料理が完成間近となって、飲み物の準備を頼まれる。一人暮らしには不相応に大きな冷蔵庫を開けると、空間の八割を埋めるほどに食材が詰め込まれていた。
「雪ノ下、これ……」
「……少々、買いすぎてしまったのよ。明日一日は外に出なくてもいいように、と思ったのだけれど……」
「そうか……」
顔を赤くして料理に向き直る雪ノ下の向こうで、ニマニマとそれを見る由比ヶ浜。その視線がこっちを捉えて、また微笑まれる。口パクなのに『かわいいね』って言ってるのがはっきり伝わってくる。今雪ノ下が料理してなかったら抱きついてるんだろうなあ……。
やたらと高級そうな大サイズの瓶ジュースを三本取り出し、冷蔵庫を閉める。俺や由比ヶ浜ならまず間違いなくペットボトルだったな。こういうところでも経済力の格差を感じてしまう庶民派です。
「紙コップは?」
テーブルに瓶を置き、辺りを見回して雪ノ下に問う。それっぽいものが見当たらん。
「ないわよ」
「えっ」
「三色一揃いのいいティーカップを見つけたの。紙コップでは不経済でしょう?」
薄く笑いながら、いつかの理由を持ち出してくる。でも経済性を理由に紙コップ代わりにするのはティーカップだとちょっと無茶が過ぎると思いません?
雪ノ下は食器棚から赤・青・黄の各色を基調としたセットを取り出した。
「あなたたちと使おうと思っていたから」
そんな理由をぽつりと付け足して、俺の手にカップを押し付ける雪ノ下。背後にそろりと迫る由比ヶ浜には気付いていない様子。
「ゆきのん!」
「あっ、ちょっと……」
「えへへ、好きー」
「もう……」
まっこと仲の良いことで。あ、オーブンが鳴った。
「できたわね。由比ヶ浜さん、ちょっと離れて」
「うん。じゃあ、お皿並べるね」
「それくらい俺にやらせてくれ。俺今日ほんと何もしてねえんだから」
「別に気にしなくてもいいのだけど……じゃあ、お願いするわ」
「おう」
そうして、残り少ない今日を使って準備を終わらせる。料理を並べて飲み物を注いで蝋燭に火を付けて灯りを落としてクラッカーを構えて。全てを終え、雪ノ下を挟んで席に着いたのは本日が残り二分少々となってのことだった。……もしかしてここまで厳密に時間をコントロールしてたんだろうか雪ノ下は。人間業じゃねえぞ。
時間確認用にケーキの側に置いた腕時計が、蝋燭に照らされて残り一分を指し示す。由比ヶ浜は鼻歌でも歌いそうに上機嫌だ。雪ノ下は少し緊張しているように見えた。近付いてくる明日の時間に合わせて、紐を握った右手に力が篭もっていく。
五、四、三、二、一――
寸分の狂いなく揃った破裂音が広いリビングに鳴り響く。
「雪ノ下」
「ゆきのん」
『誕生日、おめでとう』
事前に示し合わせたわけでもないのに、由比ヶ浜と綺麗に声が重なった。つい目が合うとくすぐったそうに微笑まれて、雪ノ下の方に視線が逃げる。
雪ノ下は、目を閉じて両手を胸の前で重ね、噛みしめるように柔らかな微笑みを湛えていた。
「……ありがとう」
目を開けて手を解き、囁くように。
「あなたたちに祝ってもらえて、本当に、本当に、嬉しいわ」
雪ノ下は感謝を綴った。
「ゆきのん……!」
由比ヶ浜が当然のように抱きつく。そうだよね我慢できるわけないよね。でも俺の右腕も巻き込んじゃってるの柔らかいの気付いて。
「ヒッキーも!」
え、何。なんか促されてるけど何。気付いてるの?
「ん!」
由比ヶ浜は抱きしめた雪ノ下の身体をぽんぽんと優しく叩く。俺の腕ごと。だから何よ?
「ぎゅってするの!」
…………………………………………。
あっ、今頭真っ白になってたわ俺。何言ってんのこの子?
「おい、由比ヶ浜。俺は男なんだぞ」
「知ってるよ。当たり前じゃん」
「そうかもしかしたら忘れられてるのかと思ったよ。で、お前らは女だ」
「だから知ってるよ」
「じゃあお前、その、軽々しく、男に抱きつけとか」
「軽くないよ」
「……へ?」
思わぬところで反論がかかり、間抜けな声が口から漏れる。
「だから、軽くないよ。あたしとヒッキーとゆきのんじゃないと、絶対こんなこと言わないし、言えないよ」
「…………」
「それとも、ヒッキーはあたしがそういうこと簡単に言っちゃうって思う?」
「いや……」
違う。俺はそうでないことを知っている。二年も側で見てきたのだ。
「思わない。悪かった、知ってたのにな」
「いいよ。だからほら、ぎゅって!」
「いや、だからそれは……雪ノ下だって」
まで口に出したところで、雪ノ下がだんまりを決め込んでいたことに気づく。やめなさい、の一言くらいあっておかしくないはずなんだが。
雪ノ下は少し俯いて、耳まで赤くしながら横目で俺と由比ヶ浜のやり取りを窺っていた。話の矛先が自分に向いたからか、口を開く。
「あ……その……」
二人分の視線が集中して、雪ノ下が更に縮こまる。それを見た由比ヶ浜が抱きつく力が強まったことが右腕から伝わる。
「わた、私は、いい……わ」
字面だけ取ってみれば肯定否定も不明瞭なのに、その態度と声音が強烈に伝えてくれる。え、マジで? なんか雪ノ下の向こうで由比ヶ浜が得意顔してるのがちょっと悔しい。
「え……と……じゃあ……」
右腕を拘束から外し、左腕を持ち上げ、座った状態からおずおずと上半身を傾けて二人に近づく俺マジ不審者。あれ、抱きしめるってどうやればいいの? つーかくっついてるから雪ノ下だけ抱きしめようとしたらガハマさんとゆきのんの間に手を通さなきゃいけないし、そしたらその、ガハマさんの前面の部分に手がその、無理。え、でも由比ヶ浜も一緒に抱きしめるってそれいいの? ぎゅってするのってあれ雪ノ下のことだよね? なんか勝手に拡大解釈して抱きつくって気持ち悪くない? ……いや、違う。由比ヶ浜はそんなことを思わない。いみじくもさっき俺が言ったではないか。そう、知っているのだ。だからこれは俺の不実。由比ヶ浜に理由を仮託して逃げているだけの、欺瞞だ。
「ヒッキー」
そんなことをぐるぐる考えて不審者ポーズのまま硬直していた俺の手を、由比ヶ浜が引いてくれる。
「怖がらなくても、大丈夫だよ」
雪ノ下越しに由比ヶ浜の背中まで俺の両腕を導き、由比ヶ浜は再び雪ノ下に抱きついた。雪ノ下を挟んで由比ヶ浜ごと二人を俺が抱きしめる格好だ。
「ね。ぎゅってして」
全く。
「…………おう」
敵わない。
壊れ物を扱うように、腕にそっと力を込める。柔らかさが触れたところから触れた分だけ返ってくる。それにこの二人、ほんといい匂いするの。俺と同じ人類だと思えないレベル。
「ひ、比企谷くん」
呼ばれて、腕がびくんと硬直する。あっれ、なんかマズった!? 細心の注意を払って抱き……やった、つもりなんだけど。赤面した雪ノ下は、辿々しく言葉を繋ぐ。
「その……もっと強くしても……いいから」
「……………………お、う」
「ヒッキー」
雪ノ下を挟んで向かい合う由比ヶ浜の目が、溢れるほどの慈しみを湛えている。それがあどけない顔立ちの由比ヶ浜を驚くほどに大人びて見せて、胸を酷く高鳴らせた。
由比ヶ浜はするりと上半身を滑らせて、雪ノ下と向かい合うように正面に回り込む。雪ノ下はそれに合わせて由比ヶ浜側に足を崩し、二人揃って俺の胸にしなだれかかってきた。雪ノ下を正面から抱きしめる由比ヶ浜ごと、俺が横から抱いている格好だ。
「……これで、ぎゅー、ってしやすくなったかな?」
どう答えりゃいいんだこんなもん。
「ね、ヒッキー」
泳いだ俺の目を二人の流し目が縫い止める。
「あたしとゆきのんがくっついて溶けちゃうくらいに」
雪ノ下は小さく開いた口から熱い息を吐き。由比ヶ浜は優しく微笑み言葉を継ぎ。
「思いっきり、抱きしめてよ」
俺の躊躇というタガを、そっと外した。
両の腕に少しずつ力が篭もる。
「あ」
「あぁ……」
由比ヶ浜の嬉しそうに弾む声が、雪ノ下の沁みるように漏れる息づかいが、二人を抱きしめる力に転化する。
「もっと……」
「ん……」
いつの間にか、雪ノ下の両腕も由比ヶ浜に巻き付いていた。不器用に強張った力の込め方は酷く雪ノ下らしく、そうして抱き合う二人がとても愛おしく思えた。
「は……ぁ……」
「ふ……ぅ……」
そうだ。愛おしいのだ。分不相応にも、こんなにも素敵な二人をどうしても手放したくなく感じてしまう。俺、ごときが。
苦しそうに、されど目を閉じて嬉しそうな微笑を浮かべて吐く二人の甘い吐息が脳を灼く。至近にある横顔が僅かな変化を浮かべるたび、その一つ一つを淀んだ瞳に焼き付けていく。
「雪ノ下……由比ヶ浜……」
「ひっ……きぃ……ゆき……のん……」
「ひきがや……くんっ……ゆいが、はま……さん……」
三人で、固く、固く、抱き合う。二人への愛おしさが際限なく膨れ上がる。
本当に、溶けて混ざり合って一つになってしまえれば。
もしかしたらこの悩みも消えてなくなってくれるのだろうか。