事件に遭った自分たちに気を遣ってか、パトカーに同乗していた警察官はずっと気さくな態度だった。
黙りこくった俺と元々あまり喋らない衣月が組み合わさって、車内の空気が沈鬱だったのもあるのだろう。なんとか雰囲気の緩和を試みるその警察官の男性は、端的に言えばとても良い人だった。
国を守るだけでなく、一人一人に目を向けて取り組むその姿勢は紛れもなく正義の味方そのものだ。
そんなヒーロー部ともよく似た善性の塊のような人間は──今の俺には眩しすぎたらしい。彼の言葉のほとんどを無視してしまっていた。いまも罪悪感が胸中で燻っている。
両親が住んでいる賃貸は、よくある安いアパートだった。
経済的な面では問題ないようだが、悪の組織と戦う際に各所へ手を貸していたため、現在もまだその対応に追われており、多忙なあまり新しい自宅の目途も全くついていないらしい。
そして、二人は現在東京から離れている。
俺と衣月が事件に巻き込まれたと知ったため仕事をキャンセルして戻ってきているらしいが、それでも自宅に到着するのは明け方になるだろう、との事だった。
つまり、今夜は俺一人で過ごす──はずだったのだが。
「電気つけるね」
片時も俺の手を握ったまま離さないでいた衣月はヒカリの家には帰らず、自分一人になるはずだった暗いこの家に光を灯し、そそくさと家事を始めていた。
寮暮らしだった俺よりも遥かにこの家の間取りを熟知しているようで、気がつけば彼女によって浴槽に湯が張られていた。夕食も作ろうと思えばすぐのようだ。
「紀依。お風呂、入ろう」
初めて出会ったときは一人で風呂も入れなかったはずなのに。
いつの間にか自分の手から離れて立派に自立している彼女を前に寂寥感を覚えながら、俺は言われるがまま浴室へと連れていかれた。
……
…………
「ギリギリ二人でも収まる」
「……そうだな」
軽く体を洗い終わり、俺を先に浴槽へ浸からせた衣月は、そのあと膝上に乗るようにして自分も入浴してきた。
精神面では大きく成長していても、俺との距離感はあまり変化していなかったらしい。
「ふぅ、気持ちいい」
俺の胸板に背を預けて、ぐぐっと手足を伸ばしてリラックスする衣月。
体躯が小さい彼女だから可能なのであって、このあまり大きくない浴槽だと俺は体を伸ばせない。
しかし、伸ばせたところできっとやらないのだろうが。
先ほどからリラックスなど出来てはいない。
体洗いや何からなにまで小学生の少女に任せきりで、とても情けない気持ちだった。
なにより、そうまでされても立ち直ろうとしない自分自身の心が、どうしようもなく鬱陶しい。
どうして俺はこんな状態に陥っているのだろうか。
「紀依」
「……どした」
いつの間に入浴の際にヘアゴムで髪をまとめることを覚えたのか、後頭部に白いお団子がある衣月が呟いた。
「怖かった?」
質問の意図は明白だった。
十中八九、数時間前の不審者の件だ。
怖かったか、などと聞かれたら、普通は見栄を張って否定する。相手が年下の少女なら尚更そうだろう。
大人はどうだか解らないが、自分くらいの年齢の男子なら大抵は身の丈に合わない強がりをするものだ。
俺もそうしようと思っていた。
思っていたが、言葉が喉から出てこなかった。
「……私は怖くなかった。紀依が隣にいたから、大丈夫だって」
過大評価だ。
実際のところは衣月が手を貸してくれなければ殺されていた。
手も足も、出なかった。
「ね、紀依」
「……?」
「今日は──くしゃみしなかったね」
「っ!」
肩が跳ねた。
人格が入れ替わるくしゃみの事だ。今日は朝から今の今まで、その事を全くもって意識していなかった。
くしゃみしなかった、というのは人格の入れ替えをやろうとしなかったという意味だ。もしかしたらくしゃみ自体はしていたかもしれないが、コクという嘘は一度もついていなかった。
この日はずっと、俺はアポロ・キィのままだったのだ。
「マユと協力して、あんなに頑張ってみんなに信じさせようとしてた。なのに、今日はやらなくてよかったの?」
「そ……、ぁっ……」
ばれている。
何故かこの少女にだけは、何もかもが筒抜けだった。
疑っているだとかそんな次元の話ではなく、前提として俺の振る舞いが嘘だったのだと既に判断されている。
「はっ……うっ……っ」
「……紀依? あの、私責めてるわけじゃなくて」
「ご、ごっ…………ごめっ、なさ……」
温かい湯船に浸かっている筈なのに、凍えるかの如く躰が震えて止まらない。
罪の意識がぶり返して胃が痛み始めた。苦しい、ここに居たくない。一人になりたい。
これまで何をしていたんだ俺は。
皆を欺いてまで何がしたかったんだ。
これから衣月が情報を拡散して、失望されて、それから──
「落ち着いて」
──思考を遮るように、衣月が振り返って俺を抱きしめてきた。
「無神経なことを言ってしまって、ごめんなさい」
首の後ろに手を回して、後頭部を撫でながら優しく抱擁してくる。
時間が止まったかのように思えた。
「誰にも言ってない。伝えるつもりもないから、私は紀依の味方だから。……おちついて、大丈夫」
幼少期に親にあやして貰っていたときの事を想起させるような、穏やかな声音だった。
抱きしめて、頭を撫でて、慰めの優しい言葉をかけて平静を取り戻させようとしている──これではどちらが子供なのか分からない。
俺たちは互いに衣服を全て剥ぎ取った状態だ。
当然、密着すれば相手の鼓動を肌で直接感じ取る事が出来る。
とくん、とくん、と。
まるで二人の体が一つになってしまったのかと錯覚してしまうほど、彼女の心拍が自分の音の様に聞こえてくる。
「…………ごめん、衣月。……ごめん」
「謝らないで。ぜんぶ分かってるから」
六つも歳下の少女に甘えるなど恥知らずにも程がある。
頼られるならまだしも、こんな形で頼ってはいけない存在なのだ。
ましてや彼女が否定したように『家族』ですらないのだから。
「私の前で強がる必要なんて、ない」
そう頭では理解しているつもりなのに、俺は衣月の甘言に絆されてしまっている。
自分の手が勝手に伸びていくのを感じた。
彼女のくびれた胴のあたりに手を回して、自らのほうへ引き寄せていく。
「……うん。紀依も、だきしめて」
僅かながらに安堵した自分のとった行動は、衣月を抱き返すというものだった。
泡のように柔らかく、健康的な色で艶やかなその素肌に触れていると、喉奥に滞留していた嗚咽が引いていくのを感じた。
胸がすく想いだった。
背負い続けたまま手放せなかった恐怖という重荷を、ようやっと下ろす事が出来たような気分だった。
「いっ、ぃ……衣月、おっ、おれは……」
「知ってる。最初は違ったんだよね」
弁明しようとする俺を撫でて落ち着かせ、抱擁したまま衣月は話を続ける。
「私の為じゃなくて、自分の為にペンダントを使ってた。……私と出会う前から持ってたのだから、当たり前のこと」
親友や後輩すら知らない事実を、彼女だけは察している。
「ほんの遊びのつもりで女の子に変身していた」
「っ……」
「旅を始めてからずっと一緒にいたんだから、流石に分かる」
「……ごめん」
謝る必要なんてない、と言いつつ一拍置いて、衣月は更に続けていく。
「でも、私が現れたせいで状況が変わった。私を守るにはペンダントが一番都合のいいアイテムだったから、使わざるを得なくなった。止めようと思えばいつでも止められる遊びを、続けなくてはならなくなった」
それは。
……それは、違う気がする。
そうじゃない。アレは俺が勝手にやった事なんだ。
「い、衣月のせいじゃない。だって、俺が正体を明かせば、それで終わる話だったんだ。おまえに責任なんてない……」
「明かしたら、紀依は戦えていた?」
「…………えっ?」
衣月が口にした言葉の意味が理解できない。
「紀依、私と出会う前は戦った事なんてほとんどなかったでしょ」
それは、確かにそうかもしれない。
ただの学生でしかなかった俺が戦う機会に巡り合うわけなどなく、コクの姿で怪人に殴られたあの時以外──つまりヒーロー部に入ってからも、探知能力で敵の位置を割り出して、みんなに教える程度の事しかしなかった。
だがそれとこれと何の関係があるというんだ。
「本来、人に暴力を振るったり振るわれたりなんて普通じゃない。ヒーロー部みたいに一年近く戦っていた経験があるならともかく、紀依みたいな一般的な学生が、凶器や殺意を持った人間を前にして、何の訓練も無く戦える?」
抱擁をやめ、俺の目を見て話す衣月。
吸い寄せられるように焦点がそこへ定まり、視線を逸らす事が出来ない。
加えて、彼女の言にも否定できないでいた。
「紀依はペンダントによる変身を、
今日感じていたような根底にある恐怖に蓋をして、見ないようにして、遊びの事だけを考えていれば、あの旅の時の様に平静を保っていられたから」
「……ちがう、そんな。違うって。……そんなわけない」
俺が恐怖を感じていた?
旅を始めたあの時から?
怖いから、恐怖から逃げたかったから、見ないフリして美少女ごっこだけに意識を割いて自分を保っていた?
バカな。
そんなはずはない。
俺はあの旅をしているとき、全身全霊で美少女ごっこに打ち込んでいたはずだ。
レッカをからかいたかったから、楽しかったから、気持ちよかったから。だから──
「紀依。楽しいこと、気持ちいい事じゃないと、怖いことに蓋はできないよ」
「…………っ」
ついに顔を背けてしまった。
彼女は誰よりも優しいのに、他の誰よりも俺に対して現実を突きつけてくるから。
否定したい、無視したい気持ちを全て認めさせようとしてくる。
あの旅の中で抱いていた感情の全てを『恐怖から逃げるための言い訳』だと一纏めにされてしまい、耐えられなくなってしまった。
そんなわけがない。
俺は、ただ楽しかったから、美少女ごっこを続けていたんだ。
「……け、警視監も、マユもお前も、ロリっ娘は知ったような口ばかり利くな。俺の気持ちなんかひとかけらも理解してない。……俺は、してほしいとも思ってないんだ」
「ウソつき」
「っ!」
衣月は俺の両頬に手を添えて、無理やり自分の方へ振り向かせた。
相変わらず彼女の表情は動いていなくて、何の感情も読み取れない。
「寂しがり屋のくせに、強がってばかり。寂しかったから、レッカの前で女の子になったんでしょ」
「…………なんで」
どうしてそんな事が察せるんだ。何で俺のことをどこまでも知っているんだ。
俺よりも、俺のことを。
何なんだこの少女は。
「ペンダントで恐怖を誤魔化して、強い紀依であり続けたから……私は、全部をあなたに任せてしまった。勝手に強い人だと思い込んでいた。盲目になっていた。……本当に、ごめんなさい」
「……だから、衣月はなにも悪くないって……」
「私にも背負わせて。私も、紀依の一部でいさせて」
ここまで俺の最低な人間性を、過去を、何もかもを知っているのに──味方でいようとしてくれている。
罪悪感と情けなさを感じると同時に、嬉しさをも抱いてしまって、目頭が熱くなった。
「どうしてこんな……元を辿れば全部、俺が悪いのに──」
「違うよ」
何度自分を否定しても、彼女は俺の存在を肯定する。
責任と罪を自覚しようとしても、衣月はそれを否定する。
「私が悪の組織に攫われて、実験体にされたのは紀依のせい?」
「っ……」
「紀依が私を守って、警視監をやっつけて、悪の組織を……世界を蝕む悪意を壊滅させたのは、悪いこと?」
とても卑怯な言い方だ。
俺はただワガママに生きてきて、だから自分を悪い人間だと信じていたのに。
「ねぇ、紀依。警視監を殺した後、どうしてみんなの前から姿を消したの?
あの時でも紀依に味方する人間はたくさんいた。警視監が完全に証拠を消したと言っても、世界の洗脳はたった数日間だったし、全部だなんてあの人が思い込んでいただけで、結局はすぐに後から出てきた。
みんなに頼んで一緒に弁明してもらえば、紀依だってすぐに悪を打倒した英雄だと世に知らしめることが出来た。……どうして消えたの?」
なのに、それを”違う”と言われてしまったら、俺だって否定したくなってしまうではないか。
「……音無と風菜がヒーロー部に戻れたから、俺は邪魔だと思った。組織の刺客に襲われる可能性もあった。
俺がいなくなれば……大団円になるって、そう思ったんだ」
「……強大な犯罪組織を人知れず壊滅させて、自分を犠牲にしてまで皆の幸せを願った人間が、諸悪の根源なわけないでしょ。ばか」
衣月が軽くため息をつき、浴槽の湯が揺蕩う。
顔を上げ、両手を添えた俺の顔と更に距離を詰めた。
近い。
鼻息が当たってしまいそうな程に彼女の顔が間近にある。
「紀依は確かに悪事を働いた。心を守るためとはいえ、あまり良くない形で周囲を混乱させている。あのヒーロー部の人たちみたいに、清廉潔白な英雄なんかじゃないかもしれない」
もはや
しかし彼女は──それでも、と。
「正しい行いだってしてきたんだよ。少なくとも、いま紀依の目の前にいる人間は、そのおかげで命を拾っている」
俺の手を取って、自らの左胸に添えさせた。
パンのように柔らかく、艶やかで白皙な肌の奥で、確かに脈打つ鼓動を感じた。
「ほら、この動いている心臓」
「……あぁ」
「これは紀依のおかげで、今も強く高鳴ってる」
胸部に触れている俺の右手に、彼女も自らの小さな両手を重ねた。
愛おしそうに、想いを込めるかのように俺の右手を抱いている。
「私の胸、少し大きくなった。背もちょっとだけ高くなった。髪の毛も伸びたし、家事だって出来るようになった」
「それは……」
「うん、そうだよ、成長してるの。
私がこうして成長しながら生きていられるのは、常識を、自由を、笑顔を、命を──あなたがくれたから」
衣月は、笑った。
ごくごく自然に、優しい微笑みをしてみせた。
年相応の幼さを感じさせる、無邪気であどけない笑顔を、目の前で見せてくれたのだ。
無表情などではない。
人形なんかじゃない。
「私のヒーローは、あなただけ」
彼女には感情があって、それを相手に伝える力がある。
笑顔がある。
涙を流すときでさえ揺れ動くことのなかった彼女がいま、笑っている。
それは衣月が成長したから。
「紀依、過ちを認めるのはいい。でも、自分を責めすぎないで」
生きて、成長しているからに他ならない。
「正しいことをした自分の事も、ちゃんと認めてあげて」
そして成長を続ける衣月が今、生きているのは。
俺が、彼女を助けたから。
「コクじゃなくて、
言葉通りに、それを自覚した瞬間、少しだけ。
ほんの少しだけだが、俺は。
「……そう、だな」
ようやく自分の事を──認める事ができた気がした。
……
…………
「衣月にしては、今日は随分しゃべったな?」
「……そうかな」
少し経って。
風呂から上がった俺たちは夕食を済ませると、早々に布団を敷いてしまっていた。
寝るにはまだ早いという事でボーっとテレビを眺めていたのだが、そこでふと気になる情報が脳裏によぎった。
また相変わらず膝上に座ったまま置き物と化してしまった衣月に、今日は随分お喋りだったねぇといった旨の意見を告げると、彼女の肩がビクっと跳ねた。何だろうか。
「わ、わたし、成長したから。お喋りに、なった」
いや、なんかもう基本的に一拍あけるいつもの喋り方に戻ってるけど。
「使いやすいワードだな、成長」
「むむ……」
反発してみると、むくれた衣月は俺から離れ、毛布に包まってしまった。ミノムシみたい。
思い返すと少しだけ疑問が浮かんだのだ。
今日の衣月はなんだか普段と違って、かなり流暢に言葉を話していたな、と。
もちろん今までだって露骨に片言だったというワケではないが、あぁして俺を即座に論破できるレベルで今日ほどスラスラと会話できた日はいままでになかった。
まるで喋るセリフがあらかじめ決まっていたかのようだと、素直にそう思ってしまった。
特に警視監の証拠云々の辺りは……こう言っては何だが、衣月っぽくなかった。
賢すぎるというか、あの場で考えたにしてはあまりにも完成しすぎた理論を展開していた気がする。
衣月が良い子なのは百も承知なのだが、小学生があんなの即座に思い付くだろうか。
俺の説得に対して必死になってくれていたのは分かるしとても嬉しいが、衣月っぽいセリフはどちらかといえば『楽しいこと、気持ちいい事じゃないと、怖いことに蓋はできない』とかあの辺りだ。
「衣月?」
「な、なに」
「今日の放課後ウチの学園にきたとき、みんなが忙しそうだったから俺と帰ったんだよな。本当は誰と一緒に帰る予定だったんだ?」
「………………音無」
いやこれ十中八九あいつの入れ知恵だな……。
「衣月、もしかして俺のこと説得しようって、音無と話してた?」
「…………話してない」
目が泳いでますよ。
「そっか。ならいいんだけど」
「……ま、待って、ウソ。本当はちょっと、話した」
別に責めているわけでも誘導しているわけでもないのだが、根が良い子すぎる衣月は勝手に自白してしまう気質だったらしい。かわいいね。
「くしゃみの事は、まだ気づいてない。遊びのことも言ってない。でも、紀依が怖いのを我慢してるのは、分かってた」
「なら、今日はもともと話をする予定だったのか」
「んん。わたしより、音無の方が話したがってたから、任せるつもりだった。……でも、紀依が予想以上に……その、あれだったから」
そこは本当に申し訳ない。
衣月があぁして心の底まで暴いてくれなかったら、俺はいずれ壊れてしまっていたかもしれない。
この少女と、彼女を説得係に引き入れてくれたあの後輩は命の恩人だ。
「じゃあ話す内容は音無と決めてくれてたんだな」
「……大体の流れは、そうだけど」
恥ずかしそうに毛布の隙間から顔をのぞかせながら。
「八割は、わたしの言葉、だから」
「……そっか。ありがとな、衣月」
「ヤダ、忘れて。もうああいうの無理だから」
めっちゃ恥ずかしがってるじゃん。
まぁ、確かに彼女からすれば思い出したい会話ではないかもしれないな。
キザという程ではないけど、思い返せば恥ずかしいと感じるであろうセリフはいくつか言っていたから。
私のヒーローはあなただけ──とかを聞き返しでもしたら、嫌われるか一生口を利いてくれなくなるかの二択と化すのは間違いない。
「あ。そういえば身長伸びたんだってな。どんくらい?」
「……気になるの、そっちなの」
もう片方は聞けないでしょ。お前が成長して恥じらいを覚えたのなら尚更ムリです。
「胸を触らせたとき、ちょっと指を動かしたくせに」
「いや動かしてねぇだろ。てか、そもそも触れさせたのはお前……」
「うるさい。ロリコンのくせに、往生際がわるい」
「お嬢さん? あの不審者と同じ扱いにするの、結構ひどい仕打ちだよ?」
羞恥心が発生してる時の衣月、わりと毒舌だ。
罵倒のテンポにそこはかとなく音無みを感じる。ずっと一緒に居たせいかだんだん似てきたね……。
それにしても、あの不審者おじさんと同レベル扱いは少々不本意だ。
警察官の人によれば、あいつ本当に盗撮してたらしいけど、俺は誓って盗撮なんてしないからな。
「紀依は、ロリコンさんだよ」
毛布をキャストオフし、四つん這いで俺の方へ向かいながら、そう決めつける衣月さん。
なにを証拠にズンドコドン。
てか何でこっち来てんの。
「正座して」
「あ、はい」
「手を膝の上に」
「はい」
「目を閉じて」
「は……え、もしかして殴られる?」
ビクビクと怯えながら瞼を下ろした。
アポロは めのまえが まっくらになった。
「んっ──」
……………………っ?
「っ、ッ?」
唇に何かが触れた。
というか塞がれている。息ができない。
思わず目を開けると、視界には衣月しか映っていなかった。
「…………っ!?」
「んむっ」
本当に視界の全てが衣月の顔に埋まっていて、尚且つ唇が完全にふさがれていた。
俺が目を白黒させている間に、口腔内は体験したことのないお祭り騒ぎ状態に陥っている。
なにしてんだ、なにしてんだコイツ、マジで頭とち狂ったのか。本当に意味が分からない。
「ん゛ん゛っ……!」
「らめ。きぃ、く
柔らかく小さな舌が絡みついて、まるで軟体生物が這い回るような──とか呑気な事考えてる場合じゃねぇ!
引き剥がさなきゃ! コイツ俺との年齢差いくつあると思ってんだ!! ……ぁ、あれっ、そういう問題でもない気がする……。
たとえ何歳だろうとやっちゃダメなキスだろコレ。
「~~~っ!!」
「……んっ、ぷはっ。……うん」
「うん。じゃねーよ!!!」
「夜だよ。大声出さないで」
ひぃっ、平静を保ちすぎててこわい。
こんな大胆というか度を超えた不思議っ娘に育てた覚えはないよ俺は……どうして……。
「じーっ」
「なに……? 衣月ちゃんこわい……」
何やら俺の顔をじっと見つめたあと、すっと視線だけを下半身へと下げた。
すると彼女は数瞬だけ固まり、もう一度俺の方へ向くと、なんだか怪しげな笑みを浮かべて──ひとこと告げた。
「はい。ロリコン、完成」
「…………」
満足したかのように撤退し、衣月が自分の布団へ潜っていくのを見つめる。
……俺は。
おれは何もしてない。
ロリコンだと思われるようなことは何もしちゃいない。あんなの衣月の早とちり。勘違いだ。
なので、心当たりのない事は調べる必要すらないので、俺は自分の下半身へは絶対に視線を下げないまま、めちゃめちゃ上だけを見ながら寝床へ入っていくのであった。
◆
「アヤトくんは、好きな子とかいないの?」
「いるわけねーだろ。みんな子供っぽいしな」
「ほぇー、アヤトくん大人……あっ、衣月ちゃんだ。おーい」
「えっ、藤宮っ!?」
早朝。
昨晩とんでもない事件を起こしやがったロリっ娘を小学校へ送り届けるため、彼女と一緒に住宅街を歩いていた。
すると、公園の前にランドセルを背負った集団を発見した。
アレは衣月が合流する予定だった登校班だ。
俺が同伴するのはあの公園までで、衣月は途中からあの班に交じって学校へ向かう手筈になっている。
どうやらその中の女子一人が気づいたようで、こちらに手を振っている。衣月が何気なく振り返しているあたり、よくある事のようだ。稀に寮ではなくウチで寝泊まりすることもあったのかもしれない。
「おはよう、
「……お、おう」
「おは。今日はあっちのお家からなんだね」
「びっくりさせんなよな、まったく……」
恋バナになぞまるで興味を示していなかったアヤトくん(仮称)が、衣月が合流した途端に顔を赤くしてそっぽ向いてしまった。分かりやす過ぎてかわいい。
アヤトくん絶対お前のこと好きじゃん。
同年代との恋、俺は応援してるぞ。
「あれ? 衣月ちゃん、今日はお姉さんと一緒じゃないんだ」
「うん。この人は、近所のお兄さん」
「へ、へぇ……高校生の、男の人……あっ、ど、どうも!」
「おはよう。衣月のこと、よろしくね」
「はい!」
お辞儀はするし返事も明るいし、めっちゃ礼儀正しい女の子だな。
柴乃ちゃんだっけ。衣月とも仲良くしてくれてるのかしら。
「う、うっす」
アヤト君も返事を返してくれた。みんな良い子ですわ。
──今朝、衣月とこれからの事について話したのだが、しばらくはこのまま現状維持という事に決まった。
衣月曰く『ついた嘘には責任を持つべき。なんなら本当にしてしまえばいい。コクの件は私も協力するから、なんとか誰も傷つかない方法で終わらせよう』との事だった。
彼女は未だに美少女ごっこが俺の精神的な支えになっていると思っていたらしい。だから嘘を拡散することはしない、と。
それにどうやらマユも、衣月と同じような考えで俺に協力してくれていたようだ。俺より俺を理解しているやつが多すぎる。
加えて、今朝は悪夢を見なかった。
完全に克服したとまではいかないのだろうが、少なくとも己の心の弱さと向き合うだけの準備は、僅かながらに出来たような気がする。
支えになると宣言してくれた人がいる以上、俺もただ流されるだけではいけない。
いつかペンダントが無くなっても自分の足で立っていられるように、少しずつ強くなっていかなければ。
がんばるぞ、むん。
「……そう言えば藤宮。昨日、ロリコンの盗撮魔が出たって、噂で聞いたんだけど」
一旦家に帰ろうとしてその場を離れかけたのだが、アヤト君の声がつい耳に入ってきてしまった為、足が自然と止まった。
「えっ、あたし聞いてない! 衣月ちゃんはだいじょーぶだった……!?」
「大げさ。わたしは襲われてない。あと、そのひと現行犯で捕まったって、噂で聞いた」
あぁ、そこははぐらかすのか。
確かに同級生に余計な心配はかけさせたくないものな。そりゃそうだ。
「い、いやでも、やっぱロリコンとか気をつけた方がいいぜ。ほら、藤宮ってかわ──ねっ、狙われやすそうだろ? よわそうだし……」
「こらアヤトくん!」
「わっ! えと、ちょっ、違くて!」
「まぁ、アヤトが言うことも、確かに一理ある」
同級生の言葉に相槌を打ちながら、曲がり角へ差し掛かる直前に、なぜか衣月が一瞬だけこちらへ視線を向けた。
「ロリコンには──気をつけないとね」
そして、また一瞬だけ、小さな笑みを浮かべて。
彼女は愉快な仲間たちと共に、自らの学び舎へと登校していくのであった。
…………完全にロリコン認定されてしまった俺は、半泣きになりながら学園へ登校するのだった。