完璧な三角関係   作:サンダーソード

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第21話

 愁嘆場を一つ超えて、ようやくのことささやかな落ち着きが戻ってくる。

 しばしの間壁に背を預けてぐったりとしていた俺は、二人の様子をのっそりと眺める。

 雪ノ下は腕を組みながら薄く浮かべた微笑みで俺たちを眺めていて、由比ヶ浜は勉強机の椅子に腰掛けて足をぶらぶらさせている。その目元は少しばかり赤く、視線は足下に向いていた。心情を慮るに余りあるその様子に、先程からまるで制御の効かない涙腺が再度の氾濫を求めてくる。

 飲まれる前に、勢いを付けて壁から跳ね起きて結論を話そうと試みる。そうしないと、全てを擲ってこの時間をなかったことにしてしまおうと、決着を取りやめて三人でいようだなんて二人に縋り付いてしまいそうだから。

「……じゃあ、次、俺な」

 それでも身体は理性に反して重々しく動こうとせず、言葉は喉に張り付いたように引っかかるのだけど。

「ええ……。聞かせて」

「ん……」

 雪ノ下は穏やかに言葉を紡ぎ、由比ヶ浜は笑顔と視線で促してくる。由比ヶ浜の痛みを肩代わりできたら、なんて。また一方的な我が儘を考えてしまう。

「最初……か……。あー、俺、の最初って、割と黒歴史っつーか……。大分アレだった、んだよな……」

 つっかえつっかえ言葉を吐き出していく。一度止まったら二度と動かなくなりそうなぎこちなさを押して、石臼のように強引に回し続ける。

「それは……私も、他人事ではないわね……」

「出会い頭の罵詈雑言。世界を人ごと変える発言。まあ大概だよな……」

 くすっ、と。掠れるような苦笑が聞こえた。

 反射で顔がそちらを向く。由比ヶ浜が力の抜けた微笑を俺たちに向けていた。

「なにそれ、あたしも初めて聞くよ」

 そんな些細なやりとりでも、するだけの気力が彼女に戻ったのかと思うと嬉しかった。

「ちょっ、ひ、比企谷くん!」

「あー……悪い。悪気があったわけじゃねえんだ」

 焦った雪ノ下が頬を染めて食ってかかる。黒歴史って言われたからつい思い出したことが口を突いてしまっただけなんです許してください。

 でも、あんな大言壮語真顔で言い放つお前、かっこいいって心のどっかでは思ってたんだぜ?

「由比ヶ浜が来る前だったんだな、そういえば。入ってすぐにお前も来たから、なんかいつの間にか最初っから三人だったような気がしてたわ」

「……実際、二日三日程度の誤差だったわね。私も長く一人でやっていたから、同時期の入部という認識だったわ」

「そっか……。それくらいしか経ってなかったんだ」

 自然に見えたんだけどな、と。辛うじて聞こえるか否かの呟きが、由比ヶ浜の口の中で融けて消える。

 足を軽く前に伸ばし背をのけぞらせ、天井を向いた彼女の視界には何が映っているのだろうか。

「……最初は平塚先生に否応なしに入れられた部活で、どうやって逃げるかばっか考えてたけどな。居続けると、その、なんだ? 悪くないって思えてくるとこもあるし、奉仕部本読んでても問題ねえし、どうせ俺ぼっちだったから時間もあったし……」

 言葉と共に下がっていく自らの視界。言ってて思う。

 俺はこの期に及んでまだ上辺を飾るのか、捻くれた予防線を張るのかと。

 あの由比ヶ浜の、血を吐くような本心を聞かされた後で。

「――やめた」

「比企谷くん?」

「ヒッキー?」

 途中で言葉を切った俺に、不思議そうな表情を向けてくる二人。

 もう、やめた。見栄を張るのは。

「雪ノ下。最初お前見たとき、すっげえ美人だって思ったんだわ。口開いたら台無しだったけどさ。でも、世界ごと人を変えるって本気で言ってたお前のこと、かっけえなって思ったりもしたんだよ」

「えっ……え……?」

 虚を突かれたように、雪ノ下は泡を食う。これまでの落ち着いたような態度は吹っ飛んでいた。

「そんな奴と近い場所に居られる部活だったし、内心結構前向きだったんだよな。実は」

「あなた……分かり辛すぎるわよ」

「由比ヶ浜も。最初来たときビッチだなんだって言い合ってたけどさ。クラスメイトで俺のことを認識してたってのがまず驚いたし、一日一緒に居ただけでもなんかすげー優しいのが分かるし、しかも滅茶苦茶かわいいし。料理は壊滅的だったけど、お礼っつってほぼその場にいただけの俺にもクッキーくれたし。苦かったけど、でもやっぱ嬉しくてさ。やべぇこれ意識しないと絶対好きになるわって全力で自戒してたんだよ」

「……なってくれてよかったんだけどなぁ」

「悪いな……っていうのもおかしい気はすっけど。中学時代、俺に優しい娘はみんなに優しいんだってトラウマ刻み込まれてたから。期待するな期待するな期待するなってひたすら自分に言い聞かせてたわ。……そんな優しい女の子が、好きなくせに」

 ぼろぼろと、これまで二年間ずっと棚上げしてひた隠しにしていた本心を零していく。

 せめて、せめてこれくらいはしなければ。由比ヶ浜の告白に、僅かでも報いなければ。

 俺はきっと、後で死にたくなるだろう。

「だから、そんな浮かれそうな心持ちを押さえつけてるとこで、入学式の事故のあらましを不意打ちに小町から聞かされて。ああやっぱりって思って……それでまた、失敗した。……とどのつまり、耐えられなかったんだ。お前の優しさに」

「……あたし、優しくなんてないんだけどな」

「お前は優しいよ。優しくて素敵で……。だから、そんな女の子に自分の手が届くはずがないんだって、自分から切り離そうとして……。相手のことなんて、何も考えていなかった」

 由比ヶ浜は何も言わず視線を落とす。

「また始めればいいなんて、雪ノ下の詭弁を拒むことも出来なかったくせにな」

 あなたたちは共に被害者で、責められるべきは加害者だと、そう言った雪ノ下。

 彼女が加害者の意識を持って、自分と俺たちを線引きしたあの日の夕暮れ。

「雪ノ下は嘘を吐かない……なんて、そんな幻想を押しつけて。勝手な失望で当たり散らしたり。全く、思い返すと顔から火が出るわ」

 もうほんっとマジで羞恥の感情のポリグラフ、さっきっから振り切ってっからね。

 それでも、もう決めたんだ。最後まで走りきると。

「……でも、そうやって離れていきそうな俺たちを由比ヶ浜が必死で繋ぎ止めてくれて。俺も雪ノ下もこんなだったから、何を思ってたとしても、諦めて投げ捨てちまうんだ。自分だけだとな」

「そうね……。由比ヶ浜さんがいなければ、間違いなく今のようにはなっていなかったでしょうね」

「あたしは……多分、自分のためだったよ」

「それでもだ」

 あの場所が、好きだったから。小さく呟いて、困ったように笑う由比ヶ浜。そんな彼女に、俺たちは何度も助けられてきた。

「文化祭でなんとなく仲直りできて、修学旅行でまた俺がやらかして……。ぐらついたまま、生徒会選挙で破綻した」

「……分かるものだとばかり、思っていたのよ」

 そう言って、雪ノ下は視線を逸らす。

「お前さっき俺のこと分かり辛すぎるとか言ったけど、お前も大概だからな? マジで」

「ゆきのん、普段は分かりやすいのにね」

「……それもそれでどうなのかしら」

 腕組みして不満を表にする雪ノ下。いやお前それどうすりゃ満足なんだよ。

 和らいだ雰囲気にくすっと失笑一つこぼし、しかしそれもすぐに引っ込む。

 深呼吸を挟んで気構えを組めば、二人も次の言葉の重さを察するようで。めいめいに粛々と居住まいを正す。

 思い出すのは夕暮れの部室。そして渡り廊下から見た夕映え。紅に染まり涙に濡れる、雪ノ下と由比ヶ浜。

「クリスマスイベントのとき。俺がまた一人でやらかしそうになったのに、二人は俺の話を聞いてくれて。俺の……願いを、聞いてくれて」

 あんな願いにもなってないような、ただ衝動を吐き散らしただけの言葉を。

「あの時」

 そう、大切そうに受け取ってくれたあの時。どうしようもなく、俺は。

「心の底からお前ら二人に惚れたんだ」

 異性としては最初っからずっと惹かれ続けていたけれど。そういうのを飛び越えて、誰より大切にしたい人たちとなった。

「ヒッキー……」

「比企谷くん……」

 由比ヶ浜は複雑そうな苦笑を浮かべ、雪ノ下は嬉しそうな微笑を湛える。不実と言われても反論の余地はないのだが、他人に抱く止め処ない情念は自分の意思でどうにかなるもんでもない。

「そこから……なんとか決着をつけようとして、不格好に足掻いて。そんな最中、雪ノ下の家のことが持ち上がって、異常に近い距離感のまま棚上げ出来ちまって……。その解決まで丸一年だ」

 この一年、二人が傍らにいない時間の方が少なかったとすら思う。俺が。クソぼっちのこの俺が、だ。

「ぶっちゃけな、お前らみてーな女の子と一緒にいて、居続けて、好きにならねえわけねえだろ馬鹿か。ただでさえぼっちは惚れっぽいってのに、無茶苦茶かわいくて性格もよくて、何より俺なんかのことを真剣に見てくれるんだぞ?」

 冗談めかして言いはするが、紛う事無き本音の固まり。いやもうほんと、好きにならねえわけねえだろこんなもん。なあ?

 ……そう。好き、なのだ。それでも。好きだと、しても。

「それでも。例えどれほど好きであっても。……決着、つけなきゃいけないんだよなぁ」

 雪ノ下は真剣な瞳をこちらに寄せて、されど何も言わず。

 その眼差しは隠しきれない期待の中に、仄かな不安を感じさせた。

 由比ヶ浜は悲しげに目を伏せて、やはり何も言えない。

 その視線は溺れるほどの絶望の中に、一縷の希望を孕んでいるように見えた。

「っ……ぁ……」

 二律背反に眩暈がする。続く言葉を、彼女の名前を呼ぼうとして、音にならず失敗する。

 それでも幾度か繰り返し、ようやく掠れた声が喉の奥から絞り出された。

「……ゆきの、した」

「はい……」

「…………」

 その名を呼んだとき、雪ノ下の抱く憂いが晴れ、由比ヶ浜の表情が悲嘆に沈む。

「……この二年間、ずっと側にいて。お前の強さに憧れて。お前の弱さを補ってやりたくて。俺は……お前に、悲しんでほしくないんだ、きっと。だから、お前を一人には出来ない。……お前、不器用だからさ。多分、泣くこともうまく出来ないくらい」

 雪ノ下が母親と和解したときの、彼女の涙を思い出す。無防備な、寄る辺ない幼い迷子のような弱々しさ。

 ……もし俺が由比ヶ浜を選んだら、この脆く儚い女の子はどうなってしまうのだろう。

「俺はお前を一人にすることに耐えられない。それがお前を選ぶ一番の理由なんだと思う。……これが俺の本音、なんだと思う」

 なんて不純。どこまで不実。二人への情愛も親愛も、性愛ですら溢れるほどにそこにはあるのに。

 結局最後は自分のこと。自分が耐え難い未来を回避するための、醜い底意。

「由比ヶ浜を愛していないなんて、口が裂けても言えない。……それでも、これが、俺の、選択……だ」

 雪ノ下に決着を求められてから、何度も何度も考えた。

 二人を傷つけない決着。そんなありもしない幻想を求めて。

 どうしても見つけられなくて、せめてなるべく傷の浅い終着をと。幾度となく繰り返した妥協の先。

 そうしてでっち上げた結論は、由比ヶ浜の強さにただ甘えるものだった。

 雪ノ下には耐えられなくても、由比ヶ浜ならいつかは乗り越えられると。

 ……辛くないはずがないのに。痛まないはずがないのに。そうだと分かってて押しつける。

 でももっと他の、三人の傷が浅くて済むような答えは見つけられなくて。

 絞り出した結論はこのザマで。自分自身に虫酸が走る。反吐が出そうだ。

「……酷いよ」

 由比ヶ浜の悲嘆の涙と呟きが、傷んだ心を更に貫く。まるで反論の余地はない。俺自身、本当に心の底から酷いと思う。

「あたしよりゆきのんのが好きだったから、ゆきのん選んだんじゃないの……? ヒッキーがゆきのんを選んだのって、そんな決め方だったの……? あた、あたしだって、強くなんかない、よ……」

 ぽろぽろと零れる大粒の涙が、しゃくり上げながら紡ぐ言葉が、俺の肺腑を手痛く抉る。

「っく……あたしがゆきのんより弱かったら、ひ、ヒッキーに選んで、もらえたのかなぁ……?」

 何よりも、由比ヶ浜にこんなことを言わせてしまったという事実が、俺自身を責め苛む。

 この答えを捻り出した時点で、覚悟はしていたつもりだった。傷つけてしまうことも。傷ついた彼女を救えないことも。

 だが、現実は決めた覚悟を容易く上回るものだった。今だって、由比ヶ浜を抱きしめて、悲しみに流れる涙を止めてやりたいと思ってしまっている。しかし、それをすれば、今度は雪ノ下が……。

 ああ、分かっていたのに。三日前の車中、雪ノ下に決着を切り出された時点で。こうやって誰かが悲しむことは。分かっていたのに、分かっていなかった。すぐにでも舌を噛み切って死にたくなるほどの絶望的な罪悪感と決定的な後悔。それに抗いきれず、迷いながらも由比ヶ浜に一歩踏み出し……

 

「……どんな所以であれ、私を選んでくれたのは嬉しいわ。ありがとう」

 

 かけたところで、雪ノ下の静かな声が俺と由比ヶ浜の動きを止め、穏やかな微笑がそのまま視線を奪っていった。

「ゆきのんは、こっ……これで、満足……なの?」

「そう、ね……今は、どう答えても、あなたを泣かせてしまいそうだから……」

 雪ノ下は泣きじゃくる由比ヶ浜にゆっくりと近付き、ふわりと抱きしめる。

「急かすことはしないわ。……落ち着いたら、私の話も聞いてほしいの」

「んっ……ご、ごめん、ね……。つら、くて……も少し、待って……」

 言葉もない。自責が身を焦がし、後悔に身も捩れんばかりだ。

 由比ヶ浜の涙は、俺に別の道はなかったのかと再三問いかけてくる。

 そんなものがあってくれたら。

 どんなにも良かったか。

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