妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
葬式が終わった。
父さんは事務処理で忙しそうにしていて、その表情には隠しきれない疲れが出ていた。けれど僕たちを気遣ってか、決して悲しい表情を見せない。
母さんを喪って悲しいのは父さんだって同じはず。それなのに、まだ幼い僕たちを守るために奔走している。
『……遥なら、僕が見てるから大丈夫だよ』
幼心にも僕は、まだやらなければならない公的手続きがたくさんあることを理解していた。
家に帰ってきてから、妹はずっと部屋に引きこもったままだ。本当なら行きたくなかったはずなのに、必死に我慢していた。それが、母さんとの本当の決別になってしまうと分かっていたから。今はその反動でひどく疲れ切ってしまっていた。
だから僕は、少しでも父さんの役に立ちたくてそう言った。
父さんは僕の言葉に目を見開きながらも、すぐに表情を崩して僕の頭を撫でた。
ひどく優しくて、心苦しそうな表情だった。
……
……
部屋のドアをゆっくりと開く。二つの勉強机が隣同士並んでいて、その横にはそれぞれ黒と赤のランドセルが掛けられている。他にも本棚やテーブルがあるこの部屋は、僕たち双子の部屋だった。
ベッドの上には、体育座りして俯く女の子。
僕の双子の妹だ。
座り込んで膝の間に顔を埋めているため、顔はよく見えない。視界を閉ざすように、周りの全てを遮断するように塞ぎ込んでいた。
僕は妹の隣に座った。広い空間に二人きりでいると、ここでの日々を思い出す。仲良く遊ぶこともあれば、思いっきり喧嘩することもあった毎日。
それなのに、騒がしく賑やかだったこの部屋には、いつの間にか暗くどんよりした空気が流れるようになっていた。
『……』
カチカチと、時計の針が進む音だけが響く。時間は決して止まることなく、次第に日は暮れ始めていた。部屋に差し込む光がオレンジ色に変わっていく。
『……かなた』
『……ん……?』
小さな声が耳に届いた。
天井を眺めていた僕は、隣の妹が少しだけ顔を覗かせてくれたことに気づいた。妹は母さんが亡くなってから、まるで人形のように何も話さなくなってしまった。でも今、妹は確かに声を聞かせてくれた。そんな些細なことが、僕には嬉しかった。
だけど。
『おかあさんは、どこにいっちゃったの……?』
『……』
僕は何も答えることができない。何をどう言ったところで、僕はきっと嘘をつくことになる。
だって、どこに行ったのかなんて、僕にも分からないのだから。一つだけ分かっているのは、ここではないどこかということだけだった。
『どうして……おかあさんがいないの……?』
夕方の光が妹を照らす。もうそろそろ夕飯の時間。
下のリビングからは包丁がまな板を叩く音が聴こえてきて、廊下に出れば母さんの作る料理の良い匂いがするはずで。母さんが、ご飯だよ、ってこの部屋まで呼びに来てくれるはずで。
なのに、今は何も聴こえない。
妹だって本当は分かっている。
『……おかあ、さん……』
『っ……』
いつの間にか、僕の手は震えだしていた。妹の寂しそうな声に胸が苦しくなり、今すぐにでも泣いてしまいたくなる。
いつもこうだ。肝心なときに限って僕は、泣いてる妹のために何をしてやることもできない。
震えは次第に大きくなり、僕の心を壊そうとしてくる。道標を失った旅人のように、どこへ向かえばいいかも分からない。
僕は思わず顔を逸らして──
『……あ』
──壁に掛けられたコルクボード。
そこには一枚の写真が飾られている。写真の中には無邪気ににっこりと笑う僕と妹がいて、後ろには穏やかに微笑みながら佇む父さんがいて。
そして、僕と妹の隣にいるのは母さんだった。
僕たちを愛おしそうにかき抱く母さんは、きっと世界の誰よりも綺麗だった。学校で嫌なことがあったときも、怪我をして痛みで泣き出してしまった日も、母さんは僕たちを抱きしめてくれた。その温もりは、この世で一番安心できる場所だった。
僕はまだ子どもだ。父さんみたいに仕事でお金を稼いだり、母さんみたいにおいしい料理を作ったりすることもできない。自分にできることなんてたかが知れていて、何をどうすれば元に戻るのかも分からない。いや、もう元に戻ることなんてできないのだろう。
……でも。
『……』
震える手を無理やり抑えつける。
挫けそうな心に喝を入れ、深呼吸する。
そして──
『……ぇ……』
妹を抱きしめた。
僕がやらなきゃいけないのは泣くことなんかじゃない。妹を守ることだ。
母さんがそうしてくれたように、今度は僕が。
『……かな、たぁ……』
おずおずと、背中に手が回される。気の利いた言葉なんてかけることができなかった。だから僕は、黙って妹を強く抱きしめ、涙を受け止める。今の僕にできることはそれくらいのものだった。
『かなたっ……かなたぁ……』
胸にしがみつく妹はぼろぼろと涙を零した。服の濡れた部分からゆっくりと熱が広がり、僕に溶けていく。
遥は僕の双子の妹。生まれを同じくした元は一つの存在。
僕が泣かなくても遥が泣いてくれる。だから、僕はもう泣かない。
その代わりに僕は、妹の傍にいよう。僕の分も泣いてくれる妹のために、傍にい続けよう。
大丈夫。
僕はどこにも行かないから。
「……」
目が覚めた。
視界に広がる白い天井は見慣れた景色の一部。掛布団にすっぽりと包まれた体をゆっくりと起こす。すると、頭にかすかに痛みが走った。痛む頭に顔をしかめながら、おぼろげに記憶を掘り返す。
……僕は、いったい……。
「……?」
額に違和感を覚え、手を当てる。ぴちゃっと、濡れた何かが触れた。手繰り寄せて確認すると、それは濡れたタオルだった。
そうだ、思い出した。僕は今朝、体調が悪くてそのまま……。
……そのまま?
「……彼方……?」
「……え?」
隣から聞こえた声にドキッとする。この部屋には、僕しかいないと思っていたから。
声のした方に視線を向ける。
そこには床にペタッと座り込んで僕を見上げる妹の姿があった。
……
……
「……私、全然気づかなかった」
「いや……僕の体調管理が悪かったんだ」
遥が濡れタオルを交換しながら話す。
話を聞くと、どうやら僕が倒れてからずっと看病してくれたようだった。僕は一日中眠っていたみたいで、いつの間にか夕方になっていた。こんなに眠ったのは久しぶりだ。
学校はどうしたのか訊くと、僕と遥の二人とも欠席すると連絡をしてくれたらしい。
近頃は風邪なんてひいたことがなかったから本当に油断した。別に寝不足だったわけでもないし、毎日のご飯も栄養バランスを考えて作っている。単純に、僕の気が緩んでいただけだろう。
「ごめんね。迷惑かけちゃって」
「……もう、大丈夫なの?」
「うん、だいぶ良くなったかも。遥のおかげかな」
床のカーペットに女の子座りしたままの遥。その瞳は不安そうに揺れていた。
頭痛もある程度収まってきたし、この分だと熱も下がっているだろう。ときどき咳が出たり喉が痛かったりするが、そのうち治ると思う。
テーブルの上を見れば、スポーツドリンクやのど飴が入ったレジ袋。薬局にでも行ったのか、市販の風邪薬も買ってきてくれたようだ。
「……あれ?」
ふと、テーブルの上におぼんが置かれていることに気づいた。小さな鍋の蓋の隙間からは、白いおかゆが見える。
「これ、遥が作ってくれたの?」
「えっ……あ」
指摘すると、何故か恥ずかしそうにしながらテーブルと僕の間に体を挟んで隠してしまう。
「なんで隠すの?」
「……あんまり、自信ない」
ごにょごにょと尻すぼみになる遥の言葉。そして落ち込んだように顔を伏せてしまう。どうやら遥が作ってくれたらしい。
おかゆって別に難しい料理じゃないし、そもそも味付けする要素がほぼないから逆にまずくなることはないと思う。
まあ、妹の気持ちも分からないでもない。自分で作った料理を食べてもらうときは結構緊張するものだ。僕はもう、慣れてしまったけれど。
……。
「あ」
おぼんに置かれていたスプーンで掬って一口食べた。当然ながら味は特にないし、水の量を間違えたのか少し硬めのおかゆだった。
でも、冷めきったおかゆはひんやりとしていて、熱に浮いた頭に心地よかった。
「……おいしくないでしょ」
僕が食べたのを見て観念したのか、心なしかうなだれたように肩を落とす。そしてぼそっと、気まずそうに言った。
「そんなことないよ?」
「……嘘。だって、味見したけどおいしくなかったし……」
味がなくてもおいしいと思っているのは本当だ。でも妹の方は納得してくれてないようだ。残ったおかゆを器によそって、しばらく妹の作ってくれたおかゆを食べ進める。とりあえず明日からは、お腹に優しいものを食べて回復に専念しよう。
「……」
チラチラと。
様子が気になるのか、視線がときどき僕の手元に移る。
「……あの、そんなに見られると食べにくいんだけど……」
「……見てない」
ふいっと顔を背けられる。僕はちゃんと全部食べるつもりだ。妹の折角の手料理なのだから。
カチャカチャと、スプーンと食器がぶつかる音が静かに響く。遥はその間中、やっぱり気まずそうに何度も僕の様子を確認していた。
不思議な感覚だ。この部屋に妹がいるという状況は、ほぼあり得ないことだったから。まるで夢でも見ているかのようだった。
一日中何も食べていなかったからか、割と食欲はあって、僕はあっという間におかゆを食べ終えた。
まあ、元々の量が少なめだったというのもあるけれど、今の僕のお腹具合には丁度良かった。
「……ごちそうさまでした」
綺麗に食べ終わったのを見て、遥はほっとしたように胸を撫で下ろす。風邪をひいたのなんて、小学生以来だろうか。ほとんど記憶がない。高校に入ってから初めての欠席だ。
遥は「片付けてくる」と言って、食器を持って下のリビングまで降りた。それにしても、遥には申し訳ないことをしてしまった。僕のせいで学校を休む羽目になってしまったし、授業の内容も遅れてしまうだろう。
……いや、心配するべきなのは僕の方かもしれないけれど。
明日の時間割を確認するため、枕元のスマホに手を伸ばす。
「……あれ……」
そこには、見慣れないものが表示されていた。表示された画面には、メールの着信通知。
差出人は茜。
開いて内容を確認すると、『風邪って聞いたけど、大丈夫? 早く元気になってね!』と書いてあった。
体が弱るときは心も弱ると言う。それに、こんな風に気遣ってくれる人なんて今まで周りにいなかった。言葉にしてみれば短い文章。だけど、そんな些細な言葉が僕には嬉しかった。
茜に『ありがとう。明日には学校行けそう』と返信をし、スマホの電源を落とす。それと同時に、階段を上る足音が聴こえてくる。
遥が体温計と水の入ったコップを持って戻ってきた。
「……これ。薬」
「うん、ありがとう」
レジ袋からパッケージを取り出して僕に差し出す。市販の風邪薬だ。箱を開封して、白い錠剤を水と共に喉に流し込む。冷たい水が喉を潤す感触が心地よくて、ふぅと息を吐いた。
続いて体温計を脇に差し込む。服の隙間から入り込む空気は冷たく、思わず体を震わせた。一分も経たず、ピピっと体温計の音が鳴り響く。取り出して数字を確認すれば微熱。朝の感じからすればもうちょっと高いかと思っていたけど、意外にも大したことはなかった。
「……どうだった?」
「ん……たぶん大丈夫。この分だと、明日には学校に行けそうかな」
一日くらいなら問題ないけど、これ以上休んでしまうと授業の内容に追いつけなくなりそうだ。ただでさえ授業に着いていくのに手一杯だし、明日から取り戻さないと。
そんなことを考えながら体温計をケースに戻し、遥に手渡す。
「……」
「……?」
すると、妹が何故か唖然としていることに気づいた。まるで、僕が信じられないことを言ったとでも言うような表情だった。
互いの間に数舜の沈黙が流れる。ケースを一向に受け取らない遥は、次第に険を含ませながら目を細めた。その目許には、怒りに似た何かが籠っていた気がした。
「……なに言ってるの?」
「え?」
「明日は病院に行かなきゃだめ。付き添うから」
「……別に、行かなくて大丈夫だと思うけど」
だいぶ楽になったし、大した問題はなさそうだ。一応、明日の様子を見て判断しようとは思ってるけど、今のところは病院に行かなきゃいけないほどつらい感じはしない。
でも遥は、楽観的な僕の態度が気に食わないのか、ますます目を細めて僕を睨みつけた。
「だめ。絶対に行くの」
強い口調で言葉をかぶせる妹。静かで凛とした物言いの中には、有無を言わさないような頑固な気持ちが垣間見えた。
……そういえば、遥は制服のままだ。ひょっとして、文字通り付きっきりで着替えもせずに看てくれたのだろうか。妹は思ったよりも心配性らしい。
病院に行かなくても寝ていれば治ると思うんだけどな……。
「……大袈裟だなあ」
らしくない妹の姿に、懐かしさにも似た何かを感じた。こうして心配してくれるのは嬉しいけれど、正直、妹がここまで僕の面倒を見てくれるとは思ってなかった。普段から受ける印象のせいか、どうにもちぐはぐな感じが否めない。
だから僕はそうやっておどけてみせた。半ば、からかう気持ちも含まれていたかもしれない。こんなことを言うと、いつもみたいにそっけない態度で返されてしまうだろうか。
反応を見ようと、再び遥の顔を窺う。
「……い」
「……?」
ぽつりと呟かれる言葉。
僕の思いとは裏腹に、妹は顔を伏せてしまった。
制服姿のままの妹は、スカートの裾をしわくちゃに握りしめながら声を震わせる。部屋に差し込むオレンジ色の光が、少しだけ輝きを増した。
今は夕方の時間。そろそろ下のリビングで、夕飯の準備に取り掛かる時間だった。
「大袈裟なんかじゃっ……ない、……っ」
二人きりの部屋の中で、妹の声が響く。小さくてか細い声は、いつもの芯の通った声音とは全然異なっていた。
涼やかで日本刀のように澄んだ空気を纏っていた妹はその面影もなく、ひどく弱々しい声で言葉を吐きだす。今にもくずおれてしまいそうな妹の姿に、僕は固まってしまった。
「心配っ……したん、だからっ……」
強く握りしめた白い手は、何かを我慢するように震えている。アネモネの花を模したヘアピンが、オレンジ色の陽光に照らされて輝いていた。
伏せていた顔が上がった。
「彼方までっ……いなくなったら、私……っ……」
「……あ……」
唇を噛みながら。
流れ落ちそうなくらい、雫をいっぱいに溜め込んで。
切れ長の目も、頼りなく落ち込んでいて。
──在りし日の記憶が蘇る。
『──かあさん!』
僕と妹がその言葉を口にすれば、いつだって母さんは穏やかな顔で頭を撫でてくれた。母さんらしい、たおやかで優しい手つきを今でも覚えている。
だけど、それはもう遠い昔の思い出。今ではすっかり言うこともなくなってしまった言葉だった。
死んだ人は決して蘇らない。
僕と妹を大切に育ててくれた母さんはもういない。
人の死というものが、いかに簡単に訪れるかを僕たちは知っていた。知らざるを得なかった。天命や運命に逆らうこともできず、その瞬間を怯えながら待つことしかできない。でもそれは、あまりにも残酷だ。
窓の外から夕暮れの光が差し込んできて、あふれ出しそうな雫に反射して煌めく。
「……遥」
どけた掛布団の隙間から、涼やかな空気が流れ込んでくる。体の節々が痛かったけれど、無理やり妹の方に身を寄せた。
「……っ、えっ……」
そっと、頭を撫でた。
触れた瞬間、ピクっと体を強張らせたのが分かった。握りしめた手は未だに膝の上のままで、じっと動かないままだった。
ゆっくりと妹の頭を撫でる。ずっと昔を思い出すように、あの頃に戻れるように。
久しぶりに触れた妹の髪は思った通り、とても触り心地がよかった。
「なに……するのよ……」
「……ごめん、遥。心配かけて……」
「あやまら……ないでよっ……」
遥は抵抗せず、おとなしくしていた。手のひらに伝わる体温は温かく、髪に指を滑らせるたびにほのかな甘い香りがして、やわらかく鼻をくすぐる。
……そうだよね。僕は約束したんだ。絶対に傍を離れないって。
思い返せば、なんて自信過剰な言葉だったんだろう。幼子が抱く将来の夢みたいに、何の邪気もない言葉だった。成算もなければ、守れるかどうかも分からない無鉄砲な言葉。
「かなたの……ばかっ……」
「はは……きついなぁ」
甘く睨みつけながら紡いだ言葉は、その意味に反するようにひどく弱っていた。だからその罵倒は、甘んじて受け入れよう。そんな掠れたような声で言われても、まるで迫力がない。
……もしかしたら、僕は妹のことを誤解していたのかもしれない。
小学生から中学生、中学生から高校生になって。僕たちは成長し、それなりに人生を歩んできて経験を積んできた。僕と妹は双子の兄妹だけど、それぞれ別の存在だ。人生の中で培ってきた価値観も違えば、考え方も違う。
それでもきっと、変わっていないこともある。
僕はやっと、分かった気がした。
「……」
夕暮れの光が差し込む。陽の光はまだ衰えず、カラスの鳴く声も聴こえない。
窓越しに外を見れば、空に棚引くうろこ雲が少しずつ解けていくのが判った。
明日は晴れだろうか。できれば、いい天気になってほしいな。
静かで穏やかな夕焼けの時間。
しばらくの間、昔のように妹をあやし続けた。