雪が降る擬音語を、どうして『しんしん』と表現するのだろうか。そんな音は、きっと誰ひとりとして聞いたことがだろうに。
ここまでずっと休みなく動かしていた『手』を止め、少女はうすぼんやりと、そんなことを考えた。
後方で飛び交っていた自身を探す声は、もう少しも聞こえない。実際にはたいした距離でもないのかもしれないが、ここが何処か遠く――それこそ違った世界にでも来てしまったかのような感覚をおぼえた。
「……さむ」
同じ色が降り注ぐ中、逆らって昇っていく白い息を眺めて彼女は身を震わせる。
合わせて、古びた車椅子がギシリと音を立てた。
少女は、近くの病院で入院をしている患者だった。
この世に生を受けてからおよそ十数年。何の不自由もなく暮らしてきた彼女は、ほんの一ヶ月ほど前、満足に歩くこともままならない身体となった。お医者様の難しい話は彼女にはよく理解できなかったが、とにかく後天的な病気であるらしい。
歩く。毎日気付かないうちにしていて、改めてやり方を説明することもできないような基本的な動作。そんな当たり前を失って、しかし周囲はそのままで、なんだか彼女は自分がニンゲンでなくなってしまったかのような気がしてならなかった。
とはいっても、歩ける希望が完全になくなったわけではない。曰く、手術が上手くいけば再び足が動く可能性はあるとのこと。しかし同時に、それが――医療ミスだとかそういった話ではなく――効果の確約されたものではないということも、彼女は聴かされていた。
どのみち動かないのであれば、僅かな望みに懸けて手術を受けた方が良い。そんな論理的な正解を胸に抱えたまま、気がつけば一月が経った。
緩やかに、しかし確かに細くなっていく足。
学友や、そして家族からさえもされる腫れ物扱い。
そんな諸々に嫌気がさし、看護師の目をかいくぐって病院をとび出したのがつい先程。
胸のモヤモヤがこの雪景色のようにまっさらになってはくれないだろうか。そんなことを思って、彼女は特に目的もなく病院の裏にあった竹林をさまよった。もっとも、その願いはちっとも聞き届けられていないようだが。
「あー、つら……」
誰と話す時も、ずっと苦笑いの裏に隠してきた本音を静かにこぼす。
この気温での外出はきっと病気の身体にはよくないだろう。それくらいは彼女にもなんとなく理解できたが、かといってすぐに病院へ戻る気にもならない。
(だって、めちゃ怖くない……?)
病院側は、毎日のように少女へ手術を受けるか問うた。それが彼らの仕事だから、仕方のないことだ。
しかし彼女は、その答えをずっと曖昧に濁してきた。一歩踏み出して、その上で絶望を突き付けられるくらいなら、儚い希望をずっと手元に置いておきたかった。
「――、――!」
(……ん?)
思考が悪い方へ傾いて、ドツボにはまってしまいそうになったその時、少女の耳が微かな声を捉えた。
初め、自分を探しに来た職員のものかと考えた彼女だったが、よく聞いてみるとそれは幼い少年のもので、少し先から発せられているようだった。
車輪の跡を残しゆっくりと近づいた彼女は、近くにあった岩の陰から顔を出して、そっと様子を窺ってみる。
「見つけた! おーい、大丈夫?」
果たして、そこにいたのは小さな男の子だった。ランドセルを背負っているところから、小学生なのだろう。
少女はしばらく観察を続ける。
彼は手が冷えることも顧みず、懸命に雪を掘り進めていた。そして、その先に見つけたらしい何かへ呼び掛けている。距離の問題で彼女には詳しくはわからなかったが、それはどうにも植物のように見えた。
「ふきのとうさーん、聞こえる? まだ寝てる?」
植物に話しかけるなんて、少し変わった子なのかな。そんな思いで様子を見ていた少女は、少年のその一言でふと思い出した。あぁ、そういえばそんなお話を国語の教科書で見たっけ、と。
初めはどうするつもりもなかった少女だが、次第に、されるはずのない返事を期待して話し続ける彼が気の毒に思えてきたのが原因だろうか。
「やぁ、初めまして。少年」
気付けば、彼女はそんな言葉を口にしていた。
「っ! は、はじめまして……」
突然の出来事に肩を跳ねさせて、少年はおそるおそる挨拶を返す。その声は明らかに別の方向からのものであったが、そんなことを気にする余裕はない。彼は、自分が話しているのが目の前の植物だと信じ切っていた。
「ところでキミは、なんだって私のことを掘り起こしたりしたんだい?」
「えっと、今日の授業でふきのとうさんが雪が重くて困ってるってならって、助けなきゃ、と思って……」
「なるほどね、それはどうもありがとう」
「ううん! 困ってる人は助けないとって、先生にならったから!」
ふきのとうは人じゃないけどね、なんて無粋なことは言わない。理屈だって数段飛躍しているが、小学生であることを考慮すれば年相応の行動とも取れる。
最初はビクビクしていた少年も、しばらく話せば緊張も解けてきたらしく、本来のものなのだろう快活な口調へと戻っていった。
「きょう学校でね――」
「へぇ、それはよかったね」
日常にあった小さな幸せの話をしたり、
「キミは大きいね」
「うん、僕は人間だもん。そこは仕方ないよ」
「まぁ、歳は私の方がうんと上だけど」
「そうなの!?」
驚く顔を見て小さく笑ったり、
「そういえば、他のふきのとうさんとはお話しできないのかな?」
「あー……そうだね、友達のみんなはまだ眠っているみたいだ」
話を合わせるのにちょびっと苦労をしたり。
生産性も何もあったものではない、他愛のない話の数々。しかしそれが、冷え切ってしまっていた彼女には、じんわりと沁みた。
「あっ、もうそろそろ帰らなきゃ」
話の途中、街の方から響いてきた鐘の音に反応して、少年がそう告げた。彼女の覚えている限り、それは特定の時刻になると毎日鳴らされているもの。あまり意識したことがなかったために定かではないが、おおよそ五時か六時だったはずだ。
「そうかい、今日は楽しかったよ。ばいばい少年」
「うん、僕も楽しかった! ばいばい、ふきのとうさん!」
名残惜し気に別れを告げると、少年は元気いっぱいなまま遠くへ走り去ってゆく。彼の向かう先にはきっと、帰るべき楽しい日常が待っているのだろう。
「……私もかーえろ」
そう呟いて、彼女は車輪に手を掛ける。その胸の内は、いくぶん晴れやかになっている気がした。
次の日、少女はまた昨日と同じ場所へとやって来ていた。
少年は『ばいばい』としか言っていなかったし、二人で約束を交わした訳でもない。彼が今日もここへ来る保証などないし、むしろ来ない可能性の方がずっと高い。だというのに、だ。
岩陰に隠れて、来るかもわからない存在を彼女はただ待つ。 十分、二十分、そして三十分もが経とうというその時――
「わっ、こんなにつもっちゃってるよ」
舌っ足らずな声が、聞こえる。一日の間にかぶった雪を払うその仕草に、少女は思わず笑みを浮かべた。
「こんにちは、少年」
「あ、ふきのとうさん。こんにちは!」
元気な挨拶。
そこからの流れは、一日前と同じ。鐘の音が響くまで、二人はずっと話を続けた。
その次の日も、そのまた次の日も、少年はそこへやってきた。
初めの方は少年に合わせ、植物としての受け答えをしていた彼女も、いつしかそんな意識はなくなり、ここ最近はすっかり『ふきのとう』という名の少女として話をするようになっていた。
もはや彼女の中で、彼は最も気を許せる人物であった。
「へー、大変だね、ふきのとうさん」
「あぁ、頭では分かってるんだけどね。やっぱり怖いものは怖いよ」
それこそ、決してするつもりのなかった自分の身の上話をしてしまうほどに。もちろん、詳細に今の境遇を話すことはない。それは、小学生に聞かせる内容としては、あまりに不適切だ。
本当ならおおまかにですら伝えるべきではない、そう思ってはいるのに少女は話してしまった。
それは、ずっと一人で抱えてきた感情を誰かに知ってもらいたいという願いからか。
「僕は……ふきのとうさんなら、きっと大丈夫だと思う!」
或いは、自分の背中を押してくれるそんな言葉を、少女は無意識に求めていたのかもしれない。
「……ふふ。もう、なにそれ。無責任だなぁ」
「えー、だってホントにそう思ったんだもん!」
まるで根拠のない、見方によれば適当だとも取れる言葉。しかしそれが、彼女の心には重く、重く響いて、なんだかうじうじと悩んでいた昨日までの自分がバカらしくすら感じられた。
「あっ」
今日もまた、鐘が鳴る。
「ばいばい、ふきのとうさん!」
「ばいばい、少年。それから……うん、ありがとう」
「……? どういたしまして!」
それが一体なにに対するお礼なのかはわからなかったが、少年は元気よくそう言う。
そして次の日、彼がいつもの場所へやってくると――ふきのとうの姿はそこになかった。
「……えっ?」
場所を間違えてしまっただろうか。そう考えて何度も周囲を確認したが、少年が立っているのは間違いなく昨日までと同じ場所。
雪の所為ですぐには気付けなかったが、少年がよく見てみると、ふきのとうが生えていた場所はごっそりと周囲の土ごと抉られてしまっていた。
「ふきのとうさーん?」
普通ならば、その様相からはよくない結果を連想するのだろう。だが、いまだ幼い彼の頭は、ふきのとうが何処か違う場所に移動したのだと判断した。
名前を呼びながら、竹林の中をさまよう。しかし結局、鐘の音がなるまでふきのとうが見つかることはなかった。
次の日、見つからない。
次の日、見つからない。
そして次の日、ふきのとうが姿を消してから四日目。
今日もふきのとうを探そうと、いつもどおり例の場所へやってきた少年は、そこで『いつもどおりでない』事態に直面する。
ポツリと、一人の少女が立っていた。ここ数日で何度もここへやってきている彼だが、他の『人』に遭遇するのはこれが初めてだった。
少年に背を向け立つ彼女、よくよく見てみればその位置はふきのとうが生えていた所とピッタリ同じ。
「ふき、のとう……さん?」
どうしてそう口にしたのか、その理由は少年自身にさえわからない。ただ、何の証拠もないはずなのに、彼には彼女がそうなのだという確信があった。
声に反応して、少女がゆっくりと後ろへ振り向く。そして、その視界に少年のことを認めると、挨拶も何もをすっとばして、こう告げた。
「キミがあんまりにも話しかけてくるものだから……ふふ、私ってば人間になってしまったようだよ」
にっこりと微笑む彼女の腕の中には、見覚えのある植物が植えられた鉢植えの姿。
少年は、喜びを纏って飛びつく。
「ふきのとうさん!」
雪はしんしんと降り、まだまだ雪の真っただ中のはずなのに、二人がいる場所だけは――もう、すっかり春であった。
よく考えればonではないとか、立てるようになるのが早すぎるとか、細かいことは気にしない!