ポアロのバイトが終わる頃、ベルモットに呼び出しを受けた。
ふざけるな。と思ったのだが、あの女は俺の娘の存在など知らない。だからこそ、娘との約束を早々裏切ることになりながらも「分かりました」と答えることしかできなかった。
店内から一歩、踏み出せば私立探偵の安室透から探り屋バーボンへ。正直なところ、今日は安室透が終われば公安の降谷零ではなく、花帆のお父さんになる予定だったのだ。夜には絶対帰ると手紙に書いたのに、話をしようとも書いたのに。まさかここで呼び出されるとは思いもしなかった。なんと、なんとタイミングの悪いことか。
愛車に乗り込んでから風見にメールを送ると、すぐに返信が帰ってきた。こうして風見に娘の面倒を任せたのは何度目になるだろう。数えることも嫌になるほどだ。娘や娘の住む家を任せている家政婦さんたちは、家政婦さんであって家族ではない。娘を自分の子供のように可愛がってくれる人が多いのだが、やはり血は水よりも濃いと言うべきか。血の繋がらない俺の娘よりも、自身と血の繋がった本当の家族を優先することは仕方ないことだ。
だからこそ、俺と娘の関係について物申す家政婦さんたちもいた。娘を守るためというのは詭弁である、と。娘のことを守りたいと、大切に思うならば養子に出したほうがいいとも言われた。俺が娘に対して行っていることは虐待であり、児相に現状を相談したほうがいいと持ちかけられたことだって……。
そうだ。きっと、そのほうが娘にとっては幸せだったに違いない。俺から離れたほうが。だから、そう。娘は彼女が亡くなった時点で、俺のもとから離れて。それで……。嗚呼、ダメだ。それだけは。花帆だけは、俺が――。
全ては俺のエゴだ。国と国民に身を捧げる降谷零である俺の、安室透とバーボンを生み出した俺の、花帆のお父さんである俺のエゴ。それに巻き込まれた娘は、世間一般的に見れば不幸なのかもしれない。滅多に家に帰ってこない父親、食事を共にした回数は家政婦さんや風見よりも圧倒的に少ない父親、学校行事に一度も顔を出さない父親。知らず知らずのうちに娘を傷つけ、今日までそのことを知らなかった父親のエゴで、娘を苦しめている。
これは俺の負うべき罪の一つ。数ある罪の中でも最大の。どれだけ懺悔しようとも償いきることのできない、俺自身を犠牲にしようと、何かしらの代償を捧げようとも許されることのない罪。
「助かったわ、バーボン」
「荷物持ちに呼ぶならば、僕でなくても良かったでしょう。貴女に心酔している下の者を呼ぶことをお薦めします」
「ふふっ、言うじゃないの。まあ、考えておくわ。それじゃあ良い夜を」
「ええ、貴女も」
俺は降谷零。警察庁警備局警備企画課に所属する警察官だ。
僕は安室透。ポアロにてバイトとして働く、毛利小五郎の弟子である私立探偵だ。
僕はバーボン。国際的な大規模犯罪組織、黒の組織の探り屋だ。
そして俺は、俺は……降谷零。花帆のお父さんだ。
今の俺は僕であり、僕は俺である。降谷零として安室透とバーボンの存在を切り捨てることは現状不可能で、四つの顔のうち最も影が薄いのは俺だ。花帆を守るため。そう言い訳をして、俺は警察官として国と国民を守るために降谷零と安室透、そしてバーボンであり続ける。ただの、花帆のお父さんである降谷零という個人ならば、父親として娘という唯一を守ることができたのだろう。しかし、警察官の降谷零ではそのようなことはできない。安室透とバーボンは尚更だ。
娘を守るためには、警察官の降谷零として娘を守るためには、娘には俺の――降谷零の娘という立場ではなく、この国の一国民という立場にいてもらうしかない。俺が、俺がただの、花帆のお父さんという立場を選ぶことができたなら……きっと。
「はぁ……。十一時前、か。ギリギリ今日中に帰れるな」
けれど、娘はもう寝てしまっているだろう。嗚呼、夜に絶対帰ってくると、話をしようと手紙に書いているというのに……。情けない。
スピード違反で捕まらない程度の速度で町中を駆け抜け、花帆の待つ家に着いたのは日付が変わる十分前のことだ。
そして、扉を開くと足下に娘がいた。慌てて扉を閉めて娘の近くにしゃがみ込む。すうすうと、寝息を立てていることから娘がぐっすり夢の中だということは分かるの、だが。何故、娘は玄関マットの上に座って、お気に入りのブランケットを被りながら、柴犬のぬいぐるみを抱きしめて寝ているのだろうか。こんなところに寝ていては、風邪をひいてしまう。だから、そう。
俺は娘を抱き上げようと、手を伸ばし……。そして、指先が娘に触れようとした瞬間。
「ん、んんぅ……」
娘がもそりと動き出し、寝ぼけ眼で俺へと視線を向けてきた。
「んー……、おとぅ、さん?」
「あ、嗚呼。そうだよ、お父さんだ」
「おとーさ、ん。おしごと、おわったの?」
「うん、終わったよ。こんな遅くに帰ることになって、ごめんね」
「んーん。おしごと、おつか、れ、さまでし、た」
小さな手で目元を軽くこすりながら、柴犬のぬいぐるみに抱きついたままの娘は頭をグラグラ揺らしながらも、どうにか耐えている。可愛い。なんと、可愛いのだろうか。娘の成長を、俺は花帆のお父さんでありながら、娘の隣で見守っている時間は少ない。会うたびに変化している娘の姿を見ると、彼女を思い出す。きっと彼女も、娘の成長を……。
「おと、さん」
「ん? なんだ、花帆」
「おかえり、なさぁい」
えへへ、と寝ぼけ眼のまま笑みを浮かべる娘の言葉に衝撃を受けた。
お帰りなさい。たった、それだけ。けれども、娘に面と向かって言われたことはなかった。そう、ついさっきまでは。
「おかえりぃ、おとーさん」
「うん、うん。ただいまっ、花帆」
「あのね、わたし。まってたんだぁ」
「お父さんの、帰りをかい?」
「う、ん。あの、ね。おとぉさんにおかえりって、いいたかったの。だからね、ここでまってた、の」
「そっか。そうか。ただいま、ただいま。花帆」
「えへへぇ。おとさ、んに、はじめておかえり、て、いえたぁ……」
ぽすり。小さな音を立てながら、グラグラ揺れていた娘の頭は柴犬のぬいぐるみの体に受け止められた。慌てて確認すると、すやすやと寝息が聞こえてきたため眠りについたことが分かる。娘がヒロミツと名付けた柴犬のぬいぐるみがなければ、娘は頭を床に打ち付けていたかもしれない。もちろん、その前に俺が受け止めればいい話なのだが……。不意打ちだった。
まさか、まさか娘が日付が変わるという時間まで帰ってくることのできなかった俺に。お帰りと言うために、わざわざ玄関で待っていたとは。俺が帰ってきた時は眠っていたようだが、俺にお帰りと言うためだけに、眠たいだろうに夜更かしをするとは思いもしなかった。
ブランケットを被った娘を、大切そうに抱きしめている柴犬のぬいぐるみごと抱き上げる。起こさないよう、物音を立てないよう気をつけながら娘の部屋へ向かい娘をベッドに降ろすと、娘は柴犬のぬいぐるみを抱きしめたまま小さく丸まった。
「おやすみ、花帆。お話は、明日しようか」
嗚呼、嗚呼。胸の底から湧き上がるこの気持ちはなんだろうか。
嗚呼、嗚呼。胸の奥から鳴り響くこの鼓動はなんだろうか。
嗚呼、嗚呼。ぽろぽろと目元から零れ落ちるものはなんだろうか。
嗚呼、嗚呼。唇を噛みしめなければ零れ落ちそうなものはなんだろうか。
きっとそれは――。
「いとしい、いとおしい、かなしい」
愛情、というものではないだろうか。S