振り下ろされる腕。白いシャツから伸びる褐色の、お父さんの腕が。私の、目の前に。
それで、それで……。私は、お父さんに。
――バチンッ。
「うあっ……! あ、あれ……?」
白く狭い世界から目覚めると、目の前にお父さんはいなくて……。あれが夢だったと気づく。
夢、夢。あれは、夢。あれは、過去。お父さんは、お父さんはきっと覚えていないから。だから、私は……。ううん、なんでもない。
ふと周囲を見渡すと、ここは私の部屋で、私はベッドに寝転んでいたことに気づく。隣にはお父さんが買ってくれた柴犬のヒロミツがいて、それで。えっと……私、いつの間にベッドに移動したんだろう?
確か、朝起きて。お父さんが作ってくれたオムライスとコーンスープを食べている時、に。――嗚呼、そうだ。私、お父さんの手を叩いちゃって、それで。それで……。お父さんが泣いていて。あれ、お父さんは怒っていたんじゃ? どうだったっけ。
「……よしっ。起きよう」
時計を確認すると、午後二時。お昼の時間を過ぎてしまっていた。今日は平日なのに、学校休んじゃったな。
ヒロミツから手を離して起き上がると、何故か服が替わっていた。着替えた覚えがないから、家政婦さんが着替えさせてくれたのかな。でも、見たことない服だからお父さんかも……? お父さん、帰ってくるたびに新しい洋服を買ってくるから。
耳を澄ますと、リビングのほうからパタパタと音が聞こえてくる。これはお父さんじゃなくて、家政婦さんが家事をしている音だ。
今の家政婦さんはなかなか長く家に来てくれる人で、ベテラン主婦というものらしい。子供は、高校生のお兄ちゃんと大学生のお兄ちゃんが二人いるって言っていた。写真も見たことあるよ。子育てが落ち着いて、家事にも精神的にも余裕ができたから、家政婦さんとしてお金を稼いでいるとかなんとか。家にくる家政婦さんたちは、お父さんの働いているところと仲が良い、派遣会社というところから来ているって聞いたことがある。色々と秘密にしないといけないことや、守らないといけないこと。規則? ルールがたくさんあるって言っていたけれど、その分お給料がいいんだって。
家政婦さんの旦那さんは警察官で。でも、お父さんとは違う、普通の警察官らしい。警察関係のテレビ番組にも映ったことがあるって言っていたよ。私もよく見ているけれど、全く分からなかったなあ。……それに、あのテレビ番組は一人で見ると怖いから、いつもヒロミツと一緒に見ているの。ヒロミツがいれば、顔を隠せるからね!
「こんにちは、家政婦さん」
「花帆ちゃん、こんにちは。もう起きて大丈夫なの?」
「うん、元気だよ」
「そう。今日は朝食のあとに気分が悪くなって、倒れちゃったって聞いているから……。嗚呼、そうだ。花帆ちゃん、お腹空いてる?」
「んぅ……? うん、お腹空いた」
「それじゃあ、ちょっと遅いけれどお昼ご飯にしようか。花帆ちゃんのお父さんが、お昼ご飯を作って置いていってくれたのよ」
「お父さん、が?」
「ええ。ちょっと待ってね、用意するから。あっ、冷めちゃってるけど、温めようか?」
「ううん。冷めたままで、いい」
「了解」
部屋から出るとリビングに家政婦さんがいて、洗濯機を回したのかカゴに入った洗濯物を運んでいる途中だった。
お腹が空いたから、キッチンに向かうとお父さんが昼食を作っていると家政婦さんが教えてくれて。それで、洗濯物を置いた家政婦さんがレンジの中から小さな土鍋を取り出してくれた。中に入っていたのは玉子雑炊。冷めていたけれど、それでもおいしくて。
お父さんに悪いことしたのに、どうしてお父さんはこんなにおいしいご飯を私に作ってくれるんだろう。怒ってる時に作ったご飯は、心がこもっていないからおいしくないって聞いたことがあるけれど。でも、おいしかった。お父さんの作るご飯は、いつだっておいしい。
私はまだ、家政婦さんがいる時しか包丁を持つことはできないし、簡単な料理しか作ったことないけれど。やっぱり、お父さんの作るご飯が一番だ。家政婦さんが作るご飯や、レストランとかお店で食べるご飯もおいしいけれど、どれもお父さんの作るご飯には叶わない。
それに、お父さんはデザートも作れるんだ! 友達のお父さんは、料理を作らない人もいるし、デザートを作れない人もいるって聞いたことがある。私のお父さんは料理もできるし、デザートも作れるって言ったら。そう、友達は皆、羨ましいって声をそろえるんだ。
授業参観や運動会の応援に来ることはできないお父さんだけれど、家に帰ってきた日は、必ず何か一つ料理やデザートを作って置いていってくれる。一緒に食べることは滅多にないけれど、お父さんが作ってくれたものってだけで、なんだかもったいない気分になってしまう。でも、残すのももったいないから、全部食べるよ。嫌いな野菜が入っていた時だって、全部ね。
「そうだ。花帆ちゃーん」
「はーい」
「冷蔵庫に花帆ちゃんのお父さんがお手紙を置いていったから、ご飯を食べ終わって、お皿を片付けたら読んでね~」
「はっ、はーい!」
お手紙? お手紙だって。
お父さんからの、お手紙……?
なんだろう。なんて書いてあるんだろう。お手紙。お父さんから、初めてのお手紙だ!!
急いで雑炊を食べきって、お皿とスプーンをキッチンへ運んでシンクの中に。踏み台からゆっくり降りて、冷蔵庫に近づくと「花帆へ」って書かれた茶色の封筒があった。マグネットをずらして、封筒を取って――自分の部屋に急いで戻る。
家政婦さんは転ばないようにって笑って言っていた。そんなにおっちょこちょいじゃないから、転んだりしないよ。
扉を閉めて、スリッパを脱ぎながらベッドにぽすりと飛び込む。柴犬のヒロミツが飛び上がって床に落ちそうになったから、慌てて掴んで抱きしめる。そして、そして……。ゆっくりと封筒を開けると、中には白いお手紙が一枚。
お手紙を取り出して、ゆっくり、ゆっくり広げると。「花帆へ」と書かれていた。
「花帆、へ。今日は、ごめ、ん。お父さんは、花帆が、お父さんに触られ、ることが、怖いだなん、て知らなかった、から。花帆に怖い、思いをさせて、しま、って」
違う。違うよ、お父さん。
私が、私がお父さんに触れたのが悪いんだよ。
触れるなって言われていたのに、お父さんの手を叩いちゃった私、が……。
「今日、初めてお父さ、んは、四年前の怪我は、お父さんのせい、だって知ったんだ。気づかないで、ごめん。花帆のお父さ、んなのに、花帆のこと、花帆が怖いこ、と全然知らなくて、ごめ、ん」
なんで。なんで、お父さんが謝るの?
お父さんは何も悪くなんて、ないんだよ。だって、お父さんが疲れている時に、寝ている時に近寄った私が悪くて。それで、それでお父さんは寝ぼけていただけで何も、何も悪くなくて。だから、お父さんが私に謝る必要は、ないわけで……。
どうして、お父さんが謝るの。
「夜に、絶対帰ってくるから。だ、から……、お父さんと一緒、に、お話、しよう。今まで、花帆のお話を聞いたこと、ないってことに気づい、て。お父さんなのに、花帆の、お父さんなのに。お父さんらしいこと、全くできていないから。だか、ら。お父さんに触らなく、てもいい。でも、お話しよ、う。たくさん、たくさ、ん。花帆と、お父さんの二人、で。いっぱい、お話しよ、ぅ……」
お父さんと一緒に、お話? お話。お話……、お父さんと二人で。
いっぱい、お話できる? お父さんに。学校のこととか、友達のこととか。家にいる時のこと、とか。たくさん、たくさんお話していいの?
――心がふわふわする。どうしてだろう。なんだか、なんだかとっても……ふわふわする。