雪ノ下はこれ見よがしに腕組みしてそっぽを向き、不満ですよと言いたげに独りごちる。
「おかしいわね……。二人が三人の時間を愛おしく思ってくれたとき、私は肯んじていたと思うのだけど……」
「あたしそれが遠回しにダメだよって言ってるようにしか聞こえなかった……。そういうときのゆきのんの笑顔、なんか諦めたみたいに透明で綺麗すぎたし……」
「欠片も諦める気はないわよ? むしろその答えを期待していたのに。由比ヶ浜さんが三人でずっとって言いかけたと思ったら引っ込めちゃうし。迷ってた、なんて謝ってたけれど、迷わずそちらに向かってくれても良かったのよ?」
「お前全力で逆走してんじゃねえか……」
心の底から脱力して溜息を吐く。由比ヶ浜も苦笑して頬を掻いてるし、雪ノ下は腕組み不満アピールを継続中。
いやもうほんとマジで何やってたんだろうなあ俺ら。
「……なんて、今は笑い話に出来ているけれど。こんな極めて愚かしい勘違いとすれ違いの末、二人と物別れになったらなんて、考えるだに震えも走るわね」
「ああ……ほんとにな……ぞっとするわ」
「うわ……あたし今すっごい怖くなった」
雪ノ下は組んだ腕を何かから守るように強く握りしめ、由比ヶ浜は怖気に震える我が身を抱く。俺自身、背筋に氷柱でも突き込まれたような寒気を感じた。
振り払うように首を振った雪ノ下は軽やかな調子を取り戻し、話しかけてくる。
「実際に今日一日三人で一緒に過ごしてみれば、きっと二人ともそれがどれくらい幸せなことか実感してくれると思ったのよ。そうすればこんな荒唐無稽な結論でも、感情が強烈に望んでくれるでしょう? ついでに私も実感したかったし」
「お前頭いいくせになんでそういうとこ力業なの? 馬鹿なの? 脳筋なの?」
「失礼ね。私やあなたのような七面倒臭い人間には最も有効な手段でしょう? 身を以て知っているもの」
そう言って雪ノ下は由比ヶ浜に視線を投げる。由比ヶ浜はよく分かっていないようで、他意のない笑顔で返してはいるが。
なるほど。身を以て、ね。そりゃあ納得する他ないし返す言葉もない。実際、今回も呆れるほど有効だったしな。
「由比ヶ浜さんの告白、私も隣で聞いていて身体が熱くなったわ。……比企谷くん、よくもあれだけの熱量を込めた告白を断れたわね。あなたには人の心というものがないの?」
「必死だったんだよ! 出した答えを感情で裏切るまいと!」
「まあでも、そのおかげで次善の想定通りに事が進んでくれたから感謝しかないのだけれど」
「そりゃあ何よりだよ……」
「うぅ、忘れて……とは言えないけど、恥ずかしいよぅ……」
由比ヶ浜が顔を真っ赤にさせて縮こまる。奇遇ですね俺も穴掘って埋まりたい気分ですぅ。
雪ノ下はそんな俺たちを見てひとしきりクスクスと笑うと、区切りを置くように気息を整える。
笑顔が楽しげなそれから慈しむようなものに変わり、俺は言葉を失ってその美しさに引き込まれた。恐らく、由比ヶ浜も。
「比企谷くん。由比ヶ浜さん」
「うん……」
「ああ」
ただ名前を呼ぶだけの行為に、溢れるほどの愛おしさが詰められている。雪ノ下は一歩距離を詰め、俺と由比ヶ浜の手を握る。
その掌は、雪の名を冠する彼女に似つかわしくないほどに酷く熱かった。
「断言するわ。私はこの先死ぬまでずっと、あなたたち以上の理解者に出会うことなんて絶対にあり得ないと」
「……なんで、そんなに言い切れるんだよ?」
「その自称理解者は、あなたたちと出会う前の私を知らないから。あなたたちと出会ってから変わっていった私を知らないから。私があなたたちをどれほど思っているかなんて絶対に知らないし、私自身余人に伝える気が永遠にないからよ。私にとって私たちの過去は、私たちと平塚先生だけが触れられる不可侵の聖域。それなのに私の上辺だけを見て私の理解者を気取るなんて、むしろ私の逆鱗を踏み躙る行為だというのに」
「ゆきのん……」
「…………」
握った手に負けず眼差しも熱く、言葉に込められた熱量はそれにも増していて、俺たちを心地よく灼いていく。
「私はあなたたちに一人で生きていける強さを貰ったわ。そして、そうなった私を幾ら見たところで私の本質には届かない。私を変えたあなたたちを超えることなんて、絶対に、ない」
「……俺は、そんな大層なもんお前にやった覚えはねえよ。それは、お前が由比ヶ浜に助けられながら自分の力で手に入れたもんだろ」
こんな憎まれ口を叩いてしまうのは、甘美な焦熱が身の丈に合わないと感じてしまうからなのだろうか。
だが、頭のどこかでは間違いなく感じていることでもあった。雪ノ下の変化は、この二人の一方ならぬ努力の結晶だと。無論、今更俺が関わっていないとまでは思わない。それでも、俺如きがそれほどまで他人を変えるほどの何かを為し得たとは……。
「ヒッキー……」
由比ヶ浜が俺の言葉を聞いて悲しそうに眉をひそめる。あぁ、そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
だが、雪ノ下はそんな俺の言葉を受けてなお、一切怯まず真正面から言葉を返してきた。
「比企谷くんがなんと言おうとも、これは事実よ。……でも、そうね。あなたたちに貰ったという言い方が適切ではない、というのなら言葉を変えましょうか。あなたたちが私の心に深く刺さった棘を、長い時間をかけて私と一緒に抜いてくれた。私の心に二人で手を当て傷を癒やし、私が一人で生きていける強さを、私と一緒に作り上げてくれた」
「…………」
「ゆき、のん……」
大切な宝物をそっと取り出すように、穏やかな笑みと静謐な述懐で俺を説き伏せる雪ノ下。
返せる言葉なんて何もなかった。
「そんなあなたたちに並ぶような理解者なんて、この先どんな一生を過ごしたところで現れることなどあり得ない。まして私の心を預ける相手になんてなるはずもない。もう私はあなたたちの思い出だけでも十分に、この先を一人で生きていけるのだから」
余人の干渉を排するが如き物言い。だがそれは四面楚歌であったかつてのときとは違って、危うさのない安定を手にしているように思えた。
「私のために泣いてくれて。私のために怒ってくれて。私と一緒に笑ってくれて。ずっと私と共にいて、私の壁を壊してくれた由比ヶ浜さんと。私のために悩んでくれて。私のために傷ついてくれて。私と一緒に戦ってくれて。ずっと私を守ってくれて、私の手を引いてくれた比企谷くんと」
俺たちの手を握る雪ノ下の掌に痛いほどの力が篭もる。だが、俺も恐らく同じような痛みを彼女に与えてしまっているのだろう。身体の制御がまるで効いていない感覚。五感全てが雪ノ下に埋め尽くされる実感。それが心地よくてたまらない。
「あなたたちを心の中心に置いたまま他の人間に愛を囁くような真似、私に出来るはずがないでしょう? 私、虚言は吐かないもの」
雪ノ下は最後にくすりと笑って、掌に込めた力を抜く。それが緊張を解くきっかけになったのか、俺もまた虚脱したように力が抜けた。
詰まった息が咳き込むように抜けた瞬間、その『トドメ』が飛んできた。
「由比ヶ浜さん。比企谷くん。愛しているわ。この世の誰よりも」
「!」
「ゆきのん……!」
電流を流されたようにびくん、と跳ね上がる俺の身体。実際に流れていたのかもしれない。それほどの衝撃。
「私は、あなたたちと手を携えて、この世界を生きてゆきたい」
握った俺と由比ヶ浜の手をそっと引き寄せ、雪ノ下の胸元で触れ合わせる。三人の手が、また一つの固まりとなった。
雪ノ下に引き寄せられた分の距離だけ俺の足は彼女たちに近付き、同じように引き寄せられてきた由比ヶ浜の顔がすぐ近くにあった。その顔は紅差したように真っ赤であり、きっと鏡を見ても同じような色が見られるのだろうなと自覚する。
「それが叶うなら、私はきっと……幸せになれるから」
そう締めくくって、雪ノ下は極上の笑顔を浮かべた。どれくらいかって? こいつの美しさを散々思い知らされていた俺が、魂抜かれるほどだよ。見蕩れるとはこうしたものか。
「あたしも……あたしも、好き……! 好きなの! 二人のことが大好き! ずっと、ずっと一緒にいたい! ずっと!!」
由比ヶ浜が俺たち二人をまとめて抱きしめて、感情の発露するままその内心を叫ぶ。俺たちの胸元に押し当てるその顔は隠れて見えないけれど、その声音だけでも由比ヶ浜の切実な表情が容易に目に浮かぶのだ。
「俺だって……俺だって……! ああ、そりゃそうだろ。お前らと一緒にいたくないわけがない。言葉が追っつかねえくらい、お前らのことが大切なんだ……! でも……」
ただ、それでも。ぼっちとしての習性か、二人の先行きを思うが故か。俺の中の醒めた部分が、この竜宮城の外のこと。つまり、俺たち三人以外のことに対して警鐘を鳴らしてしまう。
「でもお前、ほんとにいいのか……? その……俺たちは、男と、女と、女なんだぞ」
一体誰が未成年の歪な恋愛事情を認めてくれるというのか。殊に、雪ノ下の家はこういうスキャンダラスな出来事は許しはしないだろうと言う固定された先入観もある。
ただそうであっても、問いかけた自らの言葉の意味を思うと吐き気がした。仮に雪ノ下がそうねやっぱりやめましょうなどと言えば、恐らくもう立ち直ることは出来ないだろう。俺も、由比ヶ浜も。
失いかけた希望を一度はその手に握りしめることが出来て、されど希望は掌の中で崩れ落ちる。それは何よりも手酷い喪失だ。
「どうでもいいわ。そんなこと」
だが、雪ノ下はそんな俺の心配を真正面から切って捨てる。
「二股。共依存。都合のいい女。質の悪い男に誑かされているだけの愚者。好きに言わせておけばいいわ」
そんなものは取るに足らないことだと。もっと大事なことがあるのだと。
「私は自由を手にした。そしてその自由で以てあなたたちと一緒にいたいと願うの。いい? 他の誰でもない、私自身がそう希っているのよ。比企谷くん、由比ヶ浜さん。あなたたちの願望にすら無関係にね」
例え俺や由比ヶ浜が三人の未来を望んでいなかったとしても、雪ノ下自身が願っていることだと彼女は言う。
「私は誰ぞの価値観に許されるためなんかに、あなたたちを失うことこそ耐え難い」
かつて世界を変えると言い放った少女は、今は世界に負けぬと壮語するまでになった。その眼差しに不確かさは一片も見当たらない。
「例えこれで雪ノ下に勘当されるとしても、私に後悔はないわ」
俺たちを抱きしめる由比ヶ浜の背中を叩いてあやしながら、はっきりと俺の目を見て雪ノ下はそう言い切った。
「お前……。せっかく和解できたのに……」
「だからこそ、よ。私はあの母親と決着を付けることが出来た。あなたたちのおかげでね」
瞼を閉じ、思い返すような優しい笑みが唇に乗る。
しばし後、目を開いた雪ノ下が、落ち着きを取り戻した由比ヶ浜と俺の目を順に見つめて口を開いた。
「あの瞬間……私は、認められたの」
「認め、られた……」
「それは……誰に?」
呆然として雪ノ下の言葉をオウム返すだけの俺と、雪ノ下の想いを取り出そうと問いかける由比ヶ浜。
「母と……私自身に」
「……うん。そっか」
恐らく、由比ヶ浜は理解できていたのだろう。慈しむような大人びた微笑みが、一言で雪ノ下の答えを飲み込む懐の深さが、俺にそう思わせる。
「だから、もう、怖くない」
そう言って、雪ノ下は俺たちを抱きしめる。
「怖がらずに、大切なものに手を伸ばせるの」
「……そう、か」
雪ノ下の答えは聞いた。由比ヶ浜の願いは受け取った。ならば、最後の一歩くらいは俺から踏み出すべき……いや、俺から踏み込みたい。
他の誰でもない、俺の望みで。
「……やる」
「比企谷くん?」
「ヒッキー?」
「俺の人生、二人にやる。……大したもんじゃねえけどさ。それでも、俺の持ってるもん全部やるよ」
由比ヶ浜に、雪ノ下に抱きしめられながら、俺の両腕も二人を抱きしめる。目を閉じて、二人を想い、先を思う。
「……多分、色々言われると思うんだよ。普通の形じゃねえから。でも、俺はもうお前らを諦めたくねえ。……悪いんだけどな」
きっと、楽しいことだけじゃないだろう。喜ばしいことだけじゃ済まないだろう。世の中には、わざわざ自分の足を止めてまで他人に石を投げるような奴は幾らでもいる。
「だから、色々不利益とかも被ると思うけど、贖いに足りるかは分かんねーけど、俺の人生は二人にやる。その代わり――」
逡巡を蹴り飛ばして、目を開く。時間を止めてから泣き続けてきた由比ヶ浜の少し赤くなった瞳、今日の結末を描いて走ってきた雪ノ下の透き通った瞳。そんな二人の驚いたような顔が、言葉の続きをするりと引き出してくれた。
「雪乃。結衣。お前らがもういいって、そう思うまでは。お前らの側で、お前らの人生を歪ませ続けさせてくれねえかな?」
『私/あたしで良ければ、喜んで』
誂えたように、その返事は寸分の狂いなく揃っていた。