雪ノ下は俺たちから視線を外し、動かなくなった時計と取り出した電池を音も立てずに机に置く。静かに部屋を暖める暖房の音だけが響くこの部屋は、まるで物理的にも外界から隔離されてしまったかのようだ。
間接照明に照らされた雪ノ下の部屋の真ん中で、俺たちは正三角形を描くように向かい合う。
「忘れ物は、ない?」
雪ノ下が口火を切った。その問いかけが何を指しているかは明らかで。俺も由比ヶ浜も一瞬だけ視線を交わし合うと、苦笑する。
「悪いが、持ち合わせがなくてな」
大げさにならない程度に肩を竦めて答える。元日に一度だけ雪ノ下から送られたメール。唯一持ってくるように願われたもの。
「俺の中のどこ探しても見つかりゃしなかった。……お前らとのことで取り返しがつかなくなったら、後悔しないことはできねえよ」
「……あたしも、かな」
由比ヶ浜も胸に右手を当てて、控えめな同意を示す。
俺たちは近付きすぎた。さして長いとは言えないこれまでの人生の中で、これから先どれだけ生きても決して更新されることはないだろうと確信できるほどに、近付きすぎた。
後悔しない覚悟なんて、持てるはずが、ない。
それでも。どれだけその先が恐ろしくとも、決着を付けなければならないのだ。
「そう……」
雪ノ下は目を閉じて振り仰ぐ。その表情は透明で、何を思っているかは分からない。
ふと思う。雪ノ下自身は、その覚悟を固めることが出来たのだろうか。
……詮無いことか。首を振ってその思考を打ち切る。
この終わりは、雪ノ下自身が始めたことだ。なればこそ、今更疑うことはすまい。
「それなら、改めて。今日、この日に私たちの決着を付ける」
「……ああ」
「…………」
雪ノ下は真摯な微笑で言葉を綴る。由比ヶ浜は縋るような、泣き出しそうな、張り詰めた複雑な表情を浮かべている。
「……それで、いいかしら?」
肺がうまく膨らまない。それでも時間をかけて息を吸い、絞り出すように言葉を吐き出す。
「…………構わん」
たったこれだけの単語が、酷く酷く重かった。
「…………あたしはっ!」
由比ヶ浜の激発に、二人分の視線が彼女を向く。
ダメだ、由比ヶ浜。気持ちは痛いほど分かる。本音をそのまま言ってしまうなら、俺も恐ろしくてたまらない。それでも。
雪ノ下が、望んだのだ。嘘偽りのない決着を。全ての欺瞞を排して。
「三人で、ずっと……」
由比ヶ浜の言葉が尻すぼみに消えていく。見開いた眼の視線を追えば、雪ノ下。何もかもを忘れて見惚れてしまうほどに、儚くも美しい、完璧な笑顔を浮かべていた。
溶かされるように彼女の言葉と激情は和らぎ均され、後に残るのは戸惑い。そしてそれが残っていたのも、区切るように由比ヶ浜が目を閉じるまでの僅かな間。
少しばかりの時間をかけて目を開いた由比ヶ浜は、見蕩れるほどに凜としていた。
「……ごめん。迷ってた」
「由比ヶ浜さん?」
「もう、大丈夫。……あたしから、言うね」
そう言って、由比ヶ浜はちょっとだけ苦笑する。
「多分、一番バレバレだろうし」
……バレバレ、か。
それを勘違いではないと思うようになったのは、いつからだっただろうか。
そう気付くと共に、自分のそれまでの行動がどれほどに酷いものだったかも、自ずから察せてしまった。
なお罪深いことに、そう気付いてからも俺は彼女の強さに甘え続けた。三人でいるために。
……刺し殺されても文句言えねーやな。なんだこのクズ男。
「ヒッキー。……いいかな」
そう言って、由比ヶ浜は一歩前に出る。俺の目だけを真っ直ぐに見詰めて。その視線に篭もる想いの熱量に、身体の芯まで灼かれそうだ。
「……ああ。頼む。お前の心の裡を、聞かせてくれ」
そして、由比ヶ浜の告白が始まった。