硬質な音が三度響き、没頭していた思考が現実に引き戻される。俺がいるからってあいつ自分の部屋に入るのにもノックするのか。律儀な奴だ。
「雪ノ下」
「入るわね」
許諾の代わりに彼女の名を呼ぶと、立て付けのいい木製の扉は殆ど音を立てることなく滑らかに開き、その向こうにいた二人の女の子の姿を露わにする。湯上がりで火照った肌に昨日着ていた服を纏い、何故か二人とも目を逸らしながら入ってくる。
「お待たせ」
「いいや。全然」
首を横に振って答えるが、由比ヶ浜は掠れる声でうんと言ってはシュシュでまとめたお団子を弄ってるし、雪ノ下もお待たせと言ったきり、手持ちぶさたに髪に巻き付けたシュシュを弄んでは所在なげに佇んでいる。
何だろう。どうにも二人の態度がぎこちない。
「どうかしたか?」
「いえ……どう、したというわけでもないのだけれど……」
「うん……なんか、ヒッキーの言ってたこと、分かっちゃった、っていうか……」
俺の言ったことって何だ? と一瞬惑うも、俺が先に風呂に入るに至った経緯が即座に思い起こされて頭が熱でショートする。
「え……あ……そ、そうか……」
「う、うん……」
え、何? この二人がこうなってるのって俺のせいなの? そのほっぺたとか赤くなってるのって風呂上がりだからじゃなかったの?
その後どうすんだこれって感じの沈黙が流れて二人の顔が直視できない。由比ヶ浜も似たり寄ったりな具合で、時折お互い窺う視線がかち合ってまた思いっきり逸らしてしまったりする。片や雪ノ下の方は、頬を染めたままずっと俯いてしまっている。
戸惑いと羞恥が支配する場を、雪ノ下の咳払いが禊ぐ。自然、俺も由比ヶ浜も雪ノ下に注目する。
「仕切り直しましょう」
そう言って、先刻の事実なんてなかったとでも主張するかのような凜とした表情でまっすぐに俺を見る。ほっぺたまだ赤いけど。
「お待たせ」
ああ、そこからやり直すのか。
「いいや。全然」
俺もまだ赤いと思うけど、乗っかっておく。由比ヶ浜も頬を赤らめたまま、にこっと笑いかけてくる。その行為がまた俺を昂ぶらせるって分かっててやってるんでしょうかこの子。
しかし、改めて思う。本当に、どうしようもなく、極めて歪な関係性だと。こんなささやかな事であっても……いや主観的には全く些細じゃないんだが。痕が残るほどに強く抱き合い、同じ布団で重なり合いながら眠りに就いた俺たちなのに、自分が異性として見られていると感じることが、こんなにも心を揺さぶってくる。ある意味で、これも俺たちの二年間のツケなのだろうか。
俺の返事を受けて、雪ノ下は音もなくこちらに歩いてくる。椅子から立ち上がって場所を空けると、雪ノ下は机の置き時計を手に取って、弄びながら口を開いた。
「あなたたち、時間の分かるものは持っている?」
「スマホくらいだが」
っていうか持ち込んだ私物がスマホと財布くらいしかねえ。
「あたしもそれくらいかな」
「そう……じゃあ、電源を切ってもらっていいかしら」
「そんなもん、ここに来たときから切ってるわ」
「うん……あたしも」
絶対に誰にも邪魔はさせないと。そう言った彼女の表情は今でも鮮烈に焼き付いている。
「ふふ……ありがとう。嬉しいわ」
柔らかな笑みが耳をくすぐる。
「私も、同じ。それに、比企谷くんがここに来て三人揃った時点で、インターフォンの電源も切ってある」
それは、断じて余人の干渉を排除する決意。
「誰にも、何にも、邪魔はさせない。そして……」
繊細な手つきで、音も立てずに雪ノ下が時計の電池を取り外す。
「今、この部屋の時間を止めたわ。これで、決着が着くまで、今日は終わらない」
その時計は、十一時五十分で針の動きを止めていた。
「良かったわね比企谷くん。祈りが通じて」
止めるタイミングが違いません? まあ確かファウストもこれ言ったタイミングって人生懸けた壮大な皮肉みたいな状況だったけどさあ。小さく溜息を吐いて返事とする。
確かファウストが祈った相手は悪魔だったと思ったが、さて今し方時を止めた雪ノ下はどんな配役になるのやら。
そういえば、今のレトリック由比ヶ浜には理解できたんだろうか。ふと気になって彼女を見るが、存外に真剣な目つきで針の止まった時計を注視していた。枝葉が分からずとも勘所は間違いなく掴んでいるのは、なるほど実に由比ヶ浜らしい。
そこで、ああ、そうか、と。由比ヶ浜のその目を見て改めて気付かされた。
雪ノ下を見る。微笑みながらも、俺たちを見返す目はとても真摯で。
最後の時が来たのだ。決着を付けるべき時が。