俺たちは、丸一年かけて雪ノ下の抱える問題を解決した。
頃は年の瀬。雪ノ下家の豪奢な応接室。雪ノ下の母親と和解と言っても差し支えない決着を迎えたとき、雪ノ下は声も出さずにただ呆然と涙を流し続けた。由比ヶ浜はそんな雪ノ下をそっと抱きしめて、嬉しそうに、幸せそうにしゃくり上げていた。
雪ノ下の母親は寄り添って泣く二人をじっと見つめて、一瞬だけ眩しそうに目を細めると踵を返して部屋を後にした。永久凍土と言ってもいいほど積み重なって凝り固まった根雪の雪解け。そのときにこの人が何を考えていたのか、俺には想像することさえできそうになかった。
あいつの家に初めて行ったときに、弱々しい声で『きっといつか、あなたを頼るわ』と由比ヶ浜に踏み込んだのを、その隣で聞いていた。
眩い夜景を眼下に置き、白亜の城を背景にして、『いつか、私を助けてね』と泣き出しそうな微笑みで願われた。
願いはかなえられたんだ……。
俺は精根尽き果てて椅子に沈み込み、それでも間違いなく満たされていたと思う。
二人の幽かな涙声混じりの息遣いをBGMに、ずっとずっと手が届かないと思っていた葡萄の味を、俺は深く静かに噛み締めていた。
× × ×
その帰り、もう遅いからと雪ノ下の母親が車の手配を申し出てきた。最初は断って由比ヶ浜と余韻を味わいながら二人で歩こうかと思っていた。だが雪ノ下が控えめに見送りたい旨を伝えてくれたので、それならばと好意に甘えることにした。今は少しでも長く三人でいたかった。自惚れかもしれないが、二人もそう思ってくれているように感じられた。
車中、運転手を除けば後部座席にいる俺たち三人きり。口数少なく微笑みただ寄り添い合う二人を、俺は背もたれに身体を預けながら眺めていた。雪ノ下の幸福を寿ぐ由比ヶ浜とそれを受けて感謝を述べる雪ノ下が、今度こそ俺は間違わなかったのだと優しく教えてくれた。
車窓から差し込んでくる人工の光に照らされる由比ヶ浜が、一つ手を叩いて燥いだように言った。雪ノ下の誕生日を祝おう、と。和解に至れた家族も、奉仕部によって結ばれた縁も、彼女を繋ぐもの全てを呼んで、盛大に、と。由比ヶ浜が見ているその光景を想像することで、俺も愉快な気分に浸ることができた。
俺も由比ヶ浜も、何の疑いもなく雪ノ下も賛同してくれると思っていた。照れ混じりに皮肉の一つを交えても、喜んでくれると思っていたのだが。
雪ノ下は表情を固めて、口を開いた。
「お願いが、あるの」
その真剣な眼差しが、残った二人の口を閉ざす。
「一月三日、この日一日の時間を私にくれないかしら」
そうして雪ノ下は。
「その日、私たちの関係に、決着を付けましょう」
戻れない一歩を、踏み出した。
雪ノ下の発言の後、由比ヶ浜は驚愕や恐怖、羨望や決意、様々なものがないまぜになったような無表情で息を呑んだ。それと一緒にどんな感情を飲み下したのかは分からない。ただ、一呼吸おいた由比ヶ浜は悲しげにも見える曖昧な笑みを浮かべていた。
俺は、動揺した、のだと思う。由比ヶ浜と雪ノ下から目が離せず、ひぅ、と歪な己の呼吸音が自らの耳朶に響き、反射的に伸ばしかけた手を逆の手で無理矢理に押さえ込む。
「どうして……」
辛うじて絞り出せたのは質問としての最低限を下回った、曖昧模糊としたそれだけだった。どうして、そんなことを。どうして、今なのか。
――――どうして、お前が。それを、言うのか。
雪ノ下がその問いに、苦い微笑と解答を返してくる。
「……もう、終わりが近いからよ」
俺も、由比ヶ浜も。
その言葉に対抗できるだけの手札なんて、一枚たりとて持ち合わせてはいなかった。
雪ノ下の問題を解決するのに必死になって、或いはそれにかかりきりになることに理由を仮託して、確実に近付いてくる終わりから目を背け続けていた。
卒業なんて、誰もが平等に経験することなのに。今までだって砂を噛むようなそれを経てきているのに。今の俺には、想像するだけで泣きたくなるほどに耐え難いのだ。
「……この日にしたのはね、欲しいものがあったから」
雪ノ下は、静かに言葉を紡いでいく。
「……もし望んでいいのなら、あなたたちの、嘘偽りない答えを」
森閑とした車内に、綺麗で儚い雪ノ下の声が降り積もる。
「……私に、ください」
車は止まらない。目的地まで静かに俺たちを運び続ける。
暗い道の先に取り返しのつかない悲しみがないことを、俺は切実に願った。