什捌. 『
——
あの兵士の刀が僕の首に届くまでわずか一秒ってところだろう。僕は地下室の中の彼女の顔を思い浮かべながら目を閉じる。ただ今眼の前で起きている現実から目を逸らしたかったからかもしれない。僕はそうやって差し迫る死をただただ待つしかできなかった。
七歳の
僕は物心つく前からホウセンカ家の家僕として売られてきた。父の存在は聞かされたことがなかったから何一つ知っていない。しかし母のことは今でも微かに覚えている。
「佐次郎…。強く生きるのよ…。」
「つよく…?」
僕は鳥之都より西に位置する
僕が年々大きくなっていくと、いつからか母は食べ物もろくに食べなくなった。きっと僕の食べる量が増えて母が食べる分まで僕にくれたんだと思う。そのような生活は
「ごめんなさい…。こんな母を許して…。」
僕は気づいていた。これは母が悪いのではなく、自分が悪いことを。自分がこの世に生まれてきたせいで母の人生が不幸になったことを……。僕はその小さい口で母に別れの挨拶を言った。
「ママ、幸せになって。」
しかし母は僕の挨拶に目もくれずただ後ろを向いて肩を震わせるばかり。その後、僕は背中に桃色の花の紋様が描かれてある着物を着たおじさん二人に連れて行かれた。そして馬車に乗って長い時間道を走ると香咲町では見られなかった大勢の人々や華麗な明かり、櫛比した高い瓦屋の建物が目に映った。外はすっかり暗くなっているはずなのに、この街はまるで昼間のように賑わっていた。
「わぁ…。」
「口が開くほどすごいか?坊や。」
「はい…。こんなの初めて見ました。」
一緒に馬車に乗っていたおじさんが話をかけてくれた。
「ほんっと無邪気すぎて泣けるわ。これから奴隷として売られるというのによ…。」
「おいおい、情けをかけるな。この組織の掟だぞ。」
前で馬を御していた御者が一人で何かを呟いた。
馬車が大きい総門を通過して厩舎に止まると僕は馬車から降りた。そして人混みの中をおじさん二人と一緒に歩いて通り抜けると後ろの景色を隠せるほどの広く大きな屋敷が現れた。
「これからここで暮らすんだぞ、坊や。」
「ここで…?」
おじさんが門に取り付けてある輪状の取っ手を手で握る。そして上下に振って門にノックをすると門の向こうから男の声が聞こえてきた。
「帰りですか。」
「そうだ。」
「取引番号札を提示してください。」
おじさんは門の左にある小さな四角い穴に木の札を差し込んだ。すると、
「確認されました。」
という言葉とともに門が開いた。
「さ、入るぞ。」
おじさんは僕の手を引っ張って門を潜る。すると目の前には城のように高い建物がデンと据えてあった。ここに来る途中目に入った街の瓦屋を三段は積み上げたように高い建物の入り口には不思議な恰好をした男の人が立っていた。
「その薄汚いネズミっ子が
「ん…?」
僕は門の前で佇んで右に首を傾げようとした。しかし、首が右に下がらない。僕は視線だけを右に向けてみる。すると、僕の右には建物の前に立っていた不思議な人が左手の人差し指で僕のこめかみを押さえていた。そして不気味に笑いながら僕の右耳に囁く。
「教育がなってないね。目上の人を見ると首を横に傾げるんじゃなくて前に下げるんだよ。」
彼の囁きに一瞬ゾッとした僕は全身に鳥肌を立てる。そしてこの後一度も経験したことのない感覚を覚える。右脇腹にずっしり重い何かが当たって僕は打っ飛ばされた。
「ああっ!!痛い…!痛いよ……。」
「目上の人の前で
またその男の人は僕の横に立っていた。そして今度はうずくまっている僕に足を振り下ろしてカカトで僕の背骨を強打した。
「アアアアッ!!!」
ボキッと骨が折れるような清い音は僕の喚き声にかき消される。僕が苦しんでいると僕を連れてきたおじさんが止めようとした。
「し、シレネ様!これ以上商品を傷つけると…。」
「傷つけると…?貴様。俺の前の立て。」
おじさんが男の前に立つと男は顔を近づけて訊く。
「これが貴様の商品なのか?」
「い、いいえ…。」
「じゃあ、これは誰の商品だ?」
「し、シレネ様の商品です。」
おじさんは恐怖に怯えた声で男に答えた。
「それを知っていながら今俺を呼び止めたのか?」
「も、申し訳ございません!!」
男は左手を右に構えて言う。
「目上の人が仕事をしているのに邪魔するんじゃないよ。」
「どうか許してください!申し訳ございません!申し訳ございません…!!申しワッ!!」
おじさんの奇怪な悲鳴とともに僕の顔に熱い何かが飛び散った。そして僕が座っている前におじさんの頭が転がってきた。
「な、なにこれ…。やだ……。やだ…。やだ!ママのところに帰りたい…!!ここから出して!!」
僕はおじさんの死顔を見て小便を漏らしながら外に出ようとした。
「だから情けをかけるなと言ったのに…。」
一緒に同行していたもう一人のおじさんが一人で呟いた。そして、左手でおじさんの首を刎ねた男は手拭いで左手についた血を拭い取りながら言い伝える。
「こいつを地下牢に入れて三日間何も食わせるな。」
「ぎょ、御意…。」
おじさんは抵抗する僕を力尽くで押さえて高い建物の左側にある古びた小屋に連れて行った。おじさんが小屋の扉を開くと地下へ通じる底の知れない階段が続いていた。階段を降りると湿った空気が僕の体を鈍らせる。最初は暗くて何も見えなかったが、闇に少しずつ慣れて周りが見えて来た。その時に僕の目に映ったのは鉄格子の中に閉じ込められて手足に鉄の枷をつけたままうずくまっている僕と同じ子供たちだった。
「こ、ここは…?みんなここで何してるの…?」
「こいつらはこれから奴隷として売られるんだよ。お前もな。」
「どれいってなんだ…?」
「ハア…。もうじき分かる。」
おじさんは僕を空いている鉄格子の中に入れ壁にかけられてある鉄の枷を取って僕の手足に嵌めた。
かしゃっ。
その枷はとても重く、子供の僕には到底持ち上げることも動かすことすらもできなかった。おじさんは僕の恰好を見て渋面を作る。そして鉄格子に鍵をかけて出て行った。鉄格子に身を寄せかけておじさんの後姿を見据える。僕はさっきの男の人にくらったダメージが全身に響いて気を失ってしまった。
「ママ…。ごめんなさい…。会いたいよ…。」
暗闇の中、湿った地べたに丸まって寝ながら寝言を言う。そうやって寝ていると鉄格子の外から水をぶっかけられて我に返った。
「おい、起きろ。まさか、三日三晩ずっと寝ていたのか。」
「三日三晩…?」
僕が気を失ってもう三日も経っていたそうだ。僕に水をかけたのはおじさんだった。
「今日はこの国の偉い人がここ
僕は半分閉じた目でボウッとおじさんの顔を見上げる。おじさんは鉄格子の中の子供たちの人数を確認してまた出て行ってしまった。おじさんの姿が見えなくなると隣の部屋に閉じ込められていた幼い女の子の声が聞こえた。
「ねえ、ずっと起きなくて死んでるかと思ってたよ。あなたはどこから来たの?」
「ん…?」
「あなただよ、あなた。」
隣に顔を向けると綺麗な金髪の女の子が僕の顔をじっと見ながら僕の返答を待っていた。
「ぼ、僕は
「へえ、どんなところなの?」
「どんなって…。一年中綺麗な花が咲いていて町中が花の香りに満ちたところかな…。」
「わああ……。」
女の子が僕の話を聞くと目を光らせた。
「こ、こんなに暗いのに目が光ってるよ、君。」
「あたしも行ってみたいな…。」
僕も彼女に訊いてみた。
「君はどこから来た…?」
「私は遠~いところから来たよ。ケイリンという国から。」
「外国…?」
「そうだよ。」
「なんでここにいるの?」
「パパの仕事でこの街に来たよ。でもパパが暫く仕事先から帰ってこれないからここで待っててって言われてここで待ってるの。」
——この子、何言ってるんだ…?
彼女はあまりにものんきに話をしていたから僕はここに入ってくる前に起きた出来事が全て夢だったんじゃないかと自分の体を触りながら昨日の記憶を疑ってみる。しかし、脇腹と背骨にはしっかりと傷が残っていた。彼女は不思議そうな顔で僕を見る。
「いきなりどうした…?大丈夫?」
「あ、うん…。」
「あなた名前は?」
「僕は佐次郎。君は?」
「私は
「あっう…うん…。よろしく。」
鉄格子の間から顔を出して笑う彼女を見ているとせめてもの不安で尖った気持ちが少しは和らぐ。
二人でいろいろ話をして彼女が眠りについた頃、軋む金属音を出して地下室の扉が開く。
「ふーん、随分
「ハハッ、申し訳ございません。資金が集まり次第新しく立て直そうと思います。」
地下室の階段から聞こえて来た声は聞き覚えのない男性の声と三日前僕の体を打ん殴った男の声だった。二人の声が段々近くなると思いきや、すぐ遠くなっていった。僕は微かに聞こえる二人の会話を聞こうと耳を傾ける。
「これ使い物になりそうですな。」
「これはこれは、さすがです。眼識がありますね。」
——何の話しだろう…?
「もう一人いないですかね。」
「こちらの商品はどうでしょう。女児ですがこの年で既に神才を解放しています。きっとお役に立てるでしょう。」
「ほお…。それは興味深いですな。何枚でいいですかな?」
「二品で七枚です。」
——女児…?商品…?
「ふーん…、前より少し値上げしてませんかね?」
「前の品より質が上がってますからね。それから物価も上がってるじゃないですか~。」
「まあ、仕方ないですな!こいつらにしましょう。」
「ハハハ、毎度ありがとうございます、旦那。」
「これからもよろしく頼みますよ。」
二人の会話が終わると鉄格子の扉が開く音とカランカランと足枷の音が聞こえた。そしてその音はまもなく地下室の外へ消えていく。今の二人の会話は小さい僕には全く理解できなかった。僕は鉄格子に寄り添っていた体をのっそりと壁側に移して身を持たせる。
「ハア…、一体ここはどこなんだろう…。」
光も差してこない暗い地下室の中で母の顔を思い浮かべてみる。
「ママ…。会いたいよ…。ここから出たいよ…。」
瞼を閉じているにも関わらず僕の目から涙が氾濫して溢れてくる。そしてその熱い涙は僕の頬を伝ってボトボトと地面に落ちた。僕は徐に地面に丸くなって眠りにつく。
今が朝なのか晩なのかも分からない暗闇の中で僕たちは握った拳の大きさのジャガイモ二つだけが毎日の生命線になっていた。しかしなぜか
ある日は彼女が外から戻ってきた時、懐に隠して不思議な土色の果実を地下室の中に持ち込んだことがある。彼女は僕にその果実を渡してコソコソと話す。
「サジロー、サジロー!これ食べてみて?」
「なんだこの丸いのは?」
「梨っていう果物でね?めちゃくちゃ甘くておいしいんだよ?私の大好物!でも一人で食べるにはもったいなくて一つ持ってきちゃった。へへ…。」
僕のことを考えてくれる彼女の気持ちは嬉しかった。しかし…。
「梨那は外でこういうモノを食べているんだね…。」
「え…?」
僕はつい羨みの気持ちを口に出してしまった。
「あ、いや…。今のは…。」
「なんかごめんなさい…。」
僕が言うべきセリフがなぜか彼女の口から出た。
「なんで謝る…。」
「あたし知ってたから…。サジローとここにいるみんなはジャガイモしか食べてないって…。」
「だ、大丈夫だよ。ジャガイモも美味しいし。たまに喉に詰まるけど…。」
「でも、ほかにも美味しいものはたくさんあるから!だからこれから外に出たらおいしいものたくさん持って来るね?」
「う、うん…。ありがとね。」
梨那の言葉には温もりというものが感じられる。これが優しいということなんだろうか。この日から日々彼女との距離が縮んだ。彼女の影響を受け、僕の引っ込み思案な性格も少しずつ変わっていった。しかし、ある日。いつも通り地下室の外に出た彼女は、あれっきり二度と帰って来なった。僕は、随分彼女と打ち解けていてここでの生活もそう悪くないなと言いたいところだったが、彼女の存在は大きかった。僕はまた引っ込み思案な性格に戻る。そして毎日無言のまま壁に石ころで「正」の字を書き込みながら彼女が戻ってくることを待ち続けた。
あれから一か月は過ぎた。今日も地下室の階段からおじさんが降りてきてふかしたジャガイモを二つ置いて行った。僕は壁に背中を持たせてうずくまる。
「イヤだな…。」
「イヤなら俺にくれよ。そのジャガイモ。」
僕が独り言を言うと、右側の鉄格子の部屋に閉じ込められていた男の子が勝手に僕の言葉を紡ぐ。
「え、いたの…?」
「ずっといたよ!!」
僕は今まで彼の存在に全く気付かなかった。彼女にしか集中していなかったからだろう。
「それより、ジャガイモ食わんなら俺にくれよ。お前、いつも隣の女にいろいろもらってたんだろ?」
「まあ、もう一か月も前のことだけどね…。」
僕はしょんぼりして言った。
「お前その女好きだろ?」
「ぼ、僕が?!まさかそんな…。」
「図星か!じゃあ、そのジャガイモを俺にくれたら女に会える方法を教えてやるよ。」
「え、本当?」
彼は僕に提案をした。そして、なんの躊躇いもなくその提案に乗った。
「さ、やるよ。教えて。」
彼は僕が差し出したジャガイモを取ってバクバクと食い尽くした。それから返って来る言葉は、
「んなもんできるか!バーカ。できてたら俺はとっくにここから脱出したぜ。」
「なんだそれ!僕のジャガイモ返せ!!」
僕は鉄格子の間に両腕を伸ばして彼の胸倉をつかみ上げる。
「やんのか?!」
彼も僕の胸倉をつかみ上げた。そうやって鉄格子を挟んで僕たちはお互いいがみ合っていると地下室の扉が開く音がした。
「ん?今ジャガイモもらったばっかりなのに…?」
階段を下りる足音が段々こっちに近づいて、徐々に二体の人影が見えて来た。そして目を刺激するような強烈な明かりが僕のいる鉄格子の中を照らす。明かりのせいで後ろの人たちが誰なのか僕にはよく分からなかった。
「ウッ、なんだこの光は…。」
明かりが鉄格子の前まで近寄るとあまり低くない落ち着きのある男の声が聞こえた。
「この子か?随分元気そうだな。」
「はい、どうでしょうか。使い物になるかは分かりませんが。」
やはり僕を殴った男も一緒にいた。
「どうもなにも、最初から決めていたことだ。連れてくぞ。」
「フフフッ、かしこまりました。」
すると、鉄格子の扉が開いた。
「さあ、出てこい。」
「は、はあ…。」
僕が腑抜けた顔で鉄格子から出ると僕といがみ合っていた男の子が口を開ける。
「お、おい!行くのかよ!」
「え、僕も良く分か…。」
「目上の人の前で声を高めるんじゃない…。」
その瞬間、僕を殴った男が強い勢いで腕を伸ばす。すると風が吹くはずのない地下室の中に風が吹いて来た。そしてその風が男の掌に一極集中して前方に放たれると鉄格子の中の少年は壁に吹っ飛ばされて倒れる。
「ううっ…。」
「虐待はやめておけ。見るに堪えないぞ。」
「これはこれは、失礼いたしました。ホオズキ様。」
明かりにチラッと映った男は綺麗な赤い髪に赤い衣装を着ていた。階段の前に着くとどこか優しそうな顔で僕に言う。
「足元気をつけろよ。」
「は、はい…。」
僕は黙々とその「ホオズキ様」と呼ばれる赤髪の男の人の後ろに付いて重い鉄枷を嵌めた足を外から差し込む光の方へ運ぶ。