「……ん。お待たせ」
涙の跡も痛々しいが、それでも由比ヶ浜は空元気を見せて雪ノ下の身体をそっと押し戻す。
「ゆきのん……聞かせて」
「ええ……。聞いてちょうだい」
「ヒッキーも……いいよね?」
「……ああ」
この期に及んで、俺に否やなどあるはずもない。
「そうね……私もあなたたちに倣おうかしら。最初、最初……ね」
雪ノ下は顎に人差し指を当て、思い返すように遠い目をする。
「……やはり、私にとっての最初も比企谷くんが来たあの時……なのでしょうね」
ややあって、笑みと共に結論を出す。苦笑に近いそれは、ややもすれば自嘲にも見えて。
「平塚先生のお節介で、一年生の時から奉仕部自体は始めていたのだけど。……それまでと、それからでは。何もかもが、違うもの」
俺たちの恩師の依怙贔屓が過ぎるところは、昔から変わっていないようだ。ま、今更か。
「第一印象は最悪だったわ。変わらないでいることを己の怠惰を許容させるための弁明に使うクズにしか見えなかったから」
思ってた以上に容赦なかったな!? 由比ヶ浜の方を見ると目が合う。雪ノ下は雪ノ下なんだなあって目と目で通じ合う。
「由比ヶ浜さんも、自らの無能の原因を他人に求める付和雷同の輩に見えていたし。……こちらはすぐに違うのだと分かったけれどね」
お前の世界、本当に四方八方敵だらけだったんだな……。チェーンメールの件での三馬鹿の評価でも分かってはいたが、慈悲とか寛容とかが行方不明。
「最初は有象無象の一つだと思っていたのに、あなたは他の男子とは違っていた。川崎さんの依頼でも、チェーンメールの一件でも、結局最後に解決したのは比企谷くんだった。その姿は、他人に頼らず独力で解決するという、私の理想。……やり口こそ閉口するような代物だったけれどね」
「……俺にしてみれば、お前の在り方こそが俺の理想だったんだけどな」
「見る目がなかったわね。お互いに」
「ちげえねえ」
自嘲を含んで笑い合う。あれこそは理想なんだと嘯いて、妄想を押しつけて破綻した。
「千葉村での手口は輪をかけて最悪だったわね。鶴見さんが救えた以上、私に否やはないけれど」
「今更だけど、あれで問題になってたら詰め腹を切らされんの平塚先生だよなぁ……。ほんと、なんで黙認できるんだか」
依怙贔屓にも程があるっての。そんなんだから結婚できないんじゃないの? 男より男前すぎる。
「……そうね、この際だから私も白状しましょうか。私があのとき少し強引に動いたのは、鶴見さんが由比ヶ浜さんと重なって見えたから」
「え……? あたしが……?」
「ええ。……あなたにも、彼女のような経験があるんじゃないか、って。そう、思ったのよ」
「あはは……。そっか、考えてることは同じだったんだ。あたしにはゆきのんとダブって見えたよ」
「そう……。ふふっ、思わないところで繋がるものね」
二人はクスクスとささめくように笑い合う。
ただそれだけの光景が、終わりを間近にした今、狂おしいほど尊く見えた。
「そして、私の隠し事が姉さんにバラされて。……振り返ってみれば、相模さんの依頼を受けたのは逃避のため以外の何物でもなかったのでしょうね」
ひとりごちるように、懺悔するように、ため息とともに言葉を吐き出す。
それでも、その表情は穏やかで。雪ノ下が過去を昇華しているのだということが見て取れた。
「そんな愚かな私なのに、また二人は助けてくれた。……嬉しかったわ」
「俺は何もしてねえよ。助けたのは由比ヶ浜だ」
「そんなわけないじゃん、ヒッキー。今更あたしたちにそんなの効かないよー」
「ええ。私はあなたたちに助けられてここに居る。その事実、比企谷くんごときに否定させはしないわ」
「ごときって。ごときって言っちゃってるよ? ねえ」
「ふふっ。そう言われたくなければしっかり感謝を受け取りなさい」
「そういうところ、ヒッキーずるいもんね」
くそっ、完全にアウェイじゃねえか。全く、どんだけ俺に甘いアウェイだよ。
ひとしきり笑って、目を伏せる。語られる中で、過去の時間が進んでいく。
「そうして、修学旅行。……三人で巡っていた時間は、本当に楽しかったの。これからはずっと、こんな時間が続くものだと思っていた。けれど……」
けれど。現実はそうはならなかった。愚かな選択をした男がいたせいで。
「……由比ヶ浜さんに繋ぎ止めてもらって、生徒会役員選挙、クリスマスイベントと忙しなくイベントも続いて。どうにか体裁だけ整えた器の中で、私たちはまたぶつかり合って。そして……捻くれた比企谷くんの心からの本音を聞かせてもらった」
「……うん。あの夕暮れの部室。……忘れられないよね」
思い出す度に顔から火が出る思いだが、酔いしれるような二人の様子を見れば忘れてくれとも言えねえよ。
「そして……私の家の問題に二人を付き合わせてしまうことになって。それから、ずっと三人でいたわよね」
「ああ……」
「うん……」
「家のことだけじゃなくて、奉仕部でも、受験勉強でも。お互いに理由を見つけては集まって」
「雪ノ下……」
雪ノ下が、一歩、進む。
「……本物を、探して」
更に一歩。
「ゆきのん……?」
「ずっと……ずっと愛しく思っていたわ」
一歩。
「ずっと私を側で支えてくれて……私にできないことを、あなたはなんでもないようにこなしていた」
立ち止まって、浅い呼吸を一つ挟む。
「あなたの声が好き。あなたの笑顔が好き。私にその在り方は真似できないけれど、真実あなたを愛おしく思う。あなたのいない世界なんて、考えたくもない」
終着点。立ち止まった雪ノ下は、まごつく両手を取って包み込むように握り、他の誰も目に入らないとばかりに眼前の双眸を覗き込む。
「心の底から愛しているわ。私はきっと、あなたのためならどんな障害とでも闘える。あなたが笑顔で私の隣にいてくれれば……私はそれだけで、幸せになれるの」
そうして、焼け付くような心情を、吐露した。
「……………………あたし?」
由比ヶ浜に。