やっと家に帰ることができた。前回帰ってきたのは一ヶ月ほど前で、ここ最近の忙しさを目の当たりにすると一気に脱力してしまう。
疲れた体を引きずりながらリビングを通って娘の部屋の扉を開けると、娘はすでに就寝。日付をまたぎ午前二時にさしかかった、この時間に起きているわけはないか。
音を立てないように気をつけ娘に近づく。毛布にくるまりながら、風見に頼んで誕生日に贈ってもらった柴犬のぬいぐるみを抱きしめて寝ている娘。そっと手をのばし、顔にかかった前髪をよけると彼女によく似た顔が見えた。
彼女、俺の奥さんと出会ったのは高校の頃だ。たまたま委員会が同じで、俺は彼女とペアを組むことが多かった。委員長が男女でペアを組みたいと、そういう我が儘を言ったおかげで出会ったのだが、中学の頃から女子に好意を向けられやすい俺としては最悪のハジメマシテだったと思う。
けれど、彼女は俺の態度を気にせず、仲良くしようと輝くような笑顔を見せた。好意とか、嫌悪とか、そういうものが見えない純粋な笑顔を女子から向けられたのは初めてのことだったのではないだろうか。それから俺は彼女と交友を深めるようになった。
彼女は女子テニス部のエースで、実は中学の頃から俺のことを知っていたらしい。高校ではテニスをしないと言うと、少し残念そうにしていたが、それでもテニスが嫌いになったわけではないので、何かしらきっかけを探しては彼女と話していた。幼馴染みには「やっと初恋を昇華できたみたいだな」なんて、背中を思い切り叩かれた時は思わず殴ったのは謝らないぞ。
「ただいま、花帆」
ぐっすりと眠る娘は、俺が守るべき日本国民の一人であり、いや。そんな枠で収まるほど、娘を切り離すことはできない。けれど、俺は娘に対して酷いことをしている。父親として考えるならば、俺は最低最悪の人間だろう。
娘が二歳になる前に、彼女は老人の運転する暴走車による交通事故に巻き込まれて亡くなった。突然のことで、不幸なことだった。すでに組織に潜入していた俺の代わりに、子育てで大変な時期に隣にいることもできなかった父親というのも烏滸がましい俺の代わりに娘を育てていた、最愛の妻が亡くなったと……。久しぶりの登庁で書類仕事をこなしている時に聞いた俺は、膝から崩れ落ちることもできず、急いで搬送先の病院へと向かった。
彼女の死に顔は穏やかなものだったと、そう思いたい。けれどしかし、彼女は悔しかっただろう。娘を溺愛していた彼女のことだ。娘が成長し、結婚して孫の姿を見るまで、生きていたかったのではないだろうか。
俺も、彼女も早くに家族を亡くしていたから、大往生しようと約束したじゃないか。
「ごめんな、花帆。一緒にいれないお父さんで、ごめんな……」
保育園にいる娘を部下に迎えてもらい、その後はどうにか公安と組織の仕事をこなしながら、彼女の葬式をあげることができた。喪主は俺、参列者は娘と数人の部下。彼女の友人や知り合いを呼ぶことは、できなかった。
それから程なくして、俺は組織でコードネームをもらうことになり、娘の世話は公安御用達の家政婦に頼んだ。公安御用達、というには語弊があると思うのだが、公安には俺のように片親で子育てをしている人は結構いた。独身も多い職場だったが、既婚者もそこそこいて、子育てに関しての疑問をよく聞いてもらったと思う。実践できたかは別として、だが。
さらりとした指通りの良い、色素の薄い髪。ぷくぷくとまろい肌。彼女にそっくりな娘と俺の共通点は髪質と目の色だけで……。見た目だけでは組織にバレることはないだろう。それに、普段は彼女の名字を名乗ってもらっている。娘を巻き込まないためには、娘から俺という存在をできるだけ切り離したほうがいいのだ。
俺は易々と娘に会うことはできない。娘が何か事件に巻き込まれて死んでしまった、と考えるだけで胸が痛む。彼女のように、アイツらのように俺の前から、俺の手の平の中から娘が消えてしまわないように。
公安警察でなければ、俺はもっと娘を大切にすることができたのだろう。組織への潜入捜査がなければ、俺はもっと娘と一緒にいることができたのだろう。でも俺は公安警察で、娘にとったら父親というのも烏滸がましい存在なのではないだろうか。
娘と遊んだことなど、ない。
娘と出かけたことなど、ない。
娘の学校行事に参加したことなど、ない。
娘の誕生日を一緒に祝ったことなど、ない。
いや、ないというのは間違いで……彼女が生きている頃、娘の記憶がない頃に家族三人で出かけたり、遊んだことも誕生日を祝ったこともある。けれど、それらは今の俺に許されないことばかりだ。
「花帆。花帆、俺の――可愛い娘。お父さん、頑張るから。お母さんの分まで、お前を守るから」
だからどうか、嫌わないでくれ。
今日の夕方、ポアロの店先を掃除している時に帰宅途中の娘を見かけた。安室透として少年探偵団の子たちと一緒にいる姿を、見られたのだろう。娘は、俺が安室透であることも、バーボンであることも知らないはずだ。けれど、しかし、彼女は遠目に俺へと視線を向けるだけで、すぐに視線をそらして去ってしまった。声をかけることも、追いかけることもできない。声をかけてしまえば、娘に目をつけられてしまう。追いかけてしまえば、娘が狙われてしまう。
もしも、そんなことがあったら……。しかし、後を追うことは許されないのだろう。俺が守るべきはこの国と国民で、娘一人のためだけに命を――嗚呼。どうか、どうか。
「俺を置いていかないで」
お前だけは絶対、俺が守るから。死なせないから、せめて、お前だけは守られてくれ。たとえ俺のことを嫌っていようと、父親だと思っていなくても、この際無関心でもなんでもいい。独りよがりかもしれない。けれど、お前のお父さんでいることだけは許してほしい。
彼女とアイツらのように、俺を残してどこかへ行かないで。……なんて、娘を大切にできない俺が言ったところで、なあ。
「愛してるよ、花帆。どうか、もし、俺がいなくなったとしても健やかに」
お父さんが最期まで、守るから。どこにもいかないで。