一度寝て起きたからとそれで雪ノ下の私室に慣れるはずもなく。あの時は雪ノ下も由比ヶ浜もいたからこそ興奮に比肩するだけの安らぎも感じられたし、一人になった後は朝落ち着くのにも部屋の外に出てたし。つまり何が言いたいかというと。
「……落ち着かん」
部屋に来たはいいものの、身の置き所がなくて困る。雪ノ下が普段使っているだろう勉強机の椅子に勝手に座っていいものか。さりとて床に直接座るのもどうかと思うし、ベッドなんぞ論外だ。いっそ部屋の外で待つかとも考えたが、先に部屋に行っててと言われた以上それもいかがなものかという話だ。あれだけ固く抱き合っといて何を今更と思うかい? 男子高校生の自意識舐めんな。
……ええい、もういい。椅子に座って待っていよう。きっとこれが本当に最後の執行猶予。やれることをやらずに後悔はしたくない。
そうして俺は思考に耽る。考えるのは雪ノ下と由比ヶ浜のこと。二人のこと。彼女たちのこと。そして、俺のこと。二人と一人。三人の関係性。これまでの。これからの。何より誰より大切な人たち。手に入れるのが恐ろしいとさえ思っていた、かけがえのないもの。手にしてしまえば、なくすことはもはや恐ろしいなんて言葉などでは到底言い表せない苦悩の嵐。
深く深く思考を没入させていく。頭の中を雪ノ下と由比ヶ浜で埋め尽くす。彼女たちの笑顔が、二人の泣き顔が、怒った顔が、嬉しそうな顔が。この二年間で見てきた雪ノ下が、由比ヶ浜が、止め処なく脳裏に浮かんでくる。知らず溜息が出て、口元を手で覆うと頬が濡れていることに気付く。どうしても、決着を付けなければ駄目だろうか。そんな言葉が頭の片隅から沸いてくる。分かっている、自覚している、理解している。弱音だ。
俺たちの三角関係は、外からの阻害妨害攻撃などには完璧なまでの盤石さを持っていると言ってもいい。少なくない時間をかけて、この奇跡のような関係を築き上げた。反面、その内側の挙動には酷く脆い。誰かが一歩踏み出せば、蟻の一穴。それを引き金として、何もかもが連鎖して瓦解しかねない危うさを含んでいる。
二年前の俺なら、そんなものは欺瞞だと容易く切り捨てていただろう。
一年前の俺なら、判断に迷い口を噤んでいたに違いない。
そして今の俺は、そんなものよりこの二人のほうが大切だと断言する。
俺は変わったのだろう。この二人に、変えられたのだろう。人は簡単には変わらない。その持論は今でも捨てていない。だが、彼女たちとの二年間は、決して平坦なものなどではなかった。
そして、それを今はこの上なく心地よいと思っている。
「…………ぃやだ……」
びくんと身体が跳ねる。今の声がどこから聞こえたのかと一瞬目を走らせるが、当たり前のように部屋には俺一人。つまり俺の口からこぼれた言葉ということか、そうでなければ幻聴だ。
身体に震えが走る。嫌だ。雪ノ下とも、由比ヶ浜とも、離れたくなんてない。嫌だ。視界が滲んだことで涙が出てきたと分かった。寒くもないのに我が身を抱いて、震えを押しとどめようとする。どうしても、決着を付けなければ駄目だろうか。その言の葉が口からこぼれ落ちそうになる。歯を食いしばって、腹の底に飲み下す。俯いた視界は歪み、ぼやけた椅子の天板に黒い染みが点々と増えていく。嫌だ。それでも決着は付けなければならない。雪ノ下が望んだのだから。決着を、望んだのだから。涙も震えも止まらない。今日一日で刻みつけられた幸いが、行く末で失う幸福と同量のものであると心身で理解させられてしまっている。無様に泣き喚きそうになる。嫌だ。嫌だ。絶対に嫌だと心が暴れ狂っている。泣き言が悲鳴となって今にも口をつかんばかりだ。
それでも、決着を、付けなければならない。
目を閉じて、甘える心を捕まえては磨り潰し、殺していく。そういう作業は得意だったはずだ。
嫌だ、としても。それをしなければならないのだから。
抵抗する意志を片っ端から粉微塵に変えていく。
壊していく。
根こそぎ。
全てを。
…………震えは止まった。きっともう、大丈夫だ。目を開けばクリアな視界。涙も止まった。
頬に残った涙を拭って、最後に一つ、深呼吸。さあ、雪ノ下と由比ヶ浜が上がってくるまで、別解探しを続けようか。