『辛うじて一命は取り留めました。……ですが意識が戻るかは、何とも……』
執刀してくれた医師からその言葉を聞いて、もう二週間が経過しようとしている。
私は一人、重い足取りで病院の廊下を歩いていた。
とても優秀で、尚且つ真摯な先生だった。
誰もが助からないと考えてしまう程の絶望的な状態から、見事に先輩の命を繋ぎとめてくれたのだ。
感謝してもし足りない。
回復の見込みが薄い事もハッキリと伝えてくれて、少なくとも病院側が間違いなく全力を尽くしてくれた事は誰もが理解できた。
同時に、これ以上はどうしようもない──そんな事実が浮き彫りになってくる。
ヒーロー部による応急処置は、完璧ではなくとも最善は尽くしていた。
間違ってもあの場にいた皆を責めることなど出来るはずもない。
あの群青という少年が齎した今回の事件は、幸いにも死者を出す結果には至らなかったのだ。
先輩のおかげで最悪は免れた。
その代わりに、ヒーロー部にとっての最悪が訪れた。
「……おはようございます、先輩」
病室の戸を開けると、そこには大きなベッドで仰向けに眠っているアポロ・キィの姿があった。
先輩。
アポロ先輩。
彼はいつの間にか私の中で一番大きな存在になっていた。
傍で支えてあげなければならないと、そう考えてしまう程に、放っておけない人になっていた。
しかし彼はいつの間にか私の前から姿を消して。
またいつの間にか──遠くに行ってしまった。
本当にはた迷惑な先輩だ。
「寝心地はどうですか? こーんなに大きくて立派な個室で眠ってられるのは、ヒカリ先輩のご協力あっての事なんですからね。後でしっかりお礼を言わないと」
無駄にだだっ広くて設備が豪華な病室を眺めながら、窓を開けて空気を換気する。
使っているベッドはかなり大きくて、未だにコクの姿な先輩の体では結構スペースが空いていた。
大企業の令嬢であるヒカリ先輩のおかげでこの大きな病室へ移動できたわけだが、正直一般人が入院する様な部屋ではないように思う。
例えるなら学校の教室一個分だ。
テレビは何だか横に長いし、ソファなんて三つもある。病室なのに。
先輩は起きたときにこの部屋を見てどんなリアクションをするのだろうか。
そこだけは少し楽しみだ。
「ふぅ……いやー、今日の依頼も大変でしたよ。まさかいまどき家出した飼い猫探しなんて……靴も少し汚れちゃったな」
ベッド横の椅子に腰かけ、カバンを床に置いて一息ついた。
先ほどの言葉通り、今日はヒーロー部の活動を行ってからここに来たのだ。
午前授業だった事もあり、今日は早めに病院へ向かえるなぁ、なんて考えていたところで舞い込んできた依頼だった。
部長曰く『こんな時こそ普段通りに』とのことで、ヒーロー部は一週間前から活動を再開している。
ゆえにそんなありきたりな、市民のヒーロー部に相応しい平和な依頼が届いたというわけだ。
先輩の事だから、きっと自分のせいで部が停止していたら責任を感じてしまうに違いない。
だからこそ彼がいつでも戻ってこられるように、私たちは普通の学園生活を続けていく事に決めたのだ。
「あ、そうそう、レッカさんから聞いたんですけど……修学旅行の班決め、そろそろ始まっちゃうらしいですよ。早く起きないとマズいっすね、先輩?」
返事は無い。
それもそうだ、彼は眠っているのだから。
しかし、それに構わずこの病室に来る人間の多くは先輩に対してたくさん語り掛ける傾向にある。
意外とみんなお喋りだ。
他のメンバーに比べれば、私は話の話題が少ないかもしれない。
先輩に聞かせたい話、実はもっとあるんだけどな。
「これ、お花持ってきました。生花は病室に持ってきちゃダメらしいんで、プリザーブドフラワーってやつです。いわゆるドライフラワーですね……ふふん、綺麗でしょ」
病室の花瓶に花を飾りながら語り掛けても、望むような言葉が返ってくることはない。
心の中で虚しさが湧いた。
分かってはいたものの、やはり慣れるようなものではないらしい。
再び彼の横に座り話しかける。
最近やる事と言えばこれくらいしかないのだ。
「……知ってます? あと一時間くらいしたら衣月ちゃんが来ますよ」
彼女は三ヵ月前から小学校へ通い始めている。
元々要領がよく勉強に関してもヒーロー部の面々が世話をしてくれているため、学習面での遅れも早い段階で取り戻すことができた。
学校生活も大方問題なく、クラスメイトや同級生たちとも上手くやっている。
「衣月ちゃん、ようやく友達ができたんですよ。結構遊びに行くようにもなって、もうすっかり普通の女の子って感じです」
だが、これは二週間前の──先輩が倒れる前までの話だ。
「言いたい事わかりますか、あほ先輩。衣月ちゃんってば最近放課後は毎日のように病院へ来てるんです。遊びにも行かないで、誘われても断って、一直線に先輩のもとへ駆けつけてるんですよ。はぁ……まったく、なんてタイミングで入院しちゃってるんですか」
少しだけ嫌味を言ってやった。
彼ならなんて返すだろうか。
そうだな──『マジ? 責任取って明日退院するわ』……とか?
わかんないや。
答え、教えてくれないかな。
「みーんな待ってるんですから、早く戻ってきてくださいね」
事実だ。
ヒーロー部も、彼の家族も、私だって待っている。
ずっと待っている。
回復は絶望的だと言われても、この先永遠に植物人間なんだと決めつけられても、諦めることなく待ち続けている。
氷織先輩は、私を休日によく遊びに誘ってくれるようになった。
カゼコ先輩は、一緒にお昼を食べる機会が多くなった。
風菜先輩は、ヒーロー部の依頼の担当を代わってくれる回数が多くなった。
ヒカリ先輩は、衣月ちゃんの登下校にいつも付き添ってくれている。
ライ部長はいつも通り、たくさんの仕事をそつなくこなしながら、私や部員のみんなをサポートしてくれている。
先輩が再起不能の状態に陥って、みんなきっと私の精神状態を危惧したのだろう。
自分たちも辛い思いをしているにも関わらず、後輩の為に明るく振る舞ってみせる彼女たちを目の当たりにして、私は改めてあの人たちが”先輩”なのだと実感することができた。
……うん。
確かに気持ちは嬉しいのだが、流石にそこまでしてもらわなくても私は大丈夫だ。
衣月ちゃんがいる手前、自分だけ年下ぶって甘えるわけにもいかないし。
むしろ私の目が無いところでひっそり泣いたりしてるヒカリ先輩とかの方が心配である。
「……こういう時に泣ける人と、泣かないようにやせ我慢する人って、どっちの方が強いんですかね?」
この人の為を想って涙を流せる先輩方は、本当に優しい人たちだ。
実は結構危ない行動もしてた人なんだけどな……沖縄での夜にレッカさんへ迫ったときとか。
まぁ、それを差し引いても功績が大きすぎるから、結果的にはプラスなのかもしれない。
先輩はきっと──そうは思っていないのだろうが。
「ねぇ。罪の清算が出来たとか、これでやっと償えたんだとか、そんな事考えてません?」
衣月がここへ訪れる前に言っておきたいことがあった。
これは自分の心を整理するための行動だ。
「バカなんですか先輩。さんっざん人に迷惑を掛けておいて、命をかけて人を救ったんだからそれでチャラ──なんて単純な話じゃありませんよ」
ピクリとも動かない彼の手をそっと握りながら、静かな病室で滔々と話していく。
たとえ彼には聞こえていないのだともしても。
「みんなは先輩の事すっごく評価してますけど、先輩は逆に自分を過小評価しすぎてて……何で、こう、極端なんですかね。それで納得しちゃダメですよ。まだ何も解決してません」
先輩は衣月との約束を現在進行形で反故にしている。
「互いの認識の擦り合わせをして、尚且つ衣月ちゃんとの約束も果たさないと、先輩は許されませんから。生きて、起きてやらないといけない事が山積みなんです。寝てる暇なんてないんですからね?」
先輩はとても大きな、偉業とも呼べることを成し遂げた。
それ故にきっと周囲は彼を褒めそやし、優しく接することだろう。
自己犠牲の塊というか、ヒーロー然とした今までの行動は確かに称賛されて然るべきだ。
だから私だけは彼に対して厳しく当たろうと思っている。
調子に乗らないように。
自分を見失わせない為に。
まるで物語の主人公の様に誰もから褒められるような英雄的存在ではなく、また多くの自己犠牲を以てしても許されないような咎人でもなく、普通の日常を普通に送っていい“普通の人間”なんだと、教えてあげるために。
そんな事が出来る人間はきっと多くはないし、彼の真実に気づいている者も数少ないから、これはきっと私にしかできないことなのだ。
勘違いさせたままになんてしない。
事実として立派なことはしたのだろうが、何の相談もなく一人で背負い込んで、私たちの前から姿を消した事も許さない。
先輩がどんな人間なのか、彼の口から直接ヒーロー部のメンバーに話させてやる。
みんなを心配させた罪は重いのだ。
「……だから、起きてくださいよ、先輩」
たくさん叱ってやりたかった。
それの百倍褒めてあげたかった。
逃亡生活で打ちのめされた彼の精神が元通りになったら、私もまた元通りの接し方をしたいと考えていた。
また一緒に食事の席を囲んで。
また一緒に衣月ちゃんと三人で。
また、一緒に。
「っ……ダメだな、私も泣き虫だ……」
──頭の中で何度都合のいい理由を考えただろうか。
誤魔化しが利くような言い訳を何回ほど口にしたのだろうか。
それらは嘘ではない。
嘘ではない、けど。
何よりも私は──先輩と話がしたかった。
ただ、それだけだった。
「
「……っ!」
コンコン、と扉が叩かれる音と共に、レッカの声が聞こえてきた。
咄嗟に手の甲でぐっと涙をぬぐい、平静を装って応対する。
──そこで沢山のことを聞いた。
先輩を殺しかけた張本人である群青という少年は、現在レッカさんのお兄さんであるグレンが保護していること。
彼もまた悪の組織による被害者だということ。
そして群青が現在、
恨まないと言えば嘘になるが、衣月と同じ十一歳という年齢だという事や、彼の陥っていた環境そのものがあまりにも劣悪だったことを考えると、唯一自分に近しい彼女を必死になって求めた行動自体には理解を得る事が出来た。
しかし関係ない人間を瀕死に追い込んでしまったのは紛れもない事実だ。
そんな幼い体と心を大きな罪悪感で潰されかけている群青を
彼にやられた本人である先輩しかいない。
「……群青の中にあった魔王の力の残滓が今、ポッキーの身体を蝕んでいるらしい。このままじゃいくら肉体を回復させたところで意識が戻ることはないって、グレン兄さんが」
レッカさんは持ってきた情報を神妙に語る。
最悪体だけならいくらでも治せるのだ。
光魔法は傷を癒す魔法であり、それを極めた人物なら私の情報網やライ部長のコネクション、ヒカリ先輩の資金力を持ってすれば容易く雇う事が出来る。
しかしこの病院での処置が完璧だったこともあり、肉体の傷自体は問題なく塞がっている。
身体の回復だけで見れば、後は自然治癒やヒカリ先輩の光魔法を定期的に受けるだけで完治するのだ。
問題は魔王の力の残滓に蝕まれている先輩自身の精神だが──そんなものどうすればいいのか、皆目見当がつかなかった。
精神の中に潜んだ太古の闇を浄化する、なんて都合のいい魔法や医術など存在しない。
「……勇者の力なら、何とかなるかもしれない。もちろん僕だけじゃ無理だけど」
「どういうことですか?」
「勇者の血を引く家系がたくさんある事は知っているだろ。その中で勇者の資質を最も濃く受け継いだ一族の代表──その人と会える機会を、兄さんが作ってくれたんだ」
未だに全ては解明されていない、勇者の力という未知の魔法。
それが先輩を叩き起こす唯一の手立てであるらしい。
「行こう、音無。僕たちでアポロとコクを救うんだ」
「……はいっ!」
ならば縋ろう。
どんな力であろうと、どんな人間であろうと構わない。
何だってしてやろうじゃないか。
今度こそ先輩を目覚めさせて──失ったものを全て取り戻して見せる。
◆
「……で、アポロはどうするの?」
「どうしようもねぇな」
そう返してみると、コクは『ふーん』とつまらなそうに踵を返し、台所で料理を始めた。
死んでるのか生きてるのか分からない状態になってから、どれくらいの期間が経過したのだろうか。
長いようで短い、何とも表現しがたい感覚だ。
随分前にここへ来たような気がするし、ついさっきここへ訪れたばかりのような気もする。
夢の中って不思議ですね。
「暇だなぁ……」
俺たちは相も変わらずボロアパートの一室でくつろいでいた。
テレビは映らないしスマホは無いし、オマケに話し相手は俺が生み出した(らしい)妄想ただ一人だけ。
夢の中なのにお菓子や料理を作り出すトンチキ野郎の奇行には慣れたものだが、如何せん変化が無いから退屈だ。
夢の中だからこそ何でも好きにできるのかと思ったらそうでもないし、こんなのただの引きこもりと何ら変わりない。
これだとポッキーじゃなくてヒッキーだな。
色々と頑張ったのに最後は自分の妄想と二人きりとか、やはり俺の青春ラブコメまちがってるわ。
やり直してぇ……思い返してみたら俺の青春って血みどろ過ぎるだろ……。
「はい、ナポリタン出来た」
「えっ?」
出てきたのは意外にも家庭的な料理だった……が。
まさかよりにもよってこの俺に『ナポリタン』を出してくるなんて思わなかった。
ていうか夢の中なのにわざわざ飯食うなんてイカレてんな。
「おいおい……俺の後輩が作った料理を出すとかお前正気かよ。絶対音無が作ったやつの方が旨いかんな」
「いいから食べてみ」
「ふん……」
愛しの後輩が作ってくれたあの美味が上書きされることなどあり得ない……と思ったけどコレ普通にうめぇな。
「うまうま」
「イェイ、寝取り完了」
「はっ倒すぞお前」
そもそも俺と音無は寝てない。
……いや物理的に隣で睡眠は取ったけど、変な意味で寝てはいないのだ。
変なこと言いやがってこのロリっ娘め。
「アポロ。それ食べたら出かけよっか」
出かけるとは……?
この世界ってこのボロアパートの外も存在すんのかしら。
「どこへでも行けるよ。だって夢の中だもん」
コクがエプロンを外しながらこちらへ戻ってくると同時にナポリタンは消滅し、世界が一瞬だけ暗転した。
気がついた時には、見覚えのあるビーチに立っていた。
空は暗い。
星が綺麗な夜だ。
目の前を見てみると、そこには白いワンピースを着た黒髪の少女と、前髪に赤いメッシュの入った黒髪の少年が、足元だけ海水に浸かった状態で会話をしているのが目に映った。
『……レッカ、童貞でしょ』
わぉ、俺が一番とち狂ってた時期じゃん。
確かコクになりきるどころか、氷織と一緒に無事生還できたことが嬉しすぎて、いつも以上に美少女ごっこに熱が入ってたんだよな。
流石は夢の中。
あの時は楽しかったけど今は思い出したくない記憶すらも掘り出せてしまうらしい。
「何これ?」
「アポロの記憶の再現。あと別の未来をシミュレートする事も出来る」
別の未来とは。
なんだろう、ちょっと気になる。
『レッカ様ーッ! コクさぁーんッ! どちらにいらっしゃいますのぉー!?』
『──コクっ!』
『わっ!?』
本来俺の美少女ごっこを中断させるはずだったヒカリが登場した瞬間、レッカが俺の手を掴んで海の中へと潜っていった。
本来の歴史とは違った動きだ。
ヒカリから隠れたことで、あの二人を邪魔するものはいなくなった。
──いや、確か音無が遠くから見てたはずなんだが。
『……その、なるべくお手柔らかに……お願い、します?』
オイオイあの世界線の俺ヤベーこと言ってるぞ。
途中『俺って本当はアポロなんだよ!』とか言って逃げようとしてたけどレッカの気迫に圧されて遂に折れやがった。よわすぎる。
きっかけ一つで俺もあぁなる未来があったって考えるとゾッとするな。
『何かビクビクしてる……変なの……』
どわああああアぁぁァァッ!!?
あいつら何して──あっ、消えた。
「あら残念。アポロ、続きは成人向けPCゲーム版でね」
「いらねぇよそんなの……」
えっ、え。
今のなに……? こわ……。
親友に流されたら俺あんなセリフを口にしちゃうのか。
ほとんど抵抗しないのか。
もう心の底から美少女ごっこを楽しむのは無理な気がしてきたな。
「意外。アポロってあぁいうの見たがる人だと思ってた」
「いやいや、俺の姿は男の面影が無いコクだから百歩譲って許すとして、何をどう間違えても同性の友人が腰振ってる光景なんか誰も見たくないだろ。頭おかしいのかお前」
「じゃあ、竿役が自分なら見られる?」
「そういう問題じゃなくない……?」
まず竿役って言い方が身も蓋もないからやめようね。
仮にも女の子なんだからねキミ。
「だいたい俺がそんな役になる機会なんて無かったろ。レッカじゃあるまいし」
「沖縄のホテルで音無が本当に抜いてくれる方向に進んだ未来、たぶんあるよ」
「…………」
盲点だった。
「見たい? そのシミュレート」
「……み、見てやってもいい」
「ダメ~♡」
お、女を殴りたいと本気で思ったのは生まれて初めてだ……。
「だってアポロまだ十七歳でしょ。R18に足を踏み入れてはいけません」
「正論パンチやめてください」
ていうか夢ならノーカンでしょ。
俺の夢の中なんだから俺が何をしたって許されていいはずだ。
もう一人の自分のくせに横暴だぞ!
「……まぁ、何はともあれコレで分かったよ、コク」
「なにが?」
「女としても男としても、これまでに貞操を捨てる機会は確実にあったんだ。それらを全部蹴っ飛ばして俺はここまで来たんだな俺は。……やり直してぇ」
結局主人公にもメインヒロインにもなれず、それどころか男女どちらの純潔もしっかり守り通してしまい、最悪このまま死のうとしている。
そんなの死んでも死にきれなくないか。
買ったばかりのアイスを地面に落として一口も食べられなかった時くらい悔しいぞ。
このやるせなさを抱えたまま息絶える事こそが、今まで親友を弄んできた俺に相応しい罰だとでもいうのか。
……それならしょうがない気もしてくるな。ごめんよれっちゃん。
「生き返るかどうかも分からんし、気にすることないか」
ここまで童貞と処女を完璧に守り通す才能があるなら吸血鬼になれる未来なんかもあったかもしれない──なんてくだらない事を考えながら、俺は夜の砂浜に腰を下ろした。
すると柔らかい風が吹いて俺の頬を撫でた。
沖縄で実際に嗅いだあの磯の匂いや、生暖かい風を感じることはできない。
そういう部分からも、ここはあくまで夢の中なのだと実感させられた。
今いるこの場所は決して現実世界ではなく、俺もまた目覚めてはいない。
俺が倒れた時のアレはどう考えても助かるような傷ではなかったし、ここにいるのは死ぬまでのボーナスタイムに過ぎないのかもしれないと、そんな思考がふと脳内によぎる。
このままゆっくりと死へ誘われていくと考えたら、少しだけ肩が震えた。
「じゃあ、私とえっちする?」
座り込む俺の前に立ったコクが、夜の帳に光る青白い月明かりを背に、そんなことを言ってきた。
いつかの俺と同じように──スカートの裾を少しだけ持ち上げて。
「そりゃいいな」
俺は立ち上がり、バイトで必死こいて稼いだ金で製作した特注の『黒い制服っぽい服』に身を包んだコクを見下ろした。
あの白いワンピースに比べたら、随分と色気のない格好だ。
俺が美少女ごっこを楽しむために作った服なのだが、いつの間にか彼女の物にされてしまったらしい。
「夢の中とはいえ、童貞捨てられるんなら願ったりかなったりだ。コクはかわいいし申し分ないな」
「すごーく最低なこと言ってるよ?」
「当たり前だろ、俺相手だぞ。気遣いなんて──」
……ん?
いや、まて。
重大な事に気がついたぞ。
何でその気にさせられてたんだ俺は。
「……そうだよ、お前俺じゃん。おまえとヤっても意味ねぇじゃん……」
「気づかれましたか」
ブックオフなのに本ねぇじゃん~と同じリズムで文句を言うと、コクの手から離れたスカートの裾がパサリと落ちて戻った。
当たり前の事を失念していた。
俺とやっても意味なんて無いんだよな。
自分自身とのセンシティブな対話って、それただの自慰行為じゃねぇか。
こいつ本質的には俺の左手と何も変わらんぞ。
「アポロって左手派なんだ」
「サウスポーと呼んでくれ」
「何で誇らしげなの?」
一瞬で気の抜けた雰囲気になってしまった。
確かにコクは美少女だが、先ほどの考え方を持ってしまった途端に、もう“そういう目"では見られなくなっているのが現状だ。
性別はおろか顔も全く違うが、コイツは俺なのだ。
鏡で自分を見て興奮できるほど強靭な自尊心は残念ながら持ち合わせていない。
「コクちゃんほっぺ柔らかいね。むにむに」
「んむぅ」
彼女の頬を揉んだりしても劣情が湧き上がってくる様子はない。
この調子だと身体のどこを触ろうとも結果は同じだろう。
今回はこういう悲しい結果で……終わりですね……。
「はぁ……早く起きてみんなに会いたい」
「それなら魔王の残滓を倒さないと」
「なんて?」
コクを抱っこしたままグルグルと回転して遊んでいると、不意に彼女が妙なことを口にした。
急に新しい単語が出てきやがったな。
「群青って男の子がいたでしょ。あの子の攻撃で私たちの体内に魔王の力の残滓が入っちゃったんだって。それがアポロの目覚めを阻害してるとか何とか」
「え、何でそんな事知ってんだ?」
「ちゃんと耳を澄ませば外の会話も聞こえてくるよ」
「ほう。……やってみるか」
一旦コクを下ろす。
そしてジッとそのまま固まっていると──
『言いたい事わかりますか、あほ先輩』
──罵倒が聞こえてきた。
涙が出てくるわ。
「うぅ……後輩が辛辣だよぅ」
「かわいそうなアポロ……よしよし」
コクの胸に顔を埋めて泣いた。
うぅん、やはりそうか。
随分とちっぱいだなぁコイツ。
こんなのが好きだなんて、れっちゃん本当に重度のロリコンだ。
ヒカリやライ先輩辺りにでも治療してもらった方がいいと思います。
「ねぇアポロ。とりあえず魔王の力の残滓ってやつを探そっか」
「それが何なのかよく分からないけど、まぁそうだな。……てか、ここ夢の中だろ? どうやって探すんだ」
「徒歩で」
「徒歩かぁ……」
いきなり湧いて出てきた新設定によって、俺が目覚められない元凶探しの旅が突然始まる事になったのであった。
なんか旅してばっかだな俺。
一応高校生なんだけども。
これではまるで不良生徒だ。
修学旅行前に素行不良は大変に良くない。
早急に目を覚まして出席日数を取り戻さねば。がんばるぞ。
「夢の中って大きさどんくらい?」
「だいたい街一個分くらい」
「広いなぁ……」
溜息を吐いてばかりだが、そろそろ気を取り直して行動を開始しよう。
僅かではあるものの覚醒するための手がかりを知る事が出来たのだから、もうダラダラとくつろいだりシミュレーション鑑賞会なんてしてる暇など無い。
死ぬことで罪の清算になるとも考えていたが、生き残れるのならきっとそれに越したことはない筈だ。
ヒーロー部の誰にも何も伝えられずにこの世界へ落ちてきてしまったのは正直言って悔しかったし、なにより俺を殺しかけてしまったあの群青という少年の事が心配だ。
魔王の残滓だか何だかよく分からんが、とりあえずはさっさと覚醒して現在の状況を把握するために頑張ろう。
「アポロ号、発進」
「お願いだから降りてねコクちゃん」
いつの間にか背中によじ登ってきた黒髪少女の事は結局振り払えず、俺は彼女をおんぶしたまま夢の世界の探索を開始するのであった。