とある地方にある、まだまだ緑の色濃く残る森の中。もはや質量を感じてしまいそうな夏の鳴き声を全身に受け、木々をかき分けながら進む少年がいた。足取りは迷いなく、ただ一つ決まった方向へ進み続けているがしかし、その動きはどこか手慣れていない様子が見え隠れしている。
「ふっ、ほっ」
彼は本来、もっと無機質な灰色の密林に暮らす生き物なのだ。それが、数年おきに行われる父親の帰省に巻き込まれる形で、こんな生息域の外に連れられてしまっている。もう少し年を食って中学生にでもなっていれば、留守番をする選択肢もあったのかもしれないが。
見知らぬ土地ではないが、やってくるのは精々が数年に一度。土地勘はありそうなのに森に慣れていなさそうという彼のちぐはぐさには、そういった訳があった。
「――おっとと」
時折、ちょこっと顔を出す木の根に足を取られながらも、少年は先を目指す。
彼がたった一人でこんな森の中を進んでいる理由は、ひとえに暇だったからだ。電波は届かず、両親は集まった他の親族と酒をかっくらったり話に花を咲かせたりするばかり。近い年齢のいとこでもいるなら話も変わったのだろうが、生まれて間もない赤ん坊が一人いるだけで、子供は彼しかいなかった。
暇で暇で仕方がなくなった少年は、父親に声をかけて家を飛び出た。それが、十数分前のこと。
早くもデジタルなあれこれが恋しくなってきていた彼は、滅多にないリフレッシュの機会だと無理やり自分に言い聞かせて、とある場所へ向かった。
(お、ついたついた。……ん?)
外に飛び出してから歩くことおよそ三十分。目的の場所へたどり着いた少年は足を止める。
目の前には、よく陽が射していた。ここまでの道のりが鬱蒼とした高木のせいで薄暗く湿っていたこともあって、その明るさが際立つ。ここは、ときたま昼寝なんかをしにくる、彼のお気に入りの場所だった。
やってきたのは数年ぶりだというのに、その景色はたいして変わらない。その事に軽い安心感を抱いた少年は、足をさらに一歩踏み出そうとして、気づいた。変わらないと一度は思ったその場所に、一つ、見慣れない部分があることに。
「…………」
真っ白なワンピースと、同じ色のつば広帽子。それらを身にまとった少女が独り、岩のへりに腰を掛けて宙を見つめていた。
容姿から予想される年齢は少年よりもいくらか上。とくべつ足音を殺してきたような自覚は彼にはなかったが、新たに足を踏み入れたその存在に気が付いた様子はない。
暗い森からの激しすぎる落差で一瞬、お化けや妖怪の類かと面持ちを固くした少年だが、やがて首を横に振ってそれを否定した。いや、もしかすれば、それでも構わないと、そう考えたのかもしれない。
「こんにちは。えーっと……お姉さん?」
その人物の方へと近づきながら、少年はまず挨拶を投げかけてみる。しばし待ってみるが、相手からの返答はない。見るに、無視をしているというよりは、ただ気が付いていないだけのようだ。
「お姉さーん?」
しかたなしに、少年は更に距離を詰めながら話しかける。しかし、それでも顔はこちらを向かない。小突いてでもやればすぐに気が付くのだろうが、見知らぬ人、それも年上の女性に触れるのは彼にはなんとなく憚られた。
思い通りの展開にならないことに少しムッとした少年は、ついにそのすぐ傍にまでやって来、大きく声を張った。
「あのー!」
「――きゃっ!」
そうまでしてようやく、少女が彼のことを認識したようだ。驚きに大きく見開かれた目、その瞳に少年のあどけない顔が映る。パチパチと数度まばたきをすると、それで心を落ち着かせたようで、彼女は目の前の少年にゆっくりと話しかけた。
「こんにちは。あなたはこのあたりの人ですか?」
心地のよい声が、すっと彼の耳に入り込んで内をくすぐる。その口調は、話す相手の年齢を鑑みるといやに丁寧なものだったが、そこに変に着飾ったような空気はなく、きっと彼女の素なのだろうことが窺えた。
「あー、うん。まぁそんな感じかな」
「…………?」
少年は言葉を詰まらせる。正確には一時的にここへやってきているだけで、このあたりに住んでいるという訳ではないから。どう答えたものかと悩んだ末、彼はなんとも曖昧な返答をした。
『はい』か『いいえ』で答えられる簡単な問いを濁され少女は小さく首をかしげたが、それ以上の追及はなかった。
「そんなこと訊くってことは、お姉さんは違うの?」
「そうですね。住んでいるとこは結構遠くなんですけど、ここには旅で……はちょっと大袈裟かなぁ。遠出……もちょっとあれだし……旅行かな、うん。ちょっとした旅行で来てるんです」
「……こんな何もないところに?」
旅行で来ている。そう答えた彼女に、少年は訝し気な視線を向けた。
そもそも彼のここにいる理由が、このあたりに何もなくて暇だからなのだ。自分のようにやむを得ない理由があるのならともかく自らの意思でやって来るなど。そんな彼の考えを見透かしたのか、少女が次の言葉を紡ぐ。
「ふふ、はい。趣味といっていいのかちょっと怪しいですけど、わたし、ボーッとするのが好きなんです。特にこういう緑の中で何も考えずにただ過ごすのなんて最高で、お休みの日になるといい感じのスポットを探しにあちこち行ってみたりするんです」
「ボーっとするのが趣味……。それで声かけても反応なかったんだ」
「ごめんなさいね。友達にも『あんたボーッとするにしても限度があるでしょ!』ってよく怒られるんですけど、なかなか治らなくて……」
「まぁ別にいいけど……」
少年のその言葉を最後に、会話が途切れて沈黙が訪れる。
二人の関係は年の離れた初対面の異性なのだ。挨拶など使い勝手のいい話題を消化すれば、共通点のない彼らがこうなってしまうのは仕方のないことだった。
「……えっと、このあたりは蝉がよく鳴いていますね」
「あぁ、うん。なんでか知らないけどめちゃくちゃいるんだよね。クマゼミ、アブラゼミ……あ、時間帯によるけどヒグラシとかもたまに」
「ヒグラシ! いいですね、わたしあの鳴き声好きなんですよ。かなかなーって」
少女が蝉について口にしたのに、特別な思惑はなかった。一周回って鳴いていることを忘れてしまうくらいそれらの主張が激しいものだから、話題を探す心の手が当然に拾い上げてしまったという、それだけのこと。
そんな本人も意図しないきっかけではあったが、この季節、蝉はあらゆる人に身近と言える。その話はわずかに、しっかりと弾んだ。
「そういえば、蝉がどうしてあんなに精一杯鳴いてるのか、知っていますか?」
「……さぁ? 知んない。人間の鼓膜でも破ろうとしてるんじゃない」
「もう、なんですかそれ。蝉はね、地上で一週間しか生きれないんです。人間なんかにかまけてる暇はありませんよ。彼らは好きな相手に気づいてもらいたくて、必死に愛を叫んでいるんです」
まぁ寿命に関しては諸説ありますけど、最後にそう付け加えて少女は笑む。
「そう考えると、この鳴き声もなんだか愛おしく感じられませんか?」
「うーん、いや、やっぱうるさいだけかも」
「そうですか……」
シュンと、わかりやすく表情を落ち込ませる少女。その様子がなんだかおかしくて、少年は思わず笑ってしまった。
そんなやりとりもあって、気づけば二人の間の垣根は綺麗に取り払われていた。話を続けていく二人は、ここまでのような当たり障りのないものに収まらず、様々な話題に触れるようになっていった。
例えばそれは少女の学校生活の話だったり、少年のここにいる訳だったり。
そのあたりの事情を話したものだから、帰りの間際になって二人の間でこういったやり取りがなされるのはある種の必然だった。
「それなら、わたしにこのあたりを案内してくれませんか?」
「え……?」
「今回は一週間くらい滞在する予定なんですけど……。ほら、やっぱり土地勘のあるないって、結構変わって来るじゃないですか。いつもは一人でふらふらーってするんですけど、暇で仕方がないんでしたら、わたしに付き合ってくれませんか?」
彼女の申し出について、少年は考えてみる。
受けた場合の一週間、受けなかった場合の一週間。
そこまで想像をして、悩むまでもなかったと少年は決断を下した。
「うん、いいよ。役に立てるかは不安だけど」
「本当ですか! ありがとうございます! あっ、だったら待ち合わせの場所も決めないとですよね。どうしましょうか?」
「お姉さんって宿とってるの? まさか、野宿とか言わないよね?」
「そんなまさかー。もちろん、きちんと宿でお世話になってますよ」
「そっか。じゃあこっちが迎えに行くよ。この辺に宿って一つしかないし、多分わかると思う」
「それは助かります。では、明日からよろしくおねがいしますね」
話がまとまったところで二人は一緒に森を後にした。
途中で別れ、家までたどり着いた少年は胸に手を当ててみる。明日からが楽しみだと、そう思った。
二日目。少年は森にいくらかある他のお気に入りの場所を紹介して回った。この日はヒグラシの鳴き声を聞くことができた。
三、四日目。二人は時間をかけて付近を流れる川を楽しんだ。少年が好きなのは飛沫の乱れる上流なのだが、少女は比較的おだやかな下流がお気に召したようだった。
五日目。この日は趣向を変えて、少女の泊まる部屋で二人は時間を過ごした。二日にわたる川巡りで体の疲れがひどかったからだ。少女に合わせて少年も『ボーッとする』を試してみたが、ほんの数分のうちに眠りに落ちてしまった。
六日目。なんだかんだ初日の場所が一番良かった、そんな少女の言葉が、その日の行き先を決めた。相変わらず、蝉の鳴き声があたりに満ちていた。
その日の帰り道。時刻は夕暮れ。宿もそろそろ近づいてきたという頃、少女はにわかに足を止めて、少し後ろを歩く少年に顔を向けた。
「その……明日、ね。うん、帰ることになりました」
「ふぅん、そっか」
ポツリと、呟くように彼女は口にする。なるべく胸内を悟られないよう努めて、少年は適当な返事をした。
ずっと決まっていたことが故、そこに悶着はない。けれどやっぱり平生の振る舞いは難しくて、分かれ道でさようならをするまで言葉はなかった。
そして、やってきた七日目。
差し込む朝日に目を覚まして、枕元の時計に目をやった少年は次の瞬間、身体を飛び起きさせる。時刻は彼が起きようと設定したタイマーを二時間も過去にしていた。
昨夜に色々と考え込んで寝付けなかったのが原因か、それとも。そんな風に今は不必要な方向へ伸びかけた思考の枝をへし折り、少年は家を飛び出す。背後から驚いた両親の声が聞こえたような気がしたが、彼は振り返らなかった。
別に、見送るという約束をしていたわけではない。彼は最後の最後まで『このあたりを案内してほしい』という少女の申し出以上のことをせず、そこからはみ出したことをしていいのか、判断ができなかった。
けれどこうして、もう保留のできない切羽詰まった状況になり、彼は一心不乱に走り出していた。彼の抱える想いの顕れに違いなかった。
目指すは駅。ここへはいつも親の車でやってくるため利用したことはないが、一日につきおよそ三か四本だけの電車がやって来るということを、彼は祖母に聞いていた。
どうか間に合ってくれ、息を荒げて祈る彼がそこへ着いた時はたして、電車は、彼女は、そこにいた。
「お、姉さん……」
からからの細いのどから、掠れた声が漏れた。本人がようやく聞き取れるような弱弱しさだった。
扉が、閉まる。
「お姉さん!」
のどに鞭を打って、精一杯の声を張り上げる。乗客の数人がぎょっとした顔で彼へ視線をやったが、少女はまっすぐ電車の進行方向を向いたまま。その彼女のボーっとした様子は、この数日で少年が何度も目にしてきたものだ。
車輪がゆっくりと音を立ててまわりだす。
もう時間はない。少年は命を懸けるがごとき気迫で、サイゴの鳴き声を上げた。
「――――!!」
彼は人間だ。明日からもずっと、変わらず命を継いでいくだろう。
けれど今たしかに、
難聴系ヒロイン