まで上がった)。今はダンジョンアタックをする必要がないほどに、いろいろと潤っている。
「ボクの眷族、ベル・クラネルって言うんだけどね。言っちゃあなんだが、ド素人なんだ。少し面倒を見てくれないかい?」
「いいですよー」
返事は超軽かった。
トッド・ノート。年齢は二十代半ば。研究系ファミリアであるアルテミス・ファミリアの団長にして、唯一の団員。
得意武器はあると言えばあるし、ないと言えばない。徒手空拳から投擲武器まで何でも使える。なんでも、使えない武器を打つのは極めて難しいため、大抵の武器は扱えるよう修行したとか。そのため、少し前までは
それが、ベル・クラネルが知るトッド・ノートの情報だった。まあ、これも主神であるヘスティアから聞きかじった程度の事ではあったが。
他にも、人が良いだとか料理が飛び抜けてうまいだとかいう話もあったが。まあ、それらはこれからする事に必要な情報でもない。
ベルが今いるのは、アルテミス・ファミリアのホームにある庭だった。三方を壁で囲まれ、残りの一遍はホームへとつながっている。こう言ってしまってはなんだが、ヘスティア・ファミリアのホームよりもしっかりした作りだった。とはいえ、所詮普通の一軒家の延長と言ってしまえば、その程度のものでもある。
庭の中央あたりで、彼は体を慎重に解していた。今まで特別な訓練をしていなく、また若い体だけあって、柔軟性だけはそれなりだった。
正面で相対するトッドは、軽く肩を回している程度だった。初対面の時に着ていた白衣は、今は着ていない。半袖の運動着のような恰好で、肩を重点的に解していた。
「んじゃ、ベル君。基礎の基礎の、そのまた基礎を教えるが」
「はい!」
軽すぎず重すぎず、そんな調子で声を発するトッドに、少年は元気よく答える。
「先に言っておくけど、俺の教えは、修めれば劇的に
「ええと……はい」
言っていることの意味がよく分からず、返事はぼんやりとしたものになった。
彼は今度は、指のストレッチを始めながら、苦笑した。
「分からないか。そうだな、俺の教えることは、勝てるようになるより、まず死なないようにするためのものだって事だ。負けない事に重点を置いた教えだ、って言った方がわかりやすいかな?」
「それなら、なんとなく」
言うが、実はそれすらもよく分かっていないのかもしれない、とはベルも思っていた。
トッドがそれを承知していない訳もなかっただろうが。それでも気にせず、習うより慣れろといった感じで、それ以上は何も言わなかった。
彼は腰に下げていたグローブを手に取った。オープンフィンガーの、やたら太いグローブだ。革張りで、ナックルの部分にはたっぷり綿が入っているのが見ただけでも分かる。グローブをつけて、彼は拳の感触を確かめた。手のひらがナックル部分に、かなり深く沈む。それだけ緩衝材としての役割を果たしてくれるのだろう。
「ベル君はナイフ使いだったか?」
「はい。ナイフをメインウェポンにしようと考えてます。他の武器も考えたんですが、僕の体格だと……」
「まあ、その身長に体の細さだと、逆に振り回される事になりかねないよな。俺も悪くない選択だと思う。体重差はステイタスの値で埋められないものの一つだ」
彼はグローブの紐を締めながら言った。
「木製のナイフは明日用意しておこう。今日はそのままで我慢してくれ」
「はいっ!」
「先に言っておこう。俺は君に、回避や受け流し重視の訓練を課す。これはさっきも言ったとおり、君には体重がないからだ。攻撃を防御できても、踏ん張れるだけの体重がなければ意味がない。次に続かないんだ」
言葉に、ベルは神妙に頷いた。
トッドが左半身を引いて、拳を顎の高さまで上げる。ベルもそれに対して、我流ではあるが構えた。腰を落として、左足をやや引き、自分が一番動きやすいと思える姿勢に。
「行くぞ」
言葉とほとんど同時だった、と思う。最初に頭が揺れて、次いで軽い音が体の中から響いた。
気づけば、ベルは尻餅をついていた。顔がじんわりと熱くなり、それで殴られたのだと気がついた。
まるで分からなかった。すべてが終わるまで、何をされたのかすら。恐ろしく早く、そして鋭い。たった一撃だけで、ベルは今まで出会ったこともないほどの超人的な使い手だと悟った。
「今のはレベル差によるものではない」
トッドが、手を差し出しながら言った。自分を立ち上がらせてくれようとしているのだと気づいたのは、それから数秒後の事だった。手を取って、なんとか立ち上がる。ダメージはないが、何も分からなかったという衝撃は、未だ深く精神に根付いていた。
「単純に、動きを最適化した結果だ」
「最適化、ですか?」
「そう。体から挙動を可能な限り消して、予備動作を感知させない。戦う場合は、三つの段階が必要なんだ」
言って、彼は指を三本立てた。分厚いグローブをつけているので、見た目は大分不格好だったが。
「対応する、反応する、察知する。この三つだ。対応するは、攻撃に気がつき、それに対処する動きができるという事。反応するは、そもそも挙動に気がついて体を動かせるという事。察知するは、反応こそできないものの、とにかく攻撃をされた事に気がつくという事。俺はこの三つで判断している」
「なるほど……つまり僕は、まだ一番最初の察知すらできてない状態という事ですね」
「その通り。まずは気付く。ここから始めなけりゃならん。じゃないと、モンスターに何をされたかも分からず殺される、なんて事がありえる。下級冒険者によくある死因の一つだよ」
「わかりました! よろしくお願いします!」
元気よく叫んで、ベルはもう一度構えた。今度は先ほどより腰を落とし、目に神経を集中して。
トッドが再び拳を上げると、ぱっと消えた。というか、いきなり拳が大きくなった。すぱん、と軽い音を立てて、顔がはじける。今度は準備をしていたため、転がるような無様な真似はさらさなかったが。反応できていなかったのは変わらない。
「どうだった?」
「ふぁい……いきなり、拳が大きくなった気がしました」
「それだけ分かれば上等だ。君はかなり目がいいよ」
トッドが突き出し、いつの間にか引いてきた拳をぷらぷらと振りながら続けた。
「俺はLv.4だが、同じレベル帯の人間と比べて強いかと問われたら、はっきりと弱いだろうな。でも戦っていざ負けるかと問われたら、そうでもないと答える。その理由が、相手の攻撃を察知するのがうまいのと、攻撃を最短最小の動きで放てるなら、相手に気付かせづらいからだ。これが意外と、モンスターにも有用でね。モンスターは人間より遙かに反射神経がいい。だが、その分素質によりかかりがちだ。気付けない攻撃をできるようになれば、格上とだって戦えるよ」
「僕も、できるでしょうか?」
「そりゃ君しだいだ。ただまあ、できるようには教えるつもりだよ」
言われて、ベルはぐっと拳を握った。
素直にすごいと感動する。同時に、自分がこれをできるようになれば、一体どれくらい強くなれるだろうか、とも。
「よろしくお願いします!」
叫んで、ベルは再び構え直した。
その日は顔が腫れ上がるくらい殴られた。もらったポーションで傷一つ残りはしなかったが。
それから数日、ベルはまだアルテミス・ファミリアに通っていた。
毎日、という訳ではない。時にはダンジョンに潜って稼いだりもしているため、通う日はまちまちだ。それでも、鍛錬の成果は出ていた。
ナイフの基本的な戦闘術は習った。これに関しては、自主練に任せるという形になっていたが。ベルは毎日欠かさず、ナイフの型練習を行っていた。トッドほどとはもちろん言えないが、それでも三流、つまりド素人を脱却できたと言える程度には腕を伸ばした。
特訓をして、ダンジョンに潜って。その繰り返しをしていると、自分が強くなっていく実感を得られた。人に言えば、一番伸びる頃なんだから当然だ、と言うのかもしれない。それでも、ベルは嬉しかった。
動体視力訓練になれてくると、だんだんとトッドの拳も見えるようになってきていた。コツは、攻撃部位には集中しないことだ。むしろその周囲、肩やら腰やら、どこからパワーを伝達して放たれるかを察知することだった。これが分かってから、攻撃の回避率も格段に上がった(といっても、やっぱりほとんど攻撃をもらうのだが)。
「ベル君も強くなってきたな。初級は卒業して今日からレベルを上げるか」
「本当ですか!」
やったー、と少年は小躍りして喜んだ。鍛える、そして成果を認められる。これほどモチベーションが上がることはない。
トッドが拳を上げると、ベルも同じく木製ナイフを構えた――トッド曰く、構えが様になってきた――
彼の肩の筋肉が、ぴくりと動いた気がした。本当に、ささやかな変化だ。ともすれば見逃すし、そうでなくとも気のせいだと無視するような、そんなささやかな変化。しかしベルは自分の勘に従って、前進しながらヘッドスリップした。
ベルとトッドには身長差があり、それ以上にステイタスによるスペック差がある。そのため、彼の懐に潜り込むには、都合二発のジャブをかわさなければならなかった。
最小限の動きで、拳の横をくぐり抜ける。頭皮と革がこすれて、焦げたような匂いがする――いつもならば。
ぱん、と小さな音を聞いて、ベルは目を白黒させた。気がつくと、避けたはずのジャブが軌道を変えて、側頭部を払うように殴っていた。
衝撃は相変わらず小さなものだったが、回避を確信していたのと、姿勢が半端であったため、思わず地面に転がる。初日以来、初めての事だった。
ベルはぎょっとしながらも、素早く地面を転がった。すぐさま距離を空けて立ち上がる。これも訓練中に言われたことだ。
つぅ、と頬から汗を垂らして、ベルが問う。
「今のは……?」
「ネタを明かせば簡単だがな。肘をたたんで軌道を変えただけだ。たったこれだけで腕はしなって鞭のような動きになり、避けたと思い込んだ相手に当たる」
軽く手を振って――これも見慣れた動作だ――トッドが言った。
「当たり前だが、ダンジョンじゃ人型のモンスターの方が少ない。中には軟体で、体を縦横無尽に振り払ってくるタイプもいる。分かるか? ただの直線、ただ弧を描くだけじゃないんだ。そうじゃなくても、ただ偶然そういう状況になったり、というのもありえる。モンスターと戦うのは単純じゃないぞ」
さあ大変だ。トッドは言って、構えた。
「今までみたいに、単純な軌道だけ警戒してればいいわけじゃない。もっと神経を尖らせてなきゃいけなくなった訳だ」
「う……が、頑張ります!」
言われれば、確かにその通りだった。
トッドの格闘術は、高度に纏まったものだった。素直な戦い方だ、と言ってもいい。ジャブ、アッパー、フック、それらの動作の起点を見つけ、最小限で対処していたのが今までだった。
だが、これからは違う。動きの中に変化が混ざる。この分だと、嘘まで混ざってくるかもしれない。
判断に迷えば、動きは鈍化する。鈍化すれば、対応が間に合わない。選択肢が増えるという事はそういう事だ。いや、もっと複雑に、擬似的な多対一まで作ってくるかもしれない。こういった点は、意地が悪い師匠なのだ。
「ついでに言うと、これからは左腕と両足も出てくるぞ。気をつけろよ」
「うぁ……」
ベルは思わずうめいた。
今までだって、右手一本相手に余裕があったわけではない。いや、むしろいっぱいいっぱいだった。それが、単純計算で四倍。体の警戒箇所を考えれば、要求される集中力はその程度の倍率では済むまい。
「ううぅ……」
ベルは気弱にうめいた。
が、気合いを入れるように、両手をがっと持ち上げる。そして、声高に絶叫した。
「うがあああああ! やります! やってやりますとも!」
「オーケーオーケー、その調子だ」
それから、トッドの手管は苛烈だった。
もらわないようになってきたジャブに連続して当たる。左の、弱めのストレートが顔にめり込む。蹴りは防具をつけていないため、かなり手加減されたものだったが。それでも、何度も足下を払われ、こかされた。
(ここまでされると、分かってくる)
顔のすぐ横を通り抜けていく右を、ナイフでいなしながら。しかし、今までとは違い、全然前進できなくなってきている。これは、ただ単に集中すべき箇所が増えただけという訳ではない。
(今まではわざと、予兆を見せてくれてたんだ……もしかしたら、今も)
トッドの攻撃は、素早く、予備動作なく、そして鋭かった。ただ身体能力に任せて、とにかく防御できないのとは訳が違う。ベルが対応できるかできないかのレベルにまで落として、自発的な能力の向上を促している。それを思い知った。
甘くはないけど、やさしい先生。それがトッドだった。
それからいくらかの時間。ナイフと体術の技能も向上して、なんとかついて行けるようになった。手で払うのは、危険が大きいからなるべくしない。ナイフの背で、攻撃を押すようにして躱す。足は可能な限り大きく上げない。上げてしまえば、回避が必要なときにその余裕を失う。視線を絶え間なく動かして、とにかく全身を常に把握できるようにしておく。そして、動いたと思ったら、即座に体を動かす。回避が一番、防御が二番、攻撃が三番という優先順位で。
修行はつらかったが、同時に充実もしていた。強くなるのは楽しい。そして、褒められるのはもっと嬉しかった。なにより、ダンジョン内で修行の成果がでれば、さらに高揚して修行に熱が入った。
適正レベルであればまず遅れを取ることはない、と合格点をもらえたのは、さらに数日後の事だった。