「ここに一つ、クッキーがあります。これをあなたにあげましょう」
ある日の夕暮れ。既に人気の少なくなった校舎を背後に、一組の男女が帰路をなぞっていた。
二人は同じ部に所属するという者同士であり、少年は中学一年生、少女の方が高校三年生だ。そんな、中高一貫校でしかありえない、歳の大きく離れた二人だが、その関係は意外にも良好なものだった。少なくとも、こうして部活が終わった後の時間も共にする程度には。
毒にも薬にもならないような話を延々と続けていた最中、ふと、少女は思い出したかのように時計を確認すると、ホッと息を吐いて、ポケットから取り出したクッキーを少年へ差し出した。
「……? はぁ、ありがとうございます」
「ちなみに、消費期限はまだ切れてないよ!」
一方、何の脈絡もない行動を突然取られた少年は、気の抜けた返事をするしかできない。
このような少女の突拍子もない言動は、もはや彼の中ではおかしくもないこととなりつつあった。が、それと納得がいくかどうかは全くの別問題であり、少年は首を傾げる。何か仕掛けでもしてあるのか、とよく観察をしてみても、手の内のそれは、ただただ変哲のない袋入りのクッキーとして在るだけ。
その様子を見て何やら勘違いをしたのか、少女が小さな声でこう尋ねた。
「あれ、もしかしてクッキー嫌いだった?」
「いえ、クッキー自体は無難に好きなんですが……。その、先輩が変な行動する時って、大抵が碌でもないことなので、つい警戒を……」
「あっ、ひどーい!」
「ひどくないです! 日頃の行いです!」
「……えー、ここで残念なお知らせです。なんと、私たちがくだらない会話をしている間に、そのクッキーの消費期限は切れてしまいました!」
遠慮がちなものから、ふくれ顔を経て、邪気のない笑みへ。表情の三段変化をしてみせた彼女は、その最後にそんなことをのたまった。
一瞬、理解が追い付かずに呆けてしまった少年だったが、言葉の意味を理解し、袋の裏側と携帯を見比べてみる。すると彼女の言う通り、そこに記されている日時は現時刻からちょうど一分前のものであった。
きっと彼女は、このいたずらをするタイミングをずっと見計らっていたのだろう。学校を出た時からずっと、どこかそわそわした空気を少年は感じるような気がしていたのだが、それは気のせいではなかったようだ。
「まったく……。本当なら突き返したいところですが、一度は受け取ったものですからね。このクッキーは僕の方で処分しておきます」
「えー、食べてくれないの?」
「当たり前です! 何のための消費期限だと思ってるんですか」
「ぶーぶー」
強い語気で言い咎められたにもかかわらず、少女の顔は暗いものではない。むしろ、口から出ている文句とは裏腹に、笑顔とさえ表現できるほどだ。
彼女は、少年のこのようなある種の無礼さ――最高学年であるが故に、周囲が自分に遠慮をして押し黙ってしまうような状況でも、躊躇わずに口を出してくれる、そんな真摯な態度をとても気に入っていた。
きっと、彼自身は想像もしていないことであろうが。
「にしても、不思議だよねぇ。期限が切れた瞬間に『はい、腐った!』ってなるわけでもないでしょ? ほんの数秒前まで大丈夫だったんだから期限前も同然だと思うんだけど、何で食べたらダメなのかな?」
「期限はあくまで目安ですからね。期限が切れてすぐの食べ物は、切れる直前の物とほとんど同じです。でも逆に考えると、期限を過ぎていなければ絶対に安全なわけではないということなんですよ?」
「ほぇー、そうなんだねー」
「というか、先輩!」
生返事をする少女に、彼は視線をキッと鋭くする。その目には、はっきりとした怒りの念が滲んでいた。
曰く、本当ならこのクッキーが期限が切れる前に食べられたのではないか、いたずらをするのは構わないが食べ物を粗末にしてはいけない、など。
次々に飛び出してくる批難はどれも、口応えのできないような正論ばかり。普段から、少年の言葉をのらりくらりとかわしてきた彼女であったが、今ばかりは素直に『ごめんなさい』をする他なかった。
「……ふふっ」
「む、なんですか先輩。急に笑ったりなんかして」
「いやぁ、キミってほんとに色んなことをズバズバ言うよね。私ってば、こんなでも結構な先輩なんだけどなー?」
「当然です! 例え相手が誰であっても、間違っていることには間違っていると、はっきりと言わなければなりません!」
それはきっと、彼の『生き様』というものなのだろう。
腰に手をやり堂々と宣言をする姿は、しかし、威厳だとか凄味だとか、そういったものが微塵も感じられない。
あるいは、あと数年もすればしっくりと似合うようにもなるかもしれないが、低い身長に幼さの抜けきらない今の容姿でそれをされたところで、少女はただかわいらしいと思うだけだった。
そんな感情が先行してだろうか。気がつけば彼女は、少年の頭に手を伸ばし、優しく撫でてやっていた。
「む、そうやって急に人の頭を撫でるのは失礼ですよ、先輩!」
「あぁ、ごめんごめん。なんかさ、ワンちゃんがすぐ近くにいたらつい撫でちゃったりするでしょ? そんな感じで気付いたらっていうか……」
「……例え話とはいえ、人を犬のように扱うのはどうかと思います!」
「あっははは、言うと思ったー!」
隣にいる少年が至極真面目なのだと頭では理解していても――いや、理解してしまっているからこそ、笑いを堪えることができない。
重箱の隅をつつくがごとき物言いに、少女はもはや、どこまで彼が同じ反応をしてくれるのかが気になり始めていた。
(まずは手始めに……)
「ねぇ。もし私がそのクッキーを食べるって言ったら、どうする?」
「それは……咎めます。確かに食べ物を粗末にしてはいけないとは言いましたが、先輩の身体の方が大切です! それを蔑ろにするのはもっとダメです!」
「お、おおぅ。ありがと……」
思わぬ角度からのカウンターパンチに少女は軽く面喰ってしまったが、ひとまず、これはまだまだ彼にとって『許せない』ラインの内であるらしい。
「じゃあね……今日は帰っても宿題やらないって言ったら?」
「当然、咎めます! 宿題をするのは自分の為なんですから、後で困るのは先輩自身なんですよ?」
少しスケールを小さくしてみたが、まだ少女は叱られてしまう。
「んー、晩御飯の前に間食をしちゃうぞーってのは?」
「それは……どうでしょう。気持ちはわかりますし、夕食をきちんと残さずに食べるのなら、僕が口出しできることではないと思います」
(ありゃ)
ここいらが、少年の口出しする境目であったようだ。
この時点で、彼女の当初の思惑は達成されているのだが、この問答をここで終わらせてしまうのはもったいない、そう彼女は思った。
かといって次に投げる問いを用意しているわけでもなく、彼女はウンウンと頭を悩ませた。そして、そのまま数秒。突然なにかを思いついたようで、意地の悪い笑みで彼へこう問いかけた。
「もし私が、小学生に手を出そうとしてるって言ったら……どうする?」
「そ、そんなの咎めるにきまってます! 先輩は高校三年生で、来年から大学生なんですよ! 一体何を考えているんですか!?」
ここまでのものとは一線を画す、あまりにぶっ飛んだ質問に、少年は顔を真っ赤にしてぷりぷりと怒る。
しかし、そんな反応もどうやら想定の範疇だったようで、彼女は変わらず意地の悪い笑みのまま、間髪いれずに次の質問をした。
「じゃあ、ほんの少し前までは小学生だった、小学生も同然な子に手を出すのは……どう?」
「もちろん、それも咎め――っ!? 咎め……と、が……えっ、あの……?」
内容が一つ前と似ていたから。そんな判断で、彼は反射的に『咎める』と言おうとした。しかし、その途中で少女の言った意味が理解できてしまったようで、言葉尻がどんどんとすぼんでいく。
「……咎め、ません。えっと、その……とってもいいことだと思います……はい……」
俯きながらとても小さくそう口にする彼の顔は、数秒前と同じく、しかし今度はまったく違った理由から真っ赤になっていた。
「って、そこは咎めへんのかーい!」
しばらくはそんなかわいらしい様を堪能していた少女だったが、彼がいつまで経っても顔をあげないものであるから。満足を通り越して食傷気味になった辺りで、バシッと肩に一発、聞きかじりの関西弁と共にツッコミをお見舞いしてやった。
意識外からの衝撃によろけた少年は、視線の先にいた彼女の表情からまたも『碌でもないこと』をされたのだと理解し、眉を吊り上げて、こう言うのだった。
「先輩、急に人のことを叩いたらいけませんよ!」
少女の、望むとおりに。
期限切れのヤクルト見て思いついた話