歓談しながらゆっくりたっぷりご飯を食べて、気付いてみればもう十時を回っていた。
「なあ雪ノ下、お前んちの時間の進み方ちょっとおかしくない? ここ竜宮城なの?」
もう何するにしても恐ろしいほど時間経つのが早いんだけど。
「『可愛い女の子と一時間一緒にいると、一分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に一分座らせられたら、どんな一時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである。』……アインシュタインに倣うなら、比企谷くんにとって私たちは可愛い女の子なのかしら?」
「……こんなに短い二十四時間は生まれて初めてだ」
自分から振った以上、躱すことも難しかろう。軽い溜息を吐き、諦めて白状する。半日以上寝っぱなしだったことを差っ引いてなお矢の如き光陰だ。
「まさしく時よ止まれ、だ。これだと魂持ってかれちまうか?」
……うわあ。雪ノ下の諧謔に合わせてつい口が滑ったけど、もうこれ後悔しかねえわ。俺が言っていい台詞じゃねえよなんだこの気障。今間違いなく引きつった笑み浮かべてる。
「私たちは美しい? ふふっ……嬉しいわ」
人生で最も素晴らしい瞬間に時間が止まってくれれば、という惰弱な本音は汲み取られなかったのか、ファウストの方にだけ雪ノ下は反応してくれた。……いや、こっちはこっちで恥ずいけど。由比ヶ浜の方はよく分かってないのか、なんか上の空な様子。小さい声で、口遊んでるのか? これは?
「助けたサブレに連れられて-、竜宮城に来てみればー。じゃあヒッキーが浦島太郎だ。ね、ヒッキー。どっちが乙姫様?」
かと思ったら、なんか歌い出した。もしかしてその歌思い出そうとしてたの? そして何かを期待したような眼差しで問うてくる。もうこれ俺がどう答えるかとか完全に分かってるじゃん。やめようよそういうの。
「……言うまでもなくね?」
「ヒッキーがどう思ってるか聞きたいなー」
「そうね。私も聞きたいわね。比企谷くんの口から」
由比ヶ浜と同じような笑みを浮かべて、雪ノ下まで乗っかってくる。逃げ場がねえ。
「…………どっちもだよ。乙姫様二人の歓待だ。そりゃ浦島太郎も骨抜きにされる」
由比ヶ浜は満足げに息を漏らし、雪ノ下は嬉しそうに目を細める。ほんと、絵にも描けない美しさ、だ。
ふと、由比ヶ浜が何かを考えるように俯いた。
「……浦島太郎が帰るなんて言わなかったらさ、竜宮城でずっと楽しく暮らせたのかな」
「……それじゃ、御伽噺になんねーだろ」
「うん……そうだね」
上げた顔は少しだけ寂しそうに笑っていて。
「……年老いた母親が帰りを待っていたから。いつまでも居続けることは出来なかったんだろ」
どうしてもどんな顔をさせたくないと思ってしまうのは、俺の甘さなのだろうか。
「ああ……浦島太郎ってそんな話なんだ。いじめられてる亀とか、竜宮城とか、玉手箱とか、そんなのしか知らなかったな」
「……外に出たら数百年が経っていて。待っているはずの母親は唐突な息子の失踪から孤独死。当人も誰も知る人の居ない世界で絶望し、開けてはいけないと言われて持たされた玉手箱で年老いてしまう。そうして鶴になって天に昇る。……亀を助けて行き着く先がこれだもの。救われない話よね」
そう言って、一つ溜息を吐く。ああ、霊界探偵の出てくる漫画でもそんなこと言ってる奴居たな。開けちゃいけない玉手箱を何故よこした、亀を助けた結果がこの仕打ちかとな。御伽噺ってそういうとこあるよな。
「外に出たら数百年、か……。ね、もしもあたしたちの今日が終わって、明日になったら外では数百年、とか経ってたらどうしよっか」
……それは。
「家に帰っても、学校に行っても、みんな知らない人。あたしたちの知ってる人も、あたしたちを知ってる人も、誰も居ないの。残ってるのは、あたしたち三人だけで」
それは。由比ヶ浜の言う『もしも』は。明日が変わらぬ明日であっても。俺たちが、俺たち三人を知る人が居ないどこかに逃げてしまえば、きっと成立することで。
「そしたら、あたしたちはさ、三人で一緒に暮らしてくの。知らない間に変わっちゃった世界で、知らない人たちの中で、三人で力を合わせて生きてくの」
由比ヶ浜の頬と話が徐々に熱を帯びていく。ああ、目に浮かぶようだ。本当にそんなことになったのなら、俺は絶対にこの二人を手放そうとはしないだろう。何があっても、何に替えても、この二人を傷つける何もかもから守り通そうとするはずだ。
浦島太郎も、もし乙姫様と共に帰れたならば玉手箱を開けることはなかったのかもしれない。
けれど。
「由比ヶ浜」
その勇み足は、止めねばならない。
「あ……」
冷や水を浴びせられ、由比ヶ浜は言葉を詰まらせる。
俺たちは雪ノ下の誕生日を祝う以外にもう一つ、劣らず重要な目的を持ってここに居る。
決着を、付けなければならない。俺たちの、この関係に。
「……ごめんね。ゆきのん」
「…………それは、とっても素敵ね」
雪ノ下は閉じていた目をゆっくり開くと、ぞっとするほど美しい、儚くも完璧な微笑を湛えてそう言った。
「どうして謝るの? 素敵なお話だったのに」
「……それは、だって」
由比ヶ浜が言葉に詰まる。決着を意識すればこそ、この御伽噺には余計に心惹かれてしまう。けれど、それは麻薬だ。三人で居ることが出来なくなったそのとき、禁断症状はきっと手酷く俺たちを苦しめる。
「ねえ……そのお話は、めでたしめでたし、で終われるのかしら?」
「…………うん。きっと、そうだよ」
ビスクドールじみた笑みを浮かべる雪ノ下の問いかけに、幾許かの静寂を挟んで由比ヶ浜が返す。そのしじまの中で、透明な笑顔を湛えた由比ヶ浜は何を思ったのだろうか。
その応答を最後に、俺たちの間に沈黙の帳が降りた。誰も何も喋らない。
雪ノ下は瞼を閉じて、満足そうな、穏やかな笑みを浮かべている。閉ざした瞼の裏に、彼女は何を映しているのだろうか。由比ヶ浜は俯き加減に俺と雪ノ下の狭間に視線をやってはいるものの、何を見ているのかそれとも何も見てはいないのか、透明な笑顔を湛え続けたままに遠い目をしている。そんな二人を窺いながらも、俺自身虚ろな目をしているだろう自覚はあった。三人で抱き合うように生きていく未来。雪のように儚い御伽噺。泡沫の夢幻。あり得たかもしれない俺たちの行く末を脳裏に描いて。
誰も何も喋らない。誰も何も喋らない。
それでも、今ここで俺たち三人が思い描いている形は大きくずれてはいないのではないかと、そうであればいいのにと、そんなことを思った。