ダンジョンにすっごい研究者が現れた 作:緑黄色野菜
世界が変わる瞬間。それは誰しもが知ること自体はあるだろう。
例えば、教科書だ。あんなものは、世界の移り変わりの展覧会だ。どこもかしこも、その日を境に世界が変わったという証を刻んでいる。逆に多すぎて、実感が湧かないという欠点も持っているが。もう一つは、もっと単純に物語がある。英雄譚のような、現実を脚色したり、中には全くの創作の中にも、その手のテイストが盛り込まれているものもある。まあこちらも、改変の瞬間は主題としては扱われない。その上、嘘や脚色が多くて分かりづらいというのもある。
だから。
本当の意味で、
トッド・ノート。今やオラリオの中でも知らぬ者のいない天才の名だ。その男が、炉の前で一人、立っている。
無数の人目――全員が鍛冶師だ――の前にさらされながら、しかし彼は至極自然体だった。まるで緊張というものが見られない。ただし、注意深く周囲を見回してはいる。その視線は、こうも言っているように見えた。まさか見逃すことなんてあるまいな。
「では、第……ええともう何度ででもいいや。とにかく技術講習を始める」
ヘファイストス・ファミリアの一番大きな工房で。男の言葉は、ひどくざっくばらんだった。
彼を囲む者の中には、彼より経験豊富な鍛冶師は山のようにいた。彼より年上の者も、当然レベルが上の者も。それでも、彼の態度は変わらなかった。これは礼儀知らずと言うより、単にそういったことに気を遣うのが、いい加減面倒くさくなったのではないか。そう思わせる仕草だった。
そして、彼の態度に文句をつける者もいない。この理由はわかりやすかった。この中の誰一人として、トッド・ノートを格下の鍛冶師とは思っていない、という事だ。
「先に言っておくと、俺が教えるのは
とりわけ
無論、
いや、冒険者に止まらない。エルフという、神の恩恵にかかわらず魔法を扱える種族が存在するのだ。であれば、神の恩恵がないただの人間であっても、魔力を呼び覚ます事が可能なのだろう。将来的に見れば、全人類が恩恵を受けられる、と言える。
それが何年後――いや、何十年後の未来になるかは分からないが。少なくとも、遠い未来の話ではあるまい。
「あー、もっかい先に言っておこう。何度も聞かれたし、何度言うのも疲れるしな。なぜ独占すればいい技術を、わざわざこうして講習会まで開いて公開してるかについて。早い話、とりあえず
その意見には、まあ理解はできた。
だが。
ヴェルフには分かる気がした。そんなものは、所詮ただの通過点だったのだ。だから、わざと
「二つ目に、これだけの技術を一人で秘匿し続けるのは危険だ。俺は弱小ファミリア所属だからな。さすがに神にまで迷惑がかかりそうな事はしたくない。どうせ技術は漏れるんだ。なら高く買ってくれるうちに、売っとこうと思った」
これもまあ、理解できる話だった。仮に人が彼を放置していたとしても、神までがそれを見逃すはずがない。最悪戦争遊戯があちこちで起こり、トッド争奪戦などが始まらないとも限らない。そうなれば、本当にオラリオの秩序崩壊の時だ。
「そして最後。実はこれこそが本題なんだが」
いままでどこかぼんやりしていた表情を、彼は笑みに変えた。けっしていい意味の笑みではない。どこか人を小馬鹿にしたような、侮ったような。
細まった目が、全員を一通り眺めた後、彼は続けた。
「お前たちに本当の意味での
言葉に、ヴェルフはかっと頭に血を上らせた。周りを確認するまでもなく、皆も似たような状況だった。
だが、それで文句を言う者も一人もいなかった。少なくとも現時点において、自分が格下だと認めなければならない。それを認められないようでは、そもそも出発点に立つことすらできないのだから。
が、同時に使命に燃えない者もいない。つまり、このいけ好かない若造を打ち負かしてやろう、と。
トッドはもう一度周囲を見回して、彼らの反骨心と気力を確認し。満足そうに頷いた。
「よろしい。では始めようか」
言って、彼は炉の脇に置かれていた素材に、手を伸ばした。
ヴェルフは鍛冶場の隅に備え付けられている長椅子に座り、ぐったりと項垂れていた。全身から汗が噴き出ている。これは鍛冶場の熱だけではなく、今の今まで、幾度となく
「よう、疲れているみたいじゃないか」
近づいてきて言ったのは、ドワーフの男だった。
「お、おう。失敗続きでな」
多少言葉に詰まりながら、返す。つっかえたのは、単に疲れからだけではなかった。そのドワーフが、誰だか分からなかったからだ。
この合同講習会は、会場こそヘファイストス・ファミリアのものを使っているが、参加者はファミリアを選んでいない。同じく大手であるゴブニュ・ファミリアの団員もいれば、名も聞いたことのないファミリアの鍛冶師もいる。
特殊武装の枠を超えた、
ヘファイストス・ファミリア自体も大きなファミリアで、団員のすべてを把握などはできない。ファミリアから一歩引く態度をとっていたヴェルフならなおさら。その上他ファミリアの団員までいるとなっては、名前が分からないのも仕方のない事だった。
「はっはっは。お主もそうか」
言って、飲み物を渡される。
ドワーフからの差し入れと言うことで、一瞬酒類を警戒したが。さすがに鍛冶場の、それも仕事中にあって酒は飲まないのだろう。酒精が感じられないのを確認して、一気にそれを飲み干した。
「いけ好かん小僧だったな」
「え? ええ」
一瞬、誰のことか悩んだが。考えるまでもなくトッドの事だと悟って、頷いた。
実際、ヴェルフにとっても好きになれそうな相手ではなかった。実体はともかく、なんというか、やけに挑戦的だったからだ。
「だが、腕は超一流じゃった」
「そう……っすね。今の俺らじゃ足下にも及ばない」
それもまた、認めざるを得ない事ではあった。
彼が
「聞いたか? あの若造、鍛冶の発展アビリティもないらしい」
「まさか!」
ヴェルフは、思わず絶叫した。口の端から水がこぼれるのも気にせずに。
「あれで
「うむ、わしもそう思った。あやつのステイタスについては、神々の前で近々発表されるらしい。今回それを教えるのは、その先払いだと言っておった」
上級鍛冶師。それは高度な武器を作る上での大前提だ。これがなければ、特殊な効果を付与した武器というのを(ごく少数の例外を除いて)作れない。
もしかしたら、彼がその例外なのかも、と思ったが。鍛冶師の中には効果が微弱ではあっても、なんとか
つまりこれは、本当にただ単に、神の恩恵も何もない、ただ技術によってのみ生み出されたという事だ。
「この世にあるどんな特殊武装より性能は上――一応分類としては特殊武装になっておるがの。精神力を利用して、身体能力を飛躍的に高める。とりわけ攻撃力には大きな恩恵があるらしい。攻撃には精神力を使ってしまうらしいがの。さらに、魔法使いが魔法を使うときは、とんでもない性能向上を見せるらしい。全く、恐ろしいもんじゃ」
「本当に、にわかには信じられない話だよ」
「こうなると、浮き彫りになってしまうな……」
ドワーフが、口調を沈めて言った。手元のコップを確認したようにも見えるが、実際はうつむいたのだろう。
ヴェルフも同じようにしたい心地で、コップを握りしめた。
「俺らの研鑽不足……そして努力不足だな」
「うむ。ハイ・スミスなどと持てはやされて、我らは努力を怠っていた。これは認めないわけにはいかん」
ドワーフは頭を上げて、おおきくかぶりを振った。
「わしらは先人の遺産の上に立っておる。こればかりは、あの小僧も変わらんだろう。しかし、どこか挑戦に二の足を踏んで、発展を忘れておった」
「それは……俺もだ」
「下層の強力なドロップ品を使えば強力な武装が作れる。考えてみれば当たり前の話だが、いい加減、その当たり前に浸かりすぎていた。甘えていたと言ってもいい」
彼が思うのは、自分のスキルだった。
魔剣血統。端的に言ってしまえば、魔法使いでもないのに魔法をぶっ放せる武器を作る事ができるスキルだ。魔剣は消耗品。世間の扱いとしては、武器と言うより道具だ。ヴェルフはそれが嫌で、魔剣を作るまいと自分を戒めていた。
今にして思えば、それこそがただの甘えだったのではないか? 壊れぬ魔剣など、研鑽なしに作れるはずがない。なのに、作らない。これではいつまで経っても状況は変わらないだろう。
もっとも、それで魔剣を作ろうと思えるほど、踏ん切りがつくものでもなかったが。
「最新型武器を作るのには、アビリティすら必要ない……必要なのは、ただ鍛冶の腕だけ……か……」
「うむ。まずは自分の腕を見直すところから始めなければならんな」
ヴェルフの言葉は、ただの独り言だったが。ドワーフはそれに答えて、つぶやきを返してきた。
「あーっ! へこたれてらんねえ!」
コップを投げ捨てて、彼は両手で自分の頬を張った。それだけで、逃げた気力まで回復するものでもなかったが、とりあえず炉に向かう意気くらいは出てきた。
「新金属を作るとかより、まずは自分の腕の見直しだ! トッドと同じステージに立たなきゃ、始まるものも始まらねえ!」
「うむ、その意気じゃ! 若いモンはそうでなければいかん。……などと、人のことばかりを言ってもいられんがのう」
気合いを入れ直すと、休んでいたドワーフも同じように奮い立たせたようだった。
「まずは背伸びはしねえ。
「上層、中層の木っ端素材とはいえ、無限でもないからのう。これからそれらの素材が高騰していくのは目に見えておる。使用に制限がかかるのもそう遠くない話じゃろうな。中層まで潜れる冒険者は儲かるじゃろうのう」
それはつまり、鍛冶師がどれだけふがいないかという事の証明でもある。なにせどれだけ作ろうとも、トッドの領域の足下すら踏めないという事なのだから。
「このまんまじゃ終われねぇー!」
無理矢理自分を叱咤するように、彼は立ち上がって絶叫した。周囲で炉に向かっていた鍛冶師たちがぎょっとするが、そんなものを気にできるほど、余裕はなかった。
「うむ、若者はそうでなくてはの。さて、わしも若手の事ばかり気にしていられる余裕もなし。早速もどって始めるかの」
言って、ドワーフの男はヴェルフの分のコップまで回収して、もどっていった。
ヴェルフも炉にもどっていった。この講習にあたって、自分の作業室のものではない、特別に割り当てられた炉。手元にある
だが、それだけで終わらせる気もない。
板金鋏に金属塊を持ち、炉に放り込む。圧倒的な熱気が全身を煽った。それでも今までよりなんとか耐えられそうなのは、一応給水を済ませたからか。名も知らぬドワーフに、内心で感謝を告げる。
(やってやるぞ!)
気合いを入れて、熱の赤だけが支配するその空間をにらみ据える。
(たとえそれが壊れない魔剣につながらなかったとしても、必ず一歩前に進めるはずだ!)
それだけははっきりと信じて――というより、確信して――、彼は熱と炎が支配する空間に、また集中した。