「殴らないで……か」
ベッドの中で柴犬のぬいぐるみを抱きしめながら眠る娘の目元は、いまだ赤い。
今日は珍しく夕方まで仕事が入っていないものだから、久しぶりに娘と家で過ごそうと思っていた。ここ数年、特に今年に入ってからは公安に組織、そしてポアロのバイトとプライベートの時間を作る余裕もなかったから。こうやって、娘の側に何時間もいてやれることはなかった。
同じ空間で過ごしたことは何度もある。けれど、その時の俺は眠っていることが多くて……。起きている娘の側にいることも、一緒に食事を摂ることもいつ以来だろうか。本当に不甲斐ない父親だ。
両親が亡くなって、友人たちが次々に亡くなって、彼女も亡くなって。唯一、手元に残った娘に俺はなんて酷いことをしているのだろう。娘にとって、俺は父親という存在ではないだろう。お父さんと呼んではくれるけれど、それは俺が血のつながった父親だというだけであって。考えるだけで泣きたくなってきた。
二人で食べる朝食は半年ぶりか、もしかしたら一年ぶりかもしれない。だから嬉しくて、風見から聞いていた娘の好物であるオムライスとコーンスープを作った。娘はどうやら和風オムライスを好んでいるようだが、生憎材料が切れていたもので作ったのは一般的なオムライスだ。ふわとろの玉子に、ケチャップで描いた柴犬。……柴犬に見えるかはさておき、オムライスもコーンスープも、娘好みの味付けになったのではないだろうか。
――おいしいと、言ってくれた。
嬉しくて、愛しくて。娘が俺の作った料理をおいしいと言ってくれる、そのたった一言が切なくて。あの時の俺は、どんな顔をしていたのだろう。その後は無言になってしまって、俺から話題を作ることもできず俺は先に食べ終わってしまった。娘はまだ、オムライスを小さな口に運んでいて、ハムスターのようで可愛らしかった。
こういう時、風見や家政婦さんたちに頼んで収集してもらった娘の情報をありがたく思う。娘が特においしそうに食べていたオムライスのある店、全てに一人で通っては、娘好みのオムライスを作るために研究した。そんな時間があるなら、仕事しろとか、寝てしまえとか、家に帰れと言われてしまうだろう。まあ、何度も言われたことがあるのだが……。
嗚呼、そうか。こうやって言い訳を繰り返しているから、俺は娘の本当のお父さんにはなれないのか。
頬についたご飯粒を取ろうと娘に手を伸ばした。しかし、その手は娘の小さな柔らかい手にはたかれて……。幼い娘は真っ青な顔になって、俺に謝り始めたのだ。
何が起きたのか、分からなかった。
真っ青な顔で俺に謝る娘。殴らないでと言われた時、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。いや、理解したくなかったのだろう。俺は娘に手を上げたことはない。娘は年齢の割に大人しく、聞き分けのいい子で――俺がそうしてしまったのだろう。ここじゃなくて、養子に出せば……。いや、それはダメだ。
あのあと、娘は過呼吸をおこした。真っ青で苦しそうな顔、不安定な呼吸、小刻みに震える指先、嘔吐。おいしそうに食べていたオムライスとコーンスープは、娘の服や周辺を汚したが、そんなことどうでも良かった。どうにか呼吸を整えさせることに成功したものの、娘は疲れてその場で気を失ってしまって……。口元や体を清め、綺麗なパジャマに着替えさせてベッドへ運んだ。
リビングの掃除をしたあと、娘の部屋に戻ると、娘は柴犬のぬいぐるみを抱きしめていて……。まだ、顔色は良いとは言えない。
「花帆、花帆。俺は、お前を殴ったことがあるのか……?」
分からない。どうして、娘は俺に殴らないでと言ったのだろう。娘が家の中で転んで大怪我をした頃から、娘は俺に触れようとしなくなって……。起きている時に俺が触れようとすると、怯えるようになっていた。だから、だから娘が寝ている時以外、娘に触れることはできなくて。けれど、でも、俺は花帆のお父さんだから。どうにか、お父さんらしいことがしたくて。それで……。
娘に拒絶された。俺が、娘の嫌がることをしてしまったから。
「……風見か」
『はい。急用ですか?』
俺よりも、娘や家政婦さんと関わり合いの多い風見に聞けば何か分かるだろうか。そう思い立ち、娘から離れて窓際に立った俺はポケットから取り出したスマートフォンを手早く操作し、風見に電話をかけていた。
「いや……、花帆についてのことだ」
『花帆さん、ですか?』
「嗚呼。風見、俺は……。俺は、花帆に手を上げたことが、あるのか?」
『っ……。何か、ありましたか』
「花帆に、殴らないでと」
『そう、ですか』
「なあ、風見。何か、知っていることがあるのなら教えてくれ。俺は花帆に何をした?」
そして、俺は知った。あの日の、娘の怪我の原因を――。
あの日は景光が赤井に殺された三週間後のことだった。景光の遺体を引き取ることもできず、たった。たった一束の髪の毛しか回収することができなかった日。NOCに気づかなかったからと、発信器に盗聴器をつけ、更に尾行されるという日々。公安の仕事をまともにこなすこともできず、組織のバーボンとしての生活に追い詰められていた――あの日。
一ヶ月ぶりに帰った我が家には、一人で眠る幼い娘の姿があった。いつものように、起こさないように気をつけて頭を撫でて、それで――それで疲れから風呂にも入らずリビングのソファに寝転んだことは覚えている。目が覚めた時にはもう、娘はいなくて、家政婦さんからの電話で怪我をしたから病院にいるといることを知った。
カーペットに足を引っかけて、受け身を取れずにそのまま床に転んだという娘は、顔や腕、それに足が腫れていたそうで。俺は、せめて病院へ迎えに行こうと思っていたのに。それなのに公安から呼び出しを受けて……それで、それで。結局、娘に何もしてあげることはできなかった。
「あの傷は、俺がつけたのか」
『花帆さんは頑なに言わなかったようですが、当時の状況を考えると……』
「そうか……。悪い、仕事に戻ってくれ」
『はい。あの、降谷さん』
「すまない。俺は、大丈夫だ」
『……分かりました』
知らなかった。四年もの間、ずっと。
娘の短い人生の中で、一番の大怪我の原因が――俺?
嗚呼、そうだ。あの日、確か夢の中で……。赤に染まる景光を見つめていた時、俺に触れたのは。
「花帆。……花帆、お前だったんだな」
触れるなと。俺に、触れるなと――誰かに言った。触れられたくなくて、景光を亡くした弱い俺の心に触れられたくなくて。
俺は、娘を拒絶したのか。
「ごめん、なぁ。ごめん。お父さんのせいだったんだな」
あの怪我のあとから、娘は俺に触れてくれなくなった。抱きつくとか、手をつなぐとか、まともにやったことはないけれど。怖ず怖ずと指先や、服の裾を掴んでくれた小さな手は、あの日をきっかけに触れることはない。
それで、いいと思った。赤く血濡れた、汚い俺の手が娘を穢さなくて済むと……。そう、言い訳をして。
俺が、原因だったのか。
「花帆、花帆。俺の、可愛い娘。俺たちの天使……」
どれだけ謝れば、許してもらえるのだろう。
どれだけ謝れば、受け入れてもらえるのだろう。
けれどしかし、知らないうちに娘を拒絶した俺を――花帆は赦してくれるのだろうか。
赦してくれないかも、しれない。現状を考えれば、恨まれても仕方ないだろう。
それでも、それでも……。
「花帆のお父さんでいることは、赦してくれ」