ダンジョンにすっごい研究者が現れた 作:緑黄色野菜
初めて出会ったのはいつのことだっただろう。アルテミスは考える。
少年というほど小さくはなかった気がする。でも、青年というほど熟達もしていなかった。そんなおぼろげな記憶。ただ一つ覚えているのは、寒かったという事だ。身も心も震え、凍えるほどに体が冷たかった。体の芯まで怖気が支配し、彼女はもう、一歩も動けなかった。動こうとさえ思えなかった。全身から血の気が引いた体は、全く動こうとしてくれない。動く気にすらならない。それが、失意故の――無力感だった。
そんな状態だったから、どうやってオラリオまで来たのかも覚えていない。最初は、助けを求める気だった気がする。しかし、今更救援を請うて何になる? すでに助けたいものはすべて失った後なのに。
何もない。アルテミスにはもう、何もない。
そんな状態で、街の隅の方で、小さくうずくまっていた。確か、そのときだったと思う。彼に声をかけられたのは。
『神様、ですか?』
問いかけには、確か答えなかった。その男は、小さくなって足を抱えて座り込んでいるアルテミスを見下ろしていた。暖かくも冷たくもない目。ただ、疑問だけを投げかけてくる。
それが、逆に心地よかったのかもしれない、とアルテミスは後に思う。哀れまれるのも、気を遣われるのもたくさんだった。いっそ責め立ててほしかった。ファミリアを壊滅させた、無能な神を。
『ちょうどいいや。俺を眷族にしてもらえませんか?』
彼は、アルテミスの事情などお構いなしにそう言った。
そのときの自分は、どうかしてたのだろう。そう思う。だって、そんな状態で、なおやけになって眷族を作ったのだから。
彼女はぼろぼろの状態で立ち上がった。そして、なけなしの金で借りた倉庫。そこに唯一ある、水晶に包まれた“槍”を手に持たせてみた。結果は……彼には引き抜けなかった。
正直に言って、当時の彼女にとって、男はどうでもよかった。ただ、すべてを“終わらせられる”かどうか、それだけが重要だった。
彼はオリオンではなかった。当時のアルテミスにとっては、それがすべてだった。
そこから、一柱と一人のファミリア生活が始まった。失意に飲まれていたアルテミスは、当時の事をよく覚えていない。が、それがろくでもなかった事だけは分かった。なにせ、自分は生ける屍も同然だったのだから。それこそ、男の名前を覚えたのすら、大分後だったと記憶している。
男――トッド・ノートはめちゃくちゃな人間だった。“槍”の事などすぐに忘れ、残った金で借家を借りた。そして、とっとと資金繰りのためにダンジョンへ潜っていったのだ。
彼の戦い方は、めちゃくちゃだった。武器を持って、とりあえず食料庫に突っ込む。そして、死ぬギリギリか、さもなくばモンスターがいなくなるまで戦い続ける。その繰り返し。余人が見れば気でも触れたかと思うほどの無謀な戦い方だった。だが、そのおかげで、ファミリアに多少の余裕ができたのも確かだろう。
トッドは決して甘い人間ではなかったが、しかし優しさがないわけでもなかった。でなければ、当時何もする気が起きなかったアルテミスを面倒見る訳がない。動くのすら億劫だった彼女の面倒を見るという事は、つまりほとんど介護と同じだったのだから。
アルテミスは、いつもベッドにうずくまり、そして起きてるとも寝てるとも知れない夢幻の中で、ただ願っていた。今が早く終わってくれればいい。トッドに逐一面倒を見られるのも、そして彼が自殺のようなダンジョンアタックを繰り返すのを見送るのも、全部たくさんだった。
女神にいくらか力が戻ってくると、やがて彼女はトッドを拒絶するようになった。それは、強いものではなかった。そこまで彼女の心は回復していない。やんわりと、無視をする程度のものだった。
トッドはそれでも見捨てなかった。
その理由が、なぜだかは今でも分からない。少なくともその時点で、一年は過ぎていた。改宗してもよかったはずだ。それでも、彼はそうしなかった。幾度となく改宗を勧めたのにもかかわらず。
絶望した女神と、何を考えているのか分からない眷族の生活。それは暫く続いた。
彼がLv.2になった頃だろうか。アルテミスは、やっと顔を上げることができた。と同時に、思い知らされた。自分は、彼がそこにいるというだけで、ずいぶんと救われていたのだと。いつしか――涙は流さなくなった。流せなくなったわけではない。過去が消え去ったわけでもない。何も代わりはしない。ただ、未来は少しだけ、見えるようになった。それを知って、彼女は泣いた。最後の涙だった。
そんな風に引きこもっていたものだから、当然神会には参加していなかった。そのせいで、トッドの最初の二つ名は、とんでもないものにされてしまったが。出会ってから今まで、ろくに会話をしてこなかった。初めて彼女から話をしたのは、たしかそれについてだったと思う。痛々しい二つ名についての謝罪は、正直おまけだ。ただ、彼との会話の糸口を探していたに過ぎない。アルテミスはベッドから起きて、彼に謝罪をした。そしたら彼は、「どうでもいいです」と、簡単に一言答えただけだった。
ぶっきらぼうな彼の様子に、アルテミスは笑った。それこそ、涙が出そうなほど笑った。彼はきょとんとしていたが、それでも何かが面白くてたまらず笑った。ファミリアが壊滅して数年、久方ぶりの笑みだった。
トッドがLv.2になって、稼ぎも増えた。相変わらず彼のダンジョンアタックはイカれていて、今度は中層の食料庫にこもってひたすらモンスターを倒す、という事をしていた。何度も止めたが、それだけは絶対にやめてくれなかった。
やがて、ホームを買った。通常よりやや高い、一戸建てに壊れかけた倉庫がある、庭付きのホーム。新しい門出を感じさせた。
借家を引き払い、引っ越しをしている最中だったと思う。アルテミスは、当たり前の問いを問いかけた。
『なんで君は、私を見捨てて他のファミリアに入らなかったんだい? その方が楽だっただろうに』
『アルテミス様が主神で、俺がその眷族だからですよ』
その言葉に、どんな感情がこもっていたかは分からない。トッドは内心を悟らせないのが得意だった。いや、感情を表現するのが苦手だったのかも知れない。いつもの仏頂面で、何を当たり前の事をとでも言うようにそう言った。
ただ一つ、アルテミスに分かったのは。
彼はもう、彼女にとってなくてはならない存在だという事だった。かつての家族と同じく、愛しい愛しい自分の子供だという事だった。
それから生活は、少しだけ変わった。
トッドは前ほどダンジョンアタックをしなくなった。その代わりに、貯めた金を大放出し、壊れかけた倉庫を改装して、研究室を作った。そこに、自作の研究施設まで作って、ダンジョンに潜らない日はそこに詰めているようになった。
アルテミス・ファミリアが研究系ファミリアとして産声を上げた瞬間だった。
トッドはコミュニケーションが下手だ。口から出る言葉は大抵皮肉気で、ともすれば相手をつついているようにも感じる。そんな彼の主なコミュニケーション手段が、生産だった。彼は作ったもので、その感情を告げる。今にして思えば、料理もその一つなのだろうと思えた。
トッドの研究に関しては、ほぼ放置していたが。ある日、彼女はトッドの研究室に入って、問いかけてみた。
『トッドは何を作っているんだい?』
『何を……ですか。難しい質問ですね。まあ、ファミリアのためになるものではありますよ』
そう言って、彼は研究を続けた。
研究の成果が出るのは、大分後の話だが。彼はそれまで、ダンジョンアタックと簡単な生産品でこまごまと稼ぎ、糊口をしのいでいた。
研究は過大な金銭が必要になるものではなかったが、しかし金がかからないものでもない。生活は楽ではなかった。それでも、二人してなんとか日々をしのぐ生活は、楽しかった。かつての……もう存在しないファミリアでの生活を思い出させた。そんなときは、少しだけ悲しくなった。
トッドがそれに気付いてなかったという事もないだろう。彼はあれで、人の機微には聡い。それでも見ないふりをしてくれたのは、ありがたかった。今と昔を比べているようで、申し訳なく思っていたから。
それからいくらかして、ギルドのクエストからアイズが来た。時をほぼ同じくして、レフィーヤも出入りするようになった。
研究は加速度的に進んだ。いや、前々から研究自体はかなりの所まで進んでいたらしい。ただ、サンプルが足りず、最後の一押しにならなかったのだとか。とにかく、最終パーツが見つかり、アルテミス・ファミリアは一躍有名なファミリアとなった。
やがて神友であるヘスティアも下界に降りて、ファミリアを作った。彼女もアルテミスと同じく一柱一子の小規模ファミリアだが、やはり楽しそうだ。ホームにやってきては、その嘉悦を交換しあっている。
楽しかった――ああ、本当に楽しかった。
この十年近く、日々の進みを感じなかった事はない。大事な子供を愛おしく思わなかった事もない。
そして――裏切りに胸を痛めなかった事もない。
楽しかった日々が終わる。
もう終わらせる。
だから――
アルテミスは、閉じていた目を開いた。
狭い私室で一人、椅子に座っている。瞳を閉じて、まるで今までの日記を読み返すように、懐古していた。それも、もう終わりだ。
どの記憶も、楽しかったことばかりではない。時には苦々しいものも残っている。トッドとは、喧嘩だってしたこともある。それでも編集してしまえば、最終的に残るのはやはり笑い合った思い出だ。
「うん、悪くない」
アルテミスはつぶやいた。
「本当に、悪くないな……」
窓の外を見る。夜の暗闇を、月光がやさしく照らしている。淡い光のカーテンに、しかしアルテミスは、皮肉と悪意を感じた。この先に訪れるものを分かっているから。
家の中はしんと静まりかえっている。それは、夜だからと言うだけでもない。トッドが不在なせいだった。
研究系ファミリアとして立ち上げて向こう、トッドが長く家を空ける事は珍しくなった。そんな彼が今いないのは、ヘスティアたっての願いのためだ。彼女の子供、ベルがダンジョンから帰ってこなくなったらしい。なんでも聞いた話だと、怪物進呈をされてそのまま迷ったのだとか。捜索隊に、トッドも混ざっていた。もう帰ってきてはいたが、今はバベルで事情を話している最中だ。
これは好機でもあった。トッドがいないということは、それだけ秘密裏に事を進められる。もっとも、それとて確実とは言えなくはあるが。なんにしろここで稼げた時間は貴重だった。おかげで最後の詰めに入るのに、小細工がいらなくなった。
「やあ、アルテミス」
「ヘルメス」
外を眺めて、ぼんやりとしていた彼女に。一人の神が話しかけた。
ヘルメス。共謀者。そして、終わりを告げる鐘。
「君の言っていた倉庫から、確かに“槍”は回収したよ」
「どうだった?」
「……よくはないね。あれはもう、ほとんど力を残していない。君の仇敵を倒すくらいの力は十分あるだろうけど、それだけさ」
だろうね、とアルテミスは、言葉にせず小さく頷いた。
そして、自分の手を見る。優しい月光に照らされた手は、わずかにその光を貫通しているように見えた。灰色の手袋しか見えないはずのそこに、少しだけ木製デスクの茶色が混ざっている気がする。
アルテミスは気合いを入れて、力を体に集中した。すると、透けかけていた手も、元に戻る。もう、存在を維持するのすら難しくなっている。
「それは何だい?」
「それ?」
「テーブルの上の」
問われて、ふと気がつく。物思いにふけって忘れていたが。テーブルの上には、封筒が数通あった。
「これは遺書だよ。トッドと、後はヘスティアに最後のお願い、かな」
「……こんなことはあまり言いたくないが、いいのかい?」
「何が?」
「トッド君さ。大事な眷族なんだろう。それを蚊帳の外に置くような真似をして……」
「いいんだ。彼にはもう、十分私の面倒を見てもらった。これ以上、私などの事で思い煩ってほしくない」
「……後悔するよ」
「後悔なら、ずっとしているさ。ファミリアを壊滅させたあの日から……トッドと出会ったあの日から……どこかで、私がもう少しうまくやれれば、何かが変わっていたかも知れないって」
「そうかい……。そこまで覚悟を決めているなら、いいんだ」
ヘルメスは一瞬切なそうな顔をしたが、すぐにいつものへらへらした笑みへと戻した。
「決行は神月祭だ。あの日なら、“オリオン”の選別にもうってつけだよ。君の限界も考えて、その日しかないだろうね」
「任せるよ」
「ああ、任せてくれたまえ。なにせ地上の命運がかかっている」
ヘルメスは言っておどけて見せたが、アルテミスに笑う気にはなれなかった。
彼を視界の端に置きながら、アルテミスはなんとなく部屋を見回した。起きて寝るためだけの、小さな部屋。機能的とも言いがたい。が、何年も使っていれば、そんな部屋でも愛着が湧く。ホームならばなおさら。こことももうすぐお別れだと思うと、寂しさがこみ上げてきた。
「何か……」
ヘルメスが、下手くそな笑みを歪めている。いつも微笑を崩さず、のらりくらりとしているはずなのに。そんな男が、こんな風に笑みを崩したら。まるで大事のようではないか。そんなつまらない感想を持ちながら、アルテミスは言葉を待った。
「何か……持って行けばいいじゃないか。思い出の品なりなんなり。それくらい、許されてしかるべきだろう?」
語調は強かった。放っておけば、絶叫にすらなりそうなほどに。
しかしアルテミスは、ゆっくりと答えた。それが彼を諫めているようでおかしい。場違いな笑みすら漏らして。
「もうたくさん持ってるさ。トッドには、もらいきれないほどの思い出をもらっている。これ以上は強欲だよ」
「そうやって君は、ないがしろにするんだ。自分を。もっと救われたいって思っていい。いいんだ!」
ついに堪えきれなくなって、ヘルメスが叫んだ。
だが、アルテミスは力なくかぶりを振った。ただ、口調だけは断固としたものだった。
「いいんだ」
「…………。分かった。ならもう何も言わないよ。後は当日に」
「ああ。あと、遺書は君が預かってくれ。すべてが終わったら、渡してほしい」
「嫌な役回りをさせてくれるね」
「悪いとは思ってるよ」
封筒を受け取って、ヘルメスは出て行った。
アルテミスは座り直して、またぼんやりとした。
「ごめんよ、トッド」
外を眺めながら、謝罪を口にする。それが偽りにまみれたものだとしても、言わずにはいられなかった。
月が輝いている。それを、暫く眺めた。清く淡く、地上をあまねく照らす。あと何回、それを眺めていられるだろうか。分からない。分かりたくもない。
やがて、戸を叩かれる音が響いた。トッドがバベルから帰ってきたのだろう。彼女は席を立った。
嘘でもいい。偽りでもいい。ただ今は、彼に気付かれない笑みを作っていられれば――
「分かっているさ」
暗闇で、トッドがつぶやいた。
「分からないわけがない。そうだろう? 何年も家族をしているんだから」
正面には壁しかない。彼の言葉が、誰に向けたものでもないのは明白だった。ぽつりぽつりと、彼は独り言を続ける。
「俺を騙すなら、それもいいさ。秘密を作るのも、悪くない」
言葉と同じように、彼の瞳もぼんやり透けていた。何も見ていない。ただ、向こう側にある何かを見つめている。
「ただ、何も言わなかったんだ。俺が好きにやったところで、何を言われる筋合いもない。それだけは、分かってもらわないとな」
つぶやき。視線。そして存在までもが、闇に溶けた。
彼はそれ以上、何も言わなかった。ただ、滴る暗黒に飲まれるがままに任された。