走る。ただひたすらにがむしゃらに。
どうしようもなく駆り立てられてしまったこの気持ちをどう抑えつけるのか、千空は知らなかった。
走る。仲間の呼び声など聞かず一心に。
会いたい。その想いだけが己の足を動かした。
いまだに重い身体ではいつもよりもスピードは出ず、足はもつれる。だけれども歩みを止めてしまえば、会いたいその人と会うことなどできやしない。
走る。喉の奥が渇き、鉄の味が滲み出る。肺に通常以上の酸素が巡っているのが嫌でもわかった。あれだけ体力作りをしてもなお、自分の体が思うように動かないその苦痛に思わず顔が歪んだ。
走る走る走る。
声を聞きたくて、その意味を問いたくて。
ラボから住宅地へ、そしてそこから山へ向けてただただ走り、そうしてようやく辿りついたのがいつぞやのツリーハウス。手入れはされてはいるが、かれこれ十年は経っているせいか若干の痛みは見て取れた。それでもお構いなしに木へ登り中へ入れば、そこには──。
「……ったく! いねぇじゃ、ねぇかっ!」
はぁはぁと息を吐きゴロンと寝転び呼吸を整える。よくよく考えてみればこちらの方向へ行ったと言われただけで、ここにいるとは言われていない。自分の早とちりだったのかと頭を抱えた千空だったが、どうしたのと小さな声がかけられた。
「なにか、あったの?」
ぴょこんと入り口から顔を出したのは探し人の茉莉だった。彼女は確かにそこにはいたのだが、千空の視界に入らない場所でぼんやりと空を眺めていただけ。足音を聞きつけ戻ってみればツリーハウスへよじ登る千空の姿を見つけた故に、声をかけたのである。
よじよじと木を登りツリーハウスへと入ると、寝転んだ千空の顔を覗き込む。少しあからんだその顔に若干の不安を抱きながら、もう一度何かあったのと問うた。
「なんか、よくないことでも起きた?」
眉を八の字に下げた茉莉の表情を数秒見つめた千空であったが、むくりと体を起こすとその顔を両の手で挟み込み深々とため息を吐く。その行動に困惑する茉莉であったが、千空は先ほどまでの焦りがどこかへと消えていった気がしていた。
顔を見て声を聞いた。ただそれだけだというのに、ストンと何かがハマったような、足りない一ピースがようやく揃ったような満ち足りた気持ちになってしまったのだ。
「──センクウ?」
「……てめぇは」
「ん?」
「テメェは、んであんな分かりにくいことしやがるっ!」
ムギュリと頬をつまみ、自分のことを棚に上げて茉莉へ問い詰める。預けたのが未来じゃなかったら、意味の知らない他の誰かだったら。きっと千空はそこに辿り着くまでに時間を要しただろう。答えを知らずに、返事をもらえなかったもの悶々とした気持ちを抱いて日々を過ごしていたに違いない。
「もっと違う伝え方があんだろうが!」
それこそ言葉で、とか。
一言伝えてくれればそれでよかったと思うのは我儘なのだろうか?
茉莉は千空の言葉の意味に悩むそぶりを見せ、徐々にそれがどれのことを言っているのかを理解する。するとぎゅっと眉間に皺を寄せて、千空にだけは言われたくないと目を逸らしたのである。
「──意味なんてそんなの、受け取る人次第じゃん」
「テメェはなぁ!」
「別に、深い意味なんてないし。ただ、贈りたかっただけだし」
語尾を窄めながら俯く茉莉の顔を持ち上げて、千空は本当に意味がないのかと口調を強めて問う。彼女は目を合わせることはなく、ごにょごにょと口ごもりながら話すだけでほしい返答が返ってくることはない。
深い意味がないなんて嘘だろう。あれほど意味深な花束を作っておいてそれはない。そんな思いと同時に、脳内ではゼノが言っていた言葉がリフレインする。
すれ違いたいだけだとか、素直に言ってしまえばいいだとか。もうそれが本当なのならば、同じ想いを抱いてると考えてもいいのだろうかと。
一瞬口を開き、そして閉じ。目の前で視線を左右に揺らしている茉莉を一度眺めて千空は息を吸い込んだ。
そして、その言葉を吐き出した。きっと言葉にしないことには伝わることはないのだと、自身を律して思いの丈をぶちまけた。
「俺はな茉莉、テメェに心底惚れてんだ。恋だの愛だのはしらねぇが、テメェの側にいたいし守りたい。だからソレをテメェにやったんだ。で、おめぇはどうなんだよ」
「ふぁっ⁉︎」
思ってもよらないことを伝えられてしまった茉莉は目を見開いて驚き、そして挙動不審に陥った。視線はぐるぐる忙しなく動き回るし、鯉の如く口はパクパクと作動する。へ、あ、と言葉にならない声が漏れては消えていく。
もう一度千空が頬をつまみ茉莉と名前を呼ぶとピタリとそれは止まったが、一向に返事がもらえることはない。
「おい、いつまで止まってんだテメェはよ」
「あ、ん? あー、んん?」
「しゃべれってんだよ」
「へぁ?」
「だから、俺はテメェが好きだってつってんだよ!」
「んんー?」
心底理解できません。
そんな顔をした茉莉に千空の苛立ちは積もっていく。何故そこまでにその想いを理解しないのかと、返事をくれないのかと。何が足りないものがあるのかと思考して、コツンとおでこを合わせてその見開かれた瞳を覗き込む。夜空のような紺色の瞳には自分がちゃんと映り込んでいるのに、どうして彼女へと想いが伝わらないのか千空には理解しようがない。
茉莉は茉莉で如何してそんなことを言うのかと脳はすでにパニック状態で、目の前にいる千空のことなんて気が回ることもなく。少しずつその意味を咀嚼し理解していく。
惚れてるとは何と脳内の誰かに尋ねて、千空がいっていたソレが何を指しているのかを考えて。好きとは何かと、千空の言葉の意味を思考し、そしてそれを理解していくとポポポと体が熱くなった。
もしかしてそうなのかもしれない、とは考えなかったわけではない。けれどこんなに早く言葉にされるなんて思ってやしなかった。花束の意味だって、きっと千空は知らないはずなのに。
だというのに、今目の前にいるその人は、全てを理解した上で想いを告げてきたのだと。
ドクドクと早まる鼓動と熱を帯びてて赤く染まる首筋や耳。
ぱちくりと瞬きを必要以上にしていると言うのに、心なしか目が潤む。
少しずつ変化し始めた茉莉の体温を感じ取った千空は、ようやくかと深く息を吐いた。
「茉莉」
名前を呼べば、びくりと肩が跳ねて潤んだ瞳と視線が交わった。
「俺はテメェが好きだ。お前はどうなんだ」
「──っ、私は、その。センクウは、センクウで、センクウだから、その、センクウはみんなので、センクウだから」
「おいこら、俺がゲシュタルト崩壊してんじゃねぇか。好きかどうかで言いやがれまどろっこしい」
「え、えと、えー、だって、えぇー……」
ズビっと、茉莉が鼻を啜る音がした。
じわじわと目尻に涙が出て溜まり、パチリと瞬きをすればつぅっと頬をつたる。一度溢れ出てしまえばそれは止まることはなく、次から次へと涙は流れ出てしまう。
「──俺の事、好きじゃねぇのかよ」
「ング──ス、キィ、ダケドォ」
少し眉を下げて問いかけてみれば、グシャリと顔を歪めた茉莉は下唇を噛み締めながら観念したかのようにそう呟いた。
好きです。私も。なんて簡単にできる関係であったのならば、こうも拗れていない。互いに負い目を感じ、存在そのものを避けて通ってきた二人だからこそ当たり前の意思疎通が難しくなる。
千空からしてみれば長年無視し続けてきたその感情に、その姿に。茉莉からしてみれば世界のためにと、自分のためにと目を背けてきた現実に向き合わなければ言葉にすらできない。
たった二文字でさえも、二人にとってはこんなにも重い言葉でしかなかったのである。
言ってしまえば気は楽になる、伝えてしまえば手を取れる。人類の危機が過ぎ去った今だからこそ、千空にとっても茉莉にとっても特別な意味を持つその言葉。
千空が覚悟を決めてその言葉を伝えたとしても、茉莉の中ではそれは違うのではと秘めたる想いがあるもまた事実でしかない。
「スキダケド、ソウジャナクテ」
「じゃあなんなんだ」
「ヒグゥ、だって、センクウはみんなのセンクウだもん」
「あ"?」
「ヒ、私なんかが独り占め、できない、ジャンっ」、
ぐにゃりと表情を歪み、茉莉はまたズビズビと鼻を啜った。
茉莉はここに生まれてくる前の記憶が故に、誰かを好きになった事がないわけではない。それなりの恋愛経験も積んではいる。けれどもこんなにも重く切なく、苦しい想いをしたのは初めてのことなのだ。誰かを好きになることは良いことでしかなかった前と違い、ありのままの千空を好きになるというのは今までの自分の考えと想いを振り切らなければならない。千空がみんなを大好きなように、みんなが千空を大好きであることを容認しなければならない。千空が幸せならばそれで良いのだと、湧き出てきそうな暗い想いに固く蓋をしなければ。博愛の精神でいなければ、きっと隣にいられない。だって独り占めなどできやしないのだから。それが茉莉が恋して愛した石神千空という人間なのだから。
茉莉だってただの人間で女でしかない。口では千空の幸せが一番と言っていても、手を取り愛されてしまえば自分を優先して欲しくなるに決まっている。そんなことを科学の申し子である千空に、人類大好きな千空に押し付けられるものか。
ならばいっそのこと、今の関係でいた方がずっと楽に生きていけるはずなのだ。だかこそ、この想いは届かないままでいて欲しかった。
「好きだけど、そんな、綺麗な想いじゃ、ないんだってばぁ」
あんなものを捧げておいて今更だと言われそうだが、秘めたる思いを暴かないて欲しかった、知らないままでいて欲しかった。純粋に千空を幸せを望んでいるだけの人でいさせて欲しかった。
でももうそうは言ってられない。千空のその想いを知ってしまった以上、綺麗なままの感情のまま生きていけないだろう。
固く閉ざされていた想いは溢れ出し、そして今もなお沸々と湧き上がるその感情の止め方を茉莉は知らない。
千空の想いなど知らないままでいたかったと、そう呟きポロポロと茉莉は涙を流すだけ。
そしてその一方でその男、千空は茉莉の泣き顔を眺めながらゾワリと体を震わせた。独り占めしたいと嘆く彼女の言葉に歓喜し、ドパドパと分泌されるその物質のせいで心拍数が上がったのがよくわかる。そんな綺麗な想いじゃないのだと首を振る茉莉に対して愛おしさが増し、同時に手放せるわけがないのだと再認識する。
千空とて何が綺麗な想いなのかはわからない。百夜のように無条件の愛を注ぐのが綺麗な愛なのか、大樹や杠のように互い尊重し合う愛のことを言うのか。はたまたクロムとルリのように想い合うのが美しい愛だというのか。
確かにそんな思いは綺麗なのだろう、美しいのだろう。キラキラと世界が光って見えるほどの澄んだ愛だ。
でもそれがなんだ。茉莉のように独占したい愛だってあるに違いない。そしてそれは己の示す愛の形と同じなのだから、それが悪い事だとは思えない。
「──テメェだけじゃねぇんだよ」
「ん、んぇ?」
「俺だって茉莉をお前を、独り占めしてぇ。泣くのも俺の前だけでいい、こうやって本音で話すのも俺の前だけにすればいい。他の奴らになんて、こんなお前の姿を見せたくねぇ」
ボロボロと鼻水まで出して泣く情けない姿が好きだった。それを見せてくれるのは自分だけだとわかっていたから。
少しずつ蟠りがあった仲間と打ち解ける姿を眺め、僅かながらに不満すら感じていた。誰かを頼るならば自分を頼れと、弱い姿を見せるのならば俺のもとにこいと。弱音を吐く茉莉の姿など誰にも見せずにしまっておきたくて、『頼れる茉莉』と言う作られた像を少しずつ壊していく彼女に対しても苛立ちもした。たとえそれが茉莉にとって良い傾向だったとしても、その弱さを知っているのは自分だけでありたかった。
「好きに綺麗だとか、んなのはねェだろ。あったとしても、テメェと俺は同じ想いを持ってんだ、それの何が悪ぃ。そばに居たい独り占めしてたい、そんなの当たり前だろうが。なんでテメェだけだと思ってんだよアホ」
「だ、だって、センクウは、みんなの──」
「ちげぇ、みんなのじゃねェ。テメェのなんだよ全部。茉莉、お前が俺に全部くれんなら、俺も全部やる。そうすりゃ満足か?」
「ぅえ?」
「俺が幸せならいいっつってんの地理学者に聞いてんだよこっちはよ。なら、俺が幸せになるためにテメェの全部をよこせ。一生側にいやがれ、離れるな。テメェが俺を幸せにしろよ」
そういって、千空は茉莉の涙を拭う。いまだにポロポロと流れ出る涙と、煌めいた瞳に映る自分の姿にどうしようもない気持ちになる。
こんなにも側にいるのに想うことすら許してくれないこの馬鹿をどうするか、なんて考えて。もう一度、囁くかのように祈るかのように願った。
「──茉莉が幸せにしてくれ」
目が見開かれ溢れそうになる瞳と、ぎゅっとさらに強く閉ざされた唇。
ゆっくりと瞬きをした茉莉はまたその瞳に千空を映して、安堵の笑みを浮かべた。
奇しくもそこに言葉はなく、でもその笑みに否定の意思もない。少なくとも千空は自身の想いが受け入れられたのだと許されたのだと感じ、衝動的に彼女の唇を喰んだ。
三十六度あまりのその熱に、脳が溶かされそうになったとは生涯誰にも知られたくない秘密である。
おかしい、もっとキュンキュンする告白だったのに。ただ重い女になっちまった茉莉ちゃんとそれを喜んじゃうパイセンしかいない。純情どこにいったの?返して?
それはさておき。アンケの結果27巻の内容も地続きでこっちで更新してきます。ただ内容が数年飛んだりする話なので、そこんところはご了承ください。合間の話は番外編で書く予定。
んで、予定ならばあと二話程度で26巻終わります。つまりはほぼ完結だとお思いくださいませー。