部室の扉を開けるとそこには、想像していたものと寸分違わない光景が実際に広がっていて、少女は口元を綻ばせる。
「やぁ、少年。おはよう」
「あれ? 先輩じゃないですか、おはようございます」
セーラー服に身を包み、白のリボンカチューシャが眩しい。そんな女学生然とした姿から吐きだされた、やけに気取ったような挨拶が、少年の顔を上げさせる。その目は少し大きく見開かれており、何やら予想していなかったものでも見てしまったかのような表情だ。
「というか、『少年』ってなんですか。先輩そんな呼び方してませんでしたよね?」
「いいじゃないか、今日はたまたまそういう気分だったんだよ」
そんな指摘もどこ吹く風で、少女はカラカラと笑う。呼び方なんてものはきっと彼女には大したものではなくて、明日は名前で呼んでいるかもしれないし、『ワトソンくん』なんて可能性もあるだろう。
扉を閉め、カバンを置き、少女は空いていた席に適当に腰を下ろす。入ってきてすぐは先輩の少女へ意識を向けていた少年も、今は既に視線も外し、目の前にあるモノに集中していた。
「ところで君は、一体何をしているのかな?」
「……? 将棋、ですけど」
パチン、と。少年の手元で、駒が小気味のよい音を鳴らす。
そう返事をした際でもやはり、彼が顔を向けてくれることはなく、少女は顔に手をあてて溜め息を吐いた。
「はぁ。少年、知ってるかい? 将棋ってのは一人じゃできないんだぜ?」
辺りを見回してみれば、彼女の言う通りこの部室には他の人が誰もいない。つまり、彼は少女のここへやってくる前から、ずっと一人で孤独に将棋を指していたことになる。
「そりゃ対局はできませんけど、将棋自体はできないこともないですよ。学べることも色々ありますし」
そう言って、また一手。
不思議ではないだろうか。仮にもそういった部に属しているのなら、将棋を指しあう知り合いの一人や二人いるはず。そうでなくともこのご時世、インターネットなどを使えばどこでも対局をするくらいは容易だ。
だというのに、この少年がわざわざ一人二役で将棋に励んでいるのには、ある理由があった。
彼は将棋を始めておよそ一週間ほどの初心者である。ここ数日でようやくルールも完璧に理解し、戦法などにも明るくなってきたが、それでもなにぶん考える時間が長い。意識の大半はずっと将棋盤の方に割かれていたのにもかかわらず、少女が入室してからここまででほんの数手しか進んでいないのが、いい証拠だ。
ネットを介する将棋というのは往々にして制限時間が設けられているもので、なまじっか知識を持ってしまったが故に長考をしてしまってできない。ならば現実の知り合いとならどうかといえば、それはそれで相手方に悪いと、彼が遠慮をしてしまっていた。
つまりそう、彼は誰にも迷惑をかけずに力を着ける手段をして一人将棋をしているのであって、独り遊びが好きだとか、そういうわけでは断じてないのだ。
「まったく、休日の朝から将棋をしに部室へ来るなんて……キミはとんだ将棋バカだね」
少女が机にダラリと身を投げ出して、呆れた声を出す。これが、部室の中に二人以外の誰もいない、その理由だった。
この学校の将棋部は、部活動という規格の中では、比較的制限の緩い部類だった。活動は月曜から金曜の週五日を掲げているが、実態は出席を取ることもなく、来たい人だけが来ればよいという空気感。今日この部室が空いているのは、彼が個人的に顧問の先生に頼んで開けてもらっているからだった。
「……たぶん貶されてはいないと思いますけど。なんとなく嫌です、それ」
置き換えてしまえばそれは、ただ熱心だと言っているにすぎないのだろう。だが、いかんせん『バカ』という単語に付随マイナスイメージが強すぎた。
自分が一度何かにのめり込むと、没頭してしまう性質だというのは、少年も自覚するところだった。将棋というものに触れてからは、暇があれば戦略を考えているし、こうして休日に部室にもやってきている。さらに授業中などは、ノートの罫線を升目に見立てて将棋をすることもあった。駒が使えないが故、シャープペンと消しゴムをひっきりなしに動かしていた彼の姿は、周囲からはさぞ勉強に集中しているように見えたことだろう。
ひとしきり彼をからかったことで一旦は満足したのか、少女はしばらく、少年が一人でゆっくりと駒を指す様を眺めていた。
だがそれも、少しの間で飽きてしまったようで、少女はだらしのない体勢のまま少年に話しかけた。
「へーい、しょーねん。しゃるうぃーしょー?」
「……ちゃんと『ぎ』まで発音してくれないと何言ってるかわかりませんよ。あと、将棋は動詞じゃないです」
「ちゃんと理解できてるじゃないか。ならお返事をおくれよ」
「……遠慮しておきます。先輩に悪いですし」
「私に悪い、ねぇ……。えいっ」
執拗に誘いを持ちかけるが、少年はすげなく断るばかり。それがどうにもおもしろくなかった少女は、うんうんと唸っている彼の隙をついて、自分側に置いてあった持ち駒一つを持ち上げて、パチンと打った。
「あっ……」
それは少年のまだ考え至っていない手で、そして最善手であったのだろう。
こうまでしてようやく彼は、少女の方へ再び顔をあげるのだった。
「私が望んでいるから、対局を持ちかけてるんだ。キミが嫌だから、それ以外の理由で引く気はないよ」
真っ直ぐな視線が少年の瞳を射抜く。しばし何かを考えていた様子の彼だったが、やがて力なく『お手』を『上げ』る。その動作が示すのは、まさに字のごとくだ。
「はぁ、わかりました。やりましょう」
「おや、別にその対局が終わってからでよかったんだよ?」
「いいんです。もう終盤で、あそこまでいけばほとんど詰将棋みたいなものでしたから」
まだ途中だった盤面を崩し、初期配置に並べ直す。
本来将棋では先手後手を『振り駒』と呼ばれる駒を五枚つかったコイントスのようなもので決めるのだが、音がうるさい、駒がなくなるかもしれないなどの理由で、二人はじゃんけんを用いた。
勝負の結果、先手となった少年がまず『歩』を動かす。さすがの彼も、選択肢のそうない初めの一手には、それほどの時間はかけなかった。
「僕、ほんとに打つの遅いですからね。後悔しても知りませんよ?」
相手はそれをわかった上で相対してくれている。そう理解してはいても、やはり彼は保険をかけずにはいられない。
ここまでくどいと苛立つという人もいるだろうが、少女はその言葉を聞いて逆に笑みを深めた。どうやら、何かいいことでも思いついた様子だ。
「ならそうだ、一応の時間制限をつけようか。なに、安心してくれ。プロのやるような持ち時間何秒なんて、そんな堅いやつじゃないよ」
「……と、いいますと?」
「よくぞ訊いてくれた。制限時間は――」
迷いない動作で駒を摘まみ、彼女も初めの一手を終える。そして、対面する少年の顔をじっつ見つめてこう言った。
「キミが耐えられなくなるまで、だ」
「……?」
初め、少年には意味がわからなかった。どういう意味か、と尋ねてみるが、少女は適当にはぐらかすばかり。
ならば、と彼は無視をして次の一手について考え始める。そこで、ようやく先程の言葉の意味が理解できた。
「…………」
「ずっと思っていたんだが、キミはとてもかわいい顔をしているね」
「…………」
「お、よく見れば下まつ毛も結構生えているんだな。私はあまりなくてね、羨ましい限りだよ」
「……………………」
「唇もあまりカサついていないな。リップかなにかでケアもしているのかい?」
「…………あぁ、もう!」
まさに少女の言った通り。『耐えられなくなった』彼は、まだすべての可能性を考え切ったわけでもなかったが、急いで次の一手を打った。
「先輩、盤外戦術は反則ですよ!」
「おや、人聞きの悪い。私はただかわいい後輩のお顔を褒めていただけっていうのに」
さ、君の番だよ。ほとんどノータイムで二手目を打ってみせた少女は、実に晴れやかな笑顔でそう告げる。
結局、実質的に厳しい時間制限もあって、彼は惨敗を喫した。もっとも、単純な実力でも少女は彼の上を行くため、制限云々がなくとも勝敗がひっくり返ることはなかっただろうが。
「ははは! 私の勝ちだね、少年」
「……もう絶対、先輩とは将棋指さないです。誓いました……」
そんなやりとりをしているうちに、時刻はいつのまにか昼前になっていた。
キリがいい、そしてお腹が空いてきているということもあって、少年は今日はここで帰ろうと決めた。
駒と将棋盤を所定の位置に戻し、窓を閉め、カバンを肩に掛ける。
帰る準備が万端になったところで、ふと、少年はあることが気になって自らの先輩へと問いかけた。
「そういえば、先輩はどうして休日なのに部室に来たんですか?」
「私かい? 決まってるだろう。もちろん、将棋をするためさ」
「なんだ、先輩も結局は将棋バカなんじゃないですか」
少し前に彼女自身が吐いた言葉に則れば、休日の朝から部室に将棋をしにくるやつは『将棋バカ』である。少年としては軽い意趣返しをしたつもりだったのだが、それに対して彼女は、今日を通して一番の大きさの溜め息を吐くのだった。
「……そういうところに気付かないから、キミは『バカ』なんだよ」
「頭の『将棋』を取っちゃったら、それ普通に悪口なんですけど、先輩!?」
「ははははは! そう言ってるんだよ、バーカバーカ!」
子どものような罵倒をしながら、少女はある言葉を口の中で転がす。
きっと目の前の彼は、たいして気にも留めずに流してしまったのだろう、その言葉を。
――将棋ってのは一人じゃできないんだぜ?
そもそも独りで指しに来た少年と……?