巨大な月が、空に輝いている。
薄明かりを浴びながら、人気のない道を歩いている。
道路の上を覆うように生える木々。
もう舗装してから何年も手入れをしていないのだろう。かつては綺麗だったはずのアスファルトは、ひび割れて見る影もない。
安全圏と言っても、その領域全てに人がいるわけではない。
都市クラスの安全圏であれば話が変わるが、辺境の安全圏では人が立ち入らない場所も多い。
なるべく魔獣からの被害を抑えるために、住環境は中心部にかたよっているし、農地や店舗、従魔士ギルドにライフラインを維持するための施設も同様だ。
安全圏の面積に対して、住むだけの人間が足りていない。
自然と人が離れ、誰も訪れなくなった「捨てられた場所」があるのだ。
ロアが向かっている場所も、そういう所だ。
「............」
木々をかき分けて辿り着いたのは、古びた廃工場だった。
安全圏の外縁部に属する場所。
風雨にさらされ、赤錆を浮かせたその施設は、無価値となった物だけが持つえもいえない寂寥感があった。
廃工場の中に入ってしばらく進む。
匂いがする。
懐かしさすら覚えるよく知る匂い。
闘争に生きる魔族がよく纏う、戦火を広げ、暴力と殺意に塗れた者特有のソレ。
____焼けつくような血の匂いだ。
廃工場にいることは解っていた。
匂いを辿って来たのだ。
強くなる災厄の香りが、この場所にいることを明確に知らせていた。
だが、存在に気付いたのは相手も同じだったようだ。
「思ったより、早かったな」
視線の先には鬼がいた。
異形の双角、夜闇にとけるような黒装束。
煌々と赤眼を輝かせ、愉快そうに嗤う悪鬼が建造群の中心に立っていた。
「ただの雇用関係だ。そう時間は必要ない」
「そうかいそうかい。なら、これで心置きなく戦えるってわけだ」
グレンが鷹揚な態度で、腰に下げた長刀に手を掛ける。
応じるように、ロアが拳を構える。
視線を交えたのは一瞬だ。
「クハッ!」
「_________」
敵意が爆発する、
地を踏み砕く音、抜刀の擦過音。
眼前の相手を打ち斃さんとする激突と衝撃をもって、二匹の怪物の戦闘は幕を開ける。
互いに動き出したのは同時。
だが、間合いを詰める速さは『幻狼』が上回っていた。
「____あ?」
神速
そう表現するしかない速度で彼我の距離を瞬時に詰めきり、ロアが拳打を撃ち放っている。
初動から攻撃までに一呼吸で至る動作。
呼吸を用いた脱力、重心の移動、肉体の操作をもって、相手の意識の間隙を突く。純粋な技術のみで成立する加速にグレンが目を見開く。
対応は間に合わない。
グレンの抜刀を置き去りにして、ロアの拳が身体を撃ち抜く。
轟音
鈍い衝撃が大気を震わせる。
内臓が弾け、骨を砕き潰す鈍い感触。
備わる人外の筋力に加え、身体活性による自己強化で引きあがった一撃は、攻城兵器にすら匹敵する威力と化す。魔族であろうと看過できるダメージではない。
それはグレンも例外ではなく、異物まじりの血を吐き出す。
赤が地面を濡らす。
だが
「.........初見殺しの
「っ!?」
「けどまあ、一回見れば十分だ。次は対応できるな」
ロアが規格外の速度なら、____グレンには規格外の耐久があった。
ギシリ、と身体を軋ませながら、グレンが凄惨な笑みを浮かべる。
撃ち込んだ姿勢のまま、ロアが気付く。
姿勢が崩れていない。
腰を深く落とし、未だ鞘に納めた長刀に手を掛けている。
「______染めろ『
魔力の蠢き。
グレンの剣がブレるように抜刀される。
咄嗟に頭を下げて回避する。
瞬間、焼けつくような熱がロアを通り過ぎていく。刀の間合いの遥か先、彼女の背後の壁に
赤熱する斬痕が、一瞬輝いたかと思うと、熱と衝撃の破壊を撒き散らす。
がらがらと建造物が燃え上がりながら倒壊する。
射程距離のある斬撃。それも凄まじい威力。
「足元注意だ」
「ッチ!」
背後に意識を割いた瞬間を畳みかけるように、予兆なく足元の地面が爆炎を噴き上げる。
呑み込まれる寸前で、ロアは後ろに飛びのく。
だがグレンは、動くことすらなく焔に取り込まれた。
自滅
そんな言葉が頭を過ぎるが、ロアの直感は未だ警鐘を鳴らし続けている。
「おし、もう痛くねぇ。治りが速いのは魔族の良いところだな」
離れてなお肌を焼く焔の柱。その中から、グレンが涼しい顔で現れる。
「出し惜しみは無し、だ。技術云々を抜いても、どうやら身体の
「............炎が、お前の魔法か」
魔法。
魔獣と魔族の持つ、人を優越する特権技能。
能力差こそ存在するが、世界の理に縛られぬ異形の法。
目の前の鬼は、炎を操る魔法を有している。
「いいや違うね、
「............」
「隠すほどでもねぇ。魔法ってのは、そいつ自身の在り方だからな」
グレンが長刀の刃を握り、横に引く。
掌の肉が斬り裂かれ、溢れた血液が付着し、発火する。
そうして、燃える長刀が完成する。
「闘争こそが魔族の存在理由。戦火と流血の地獄が俺達の住処。______故に『
グレンが血が流れる手を振る。
血液が辺りに飛び散り、発火して燃えあがる。
燃焼し、延焼し、燃え広がっていく。
「だから『幻狼』、俺はお前の魔法に興味がある。あの十年前の惨劇、魔王戦争を生き抜いた怪物はどんな
長刀を肩に担ぎ、悠然と接近してくる。
厄介な相手だ。
相手だけを傷つける強力な炎の爆撃。
射程距離のある炎の斬撃によって間合いの有利を取られている。
潜り抜けた先には魔族特有のタフネス、流血するほどに被害を拡大させる『炎血』。
そして被害を気にしない精神性。
「お前______最悪だな」
「そりゃお互い様だろ。魔族だからな」
鬼が嗤い。
狼は笑わない。
燃え盛る領域で、二匹の魔族は再度衝突した。
******
「______『炎血・
グレンがロアに狙いを定め、炎刀を数度振り抜く。
駆け抜ける熱の斬撃。
射程を無視した遠距離斬撃。
炎線が幾重にも走り、それをロアが疾走して回避する。
赤い斬撃が周囲に刻み込まれ、膨大な熱量を持って建造物を倒壊させていく。
それら一切に目もくれずロアは駆ける。
前後左右の切り返し、加減速を繰り返し、複雑な軌道を描きながらグレンに接近する。
「速すぎだなァ!」
「黙れ」
顎、胸部、腹部に拳を三発。
凄まじい衝撃が身体を撃ち抜き、鬼の体躯を吹き飛ばす。
ぐらりと傾いたグレンに更なる追撃を加えようとして______気が付く。
いつの間にか、長刀が鞘内に収まっている。
鬼が嗤う。
「『炎血・
鞘に仕込んだ血液が、発火する。
『赤色鬼』の奥義が一つ。
鞘を
だが、異形の血液を用いて完成する理外の抜刀術は、炎血の加速によって反応不可の神速へと至________
「黙れと、言っている」
「_____あ?」
刀の柄を、蹴り込まれた。
刃を鞘に押し戻され、抜刀を封じられる。
いかなる神速の斬撃も、始動を潰されれば無為と化す。
そして、それはあまりに大きな隙だ。
「グェっ」
呆然とするグレンの顔面に回し蹴りがヒットする。
凄まじい勢いで鬼が吹き飛び、轟音を立てながら崩れた瓦礫の山に叩き込まれる。
燃え盛る廃域に、しばらくの静寂が戻る。
「.........あー、今のは効いたぜ」
ガラガラと瓦礫を押しのけグレンが立ち上がる。
度重なるロアの打撃の影響で、姿こそボロボロだが傷自体は回復している。ダメージはあるだろうが、依然として鬼は健在のままだ。
「強いねぇ。まさか無手の相手にここまでやられると思わなかった」
「............」
「けどまあ、そっちも無傷じゃねぇよな」
グレンがロアを見る。
焼け付くような、あるいは焦げ臭い匂い。
火傷だ。
ロアの服は焼け焦げ、全身の至る所に火傷が見えた。
特に攻撃に多用した四肢は、動きに支障をきたしかねないレベルで負傷している。魔法としての性質か、魔族の回復力を持ってしても傷の治りが遅い。
もはや最初程の速度を、ロアは維持できていなかった。
ロアがグレンを攻撃するという事。
それは反撃として「返り血」として、爆発や高温の炎を受けるリスクを背負うという事に他ならない。
『炎血』の性質による
鬼と戦う者は、誰であろうと無事では済まない。
「まあ、じゃれ合いは終いだ。そろそろ本気だせよ。殺しに来い」
「............なんの、話だ」
「惚けるなよ、白々しい。殺し合いに魔法を使わねぇ魔族がどこにいる」
戦闘における切り札。
魔族としての究極のアドバンテージ。
それをロアは、未だに切っていない。
「平和のぬるま湯に浸り過ぎて、まだ踏ん切りがつかねぇか。情けねぇ」
「無駄口を______」
「あー、止めろ止めろ。やる気が無いのは匂いで解る」
呆れた表情でグレンがため息を吐く。
「その甘さが、今回の結果を招いたってわけだ。ウィル アーネストも災難だったな」
「もう、奴は関係ない」
「関係なくはないだろ、恩人相手に冷たい奴だな」
「............」
これ以上は無駄だと感じたのかロアが口を閉ざす。
「やる気が出ないってんなら仕方がねぇ。一つ、多少いいことを教えてやるよ」
思い出したような気軽さで、グレンが会話を続ける。
「俺の血は、好きなタイミングで発火できる。これが使い勝手がいいもんでな。戦う場所に事前に血を塗りつけておけば、
パチンと指を鳴らす。
飛び散っていた血痕が反応し、弾けるように火花を散らす。
唐突な手の内の開示にロアが困惑するが、グレンは気にした様子もなくつづける。
「でだ、俺は『ウ~ズ』でお前を襲撃しようとしたわけだが、何の下準備もしなかったと思うか?」
「っ!?」
「少量だが血液を「ウ〜ズ」に塗っておいたわけだが______さて、どうしてやろうか」
身をひるがえして、街のある方向へと走り出す。
『ウ~ズ』には、眠っている彼がいる。
「待て待て、逃げるのか?」
グレンの声を無視する。
追う様子を見せないことに違和感、だがロアは速度を緩めない。
グレンを背後に回すことになるが、速力はロアの方が上回る。「飛ぶ斬撃」さえ注意すれば、離脱は難しいことではない。
「............ったく。逃がすわけないだろ」
かちゃり、と長刀が持ち上がる音をロアが捉えた。
だが、「飛ぶ斬撃」はすでに何度も見た技。来るとわかっていれば十分に対応可能だ。
最低限の意識を背後に割きながら、未だ形を保っている廃墟に飛び込む。
障害物で射線を遮るという、対遠距離戦での常套手段。
だが
「______ぁ」
焦っていたのだと思う。
かつての自分ではあり得ないほどに、不安と焦燥に胸を掻き乱されていた。
故に、思考がまわらなかった。
先に廃工場に訪れていた『赤色鬼』には、自身に有利な戦場を作るだけの時間があった事を、完全に失念していた。
「
壁に、床に、瓦礫に、
それは戦火と流血の顕現。
地獄の悪鬼に与えられた異形の血液。
まともに食らえば、魔族であろうと無事では済まない。
音。
閃光。
衝撃。
膨大な熱を吐き出しながら、『炎血』はロアを呑み込んだ。