妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
お風呂上がりの体にひんやりとした空気が心地よい。一日のやるべきことから解放され、あとは眠りにつくだけ。
ガラッと窓を開けた。室内とは裏腹に冷たい空気が入り込んでくる。外の明かりはぽつぽつと消えていて、街は静まり返っていた。
僕はぼうっと、絆創膏が貼られた指先を宙にかざした。静謐な夜の時間には、頭上の月が淡く輝いていて、その周りをぼやけた輪郭が縁取る。
「……?」
スマホの着信音。手に取って表示された名前を確認する。やっぱり、と思った。
「……もしもし? どうしたの、茜」
『あ……うん。夜遅くにごめんね』
数時間前も聞いた声。でも、電話越しだとどこか違う雰囲気を感じた。窓枠に肘をかけ、外を見ながら茜の話を聞く。
『その……遥ちゃんのことなんだけど。ごめんね? あたし、怒らせちゃったみたいだから……』
「……」
案の定、茜は今日のことが気にかかっていたらしい。
結局、あれから間もなくして今日のところは解散となった。秋も深まるこの時期、あまり遅くまで作業してると日が暮れてしまう。茜は電車通学だし、なるべく早く解散したほうがいいという話になった。
茜を見送った後は約束通り、遥に夕飯の支度を手伝ってもらった。けれど、当然と言えば当然だが、機嫌はあまり良くなかった。近寄りがたい空気をこれでもかというくらい放っていて、僕はそれに怖気づきながらも料理を教えた。ただの料理なのに、結構疲れてしまった。
「あまり気にしないで。妹はちょっと気難しいところがあるから……。周りと交流を深めたがらないし」
『……そう、なんだ』
妹の性格を口に出して思う。果たして、それは本当に合っているのかと。一時期、会話もほとんどなかった妹。僕が昔の思い出に重ね合わせて、そういう性格だと勝手に思い込んでるだけということも考えられる。
『……あたしさ。前から遥ちゃんには会ってみたいと思ってたんだ。いったいどんな子なんだろうって。お話してみたいなって』
「……」
『でも今日。カナから昔のことを聞いて、内心だと同情してたかも。……ちょっと、あたしらしくなかったでしょ? 遥ちゃんは、もしかしたらそれが分かってたのかな……』
反省した声色に、僕は申し訳なさを感じた。
「……いや、僕が昔のことを勝手に話し始めたのがいけないんだ。こっちこそごめんね」
『ううん、謝らないで。……不謹慎かもしれないけど、嬉しかったから』
「……え?」
……どういう意味だろう。
『カナって、自分のことを全然話さないから。だから、カナが自分から話してくれて嬉しかったんだよ?』
「……」
茜はどうして、そういう優しい言葉をかけてくれるのだろう。僕と茜はただの他人。よその家の話なんて対岸の火事。聞かされる側としてはそれを知ったところでなんとも思わないのが普通だ。
そもそも僕はどうしたいのか。僕は最初、茜を遥に紹介しようとしていた。僕にとって茜は大切な友達だけど、言ってしまえばそれだけだ。その友達を妹に紹介したところで、何が変わるわけでもない。
「……」
……本当に?
本当に、変わらない?
僕は何故、茜に昔のことを話したいと思ったんだ?
──あそこの家。お母さん、亡くなったらしいわよ。
──まだ小さいのに。可哀そうにねぇ……。
「……あ」
……そうだ。
茜の気持ちは決して、同情なんかじゃない。
だって、僕は知っている。本当に同情や憐れみを含んだ表情を、僕は知っている。もし同情なんてしていたら、こんな電話はかけてこない。
僕が自分のことを話さないのは、そういう目を向けられるのが嫌だからだ。そんな僕が何故、茜に昔のことを話したのか。
それは無意識の内に、茜なら僕たちを見る目を変えることはないと確信したからだ。
「……」
『カナ?』
「ん……?」
『またちょっと、元気ない?』
黙り込んだ僕を気遣う優しい声。彼女は自分のことを周りに合わせてしまうと言っていた。どちらかと言えばネガティブな捉え方だ。でもそれは、裏を返せば誰よりも心の機微に敏いということだ。
「……」
窓をゆっくりと閉めた。
「茜。お願いがあるんだ──」
「……それで。なんで私がまた呼び出されなきゃいけないわけ?」
茜を初めて家に招いてから数日後。
僕の目の前には、不満な様子を隠しもしない妹がいた。
「あはは……」
頬をかきながら、妹の睨みに対して苦笑いした。遥がうんざりした顔をするのも仕方ないかな、とは思った。
だって。
「遥ちゃんって、小説に詳しいんだよね? あたし、この本読んだんだけど──」
こうしてまた、茜に家に来てもらったのだから。
文化祭の準備という建前ではあった。いや、実際に準備もしているにはしているのだが、狙いは別のところにあった。その狙いは至って単純。茜と遥に仲良くなってほしいから。
茜はカバンの中から数冊の本を取り出して遥の前に並べる。すると、遥も読んだことのあるものがあったらしく「あ……」と小さく声を上げた。
「……これなら、読んだことあるけど」
「ほんと? あたし、このシリーズ最近読み始めたんだけど結構好きなんだ」
茜は遥との話題作りのために読書を始めたらしい。僕もそれなりに読書はしてきた身だから、茜には僕のおすすめの本をいくつか紹介した。
本の内容をさらいながら遥に感想を話し始める茜。ちゃんと読んできているらしく、話している内容は付け焼刃の知識ではなかった。本一冊読むのも大変なはずなのに。
「貴方って、本は読む方なの?」
「……ううん、あんまり。だけど、遥ちゃんが読書好きだって知ったから。何か共通の話題にならないかなって」
「……それだけ?」
「うん」
遥は茜の言葉に流石に驚いたらしく、目をしばたかせた。妹からしたら不思議なことこの上ないだろう。わざわざ自分の趣味に合わせるために読書を始めましたと言うようなものだから。
……それは、僕も人のことは言えないのだけど。
茜がセミロングの茶髪を揺らしながら、柔和な笑みを浮かべる。妹の方はそれとは対照的に、訝し気な顔をしていた。
「よかったら感想会とかしてみたら?」
「……なんのつもり、彼方」
「せっかくの機会なんだしさ、ほら」
やや強引に話を進める。不自然な感じは否めない。妹は小さく嘆息しながら、「分かったわ」と口にした。
「やった! それじゃあ──」
茜が読んできた本の感想を話し始める。
妹は最初、茜に戸惑っていたけど、だんだんと話をするようになった。妹は文芸部だ。なんだかんだ言って、本の話をするのは好きらしい。
茜があのシーンの登場人物の気持ちはこうだったんじゃないかと話せば、妹の方はそれは違うのではと根拠を元に論理的に説明する。けれどいくつかは、茜の考えに同意していた部分もあり、何も頭ごなしに言ってるわけじゃないことは分かった。
隣で聞きながら裁縫の作業を進める。一本一本、丁寧に糸を紡いでいく。
そういえば、何かの本で、人生は長い一本の線に例えられると読んだことがある。そしてそれは、この糸のように複雑に絡み合って、人と人との触れ合いをもたらすのだとか。
当たり前だけど、人生は一人に対して一つしかない。もし誰にも触れ合えないままだとすると、それは途方もない孤独なのだろう。僕がこれから先、どういう人生を歩んでいくかはわからない。もしかしたら、その“もしも”の人生を進んで、孤独になってしまうかもしれない。
「……」
埋没しかける思考。そのとき、茜が疲れたように床に後ろ手をついた。
「はー。やっぱり文芸部ってすごいんだね。そんな細かいところまでは気づかないよー」
ぐでーっと、簡易テーブルの上に突っ伏す茜。評論会は順調に進んでいるみたいだった。途中からは全然話を聞いていなかったけれど、どうやら遥に軍配が上がったらしい。……いや、別に勝負じゃないからその言い方はおかしいけれど。
遥はティーカップの紅茶を一口啜った。そして、茜を見ながらポツリと話し始めた。
「……別に、私の考えが正しいとは限らないわ。結局、登場人物が何を考えているのかなんて、作者にしか分からないもの」
本のカバーに手を添えた。白く細い指先が表紙を滑る。妹は小説を書いてると聞く。それも恋愛の。その話をすると怒り出してしまうから訊くことは中々できないけれど、書き手としての気持ちもそこには含まれているのだろう。
「物語は、それを読んだ人が好きに解釈すればいいのよ」
「……」
茜がきょとんしながら遥を見た。遥はそれに気づくと、小さく咳払いした。妹にしてはいつになく熱い口調で、僕も聞き入ってしまった。
「遥ちゃんって、結構ロマンチスト?」
「なっ……」
茜が少し、からかい混じりの目をする。小首を傾げながらいたずらっ子のような笑みを浮かべる姿は、いかにも女の子らしくて可愛かった。
遥は茜の言葉を受けて、白い頬を紅潮させた。慣れないことを言った自覚はあるらしい。ぷるぷると震える妹は、唇を引きつらせながら茜を軽く睨んだ。
「あ、貴方ねぇ……!」
「バカにしてるわけじゃないよ? そういうの、素敵だなって思っただけで……」
遥はしばらく何か言いたそうにしていたけど、またも軽く咳払いして落ち着きを取り戻した。よっぽど恥ずかしかったのだろうか。妹の感情的になった様子を見るのは久しぶりだ。
「……そっか」
茜のやわらかな笑み。少しだけ、部屋が明るく染まった気がした。
「……ねぇ、遥ちゃん」
茜はカバンの中からスマホを取り出した。可愛らしいオレンジ色のカバーがついたスマホだ。
「よかったら連絡先、交換しない?」
差し出されたスマホを見て、遥は固まった。数秒ほど沈黙が続く。
「……どうして、いきなり?」
「んー……。本のお話とか色々聞いてみたいなって」
茜は更に、「それに」と付け加えた。
「遥ちゃんと仲良くなりたいから……って理由じゃ、だめかな?」
「……」
茜の真っすぐな問いかけ。これには遥も流石に驚いたらしく、幾ばくか目を見開いた。そして、僕をちらっと確認する。まるで、僕が仕組んだことなんじゃないかと疑っているようだった。
確かにその通りだ。だけど、茜の気持ちは純粋な本心だ。人との触れ合いが必ずしもいいこととは限らないし、遥にとってそれは不要なものだと切り捨ててしまえるようなものかもしれない。複雑に絡み合った糸が大きな歪となって、解けない傷として残ってしまうかもしれない。
でも、やっぱり人の優しさに触れるとあたたかくて、嬉しくて。僕は遥にも、それを知ってほしい。
僕は遥に小さく頷いた。
「……」
茜の眼差しは、真っすぐ遥を見つめていた。妹は逡巡するように黙り込みながら腕をさする。白く小さな手が、小さく動く。
数秒か、数十秒だったか。分からないけれど、悪くない沈黙だった。
「……はぁ」
やがて観念したのか、一つ嘆息した。
「……分かったわよ」
呆れたようでいて、でもどこかあたたかな吐息だった。
「遥は文化祭、誰と回るの?」
「……回らない。だって楽しくないもの」
最近になって、夕飯を二人で準備するのにも慣れてきた。遥は濡羽色の長い髪を結わえてポニーテールにしている。
そっけなく呟く遥。表情には翳りが見えた。蛇口から水の流れる音がやけに響く。学校行事にそこまで思い入れがないのは遥もまた同じだった。
「美玖は?」
「……美玖は楽しむ気満々だったけど、私は部室で大人しくしてるつもり」
そう言って遥は、再びおたまで鍋の中をかき混ぜる。ぐるぐると回る中心部には小さな渦ができていた。僕はその横で、トントンと包丁を使って野菜を切る。丁度、人ひとり分くらいの距離が僕と遥の間に空いていた。
「……彼方は、どうなの?」
「僕は茜と回ろうかなって。誘ってもらったから」
茜に言われたことを思い出す。茜は僕と一緒に文化祭を回りたいと言ってくれた。彼女の人間関係を全て把握してるわけじゃないけど、僕じゃない他の誰かでもよかったはずだ。なのに僕を誘ってくれたのは、気遣ってくれたから。
もし、僕がここで文化祭に対して否定的になってしまえば、茜の優しさを無下にすることになってしまう。正直、どういう風に楽しめばいいのかは今も分からない。だけど、茜と過ごす時間自体は決して嫌なものじゃない。だからきっと大丈夫だと思う。
僕は内向的な性格だ。でも、茜のおかげでちょっとだけ前向きになろうと思えた。
思い返していると、いつの間にか鍋をかき混ぜる音が消えていることに気づいた。横には、じーっと僕を見る遥の姿。おたまを回す手が止まっていた。
「……彼方。一つ訊きたいんだけど」
「……? なに?」
ぐつぐつと。鍋が煮える音だけが聴こえる。白い湯気が上り、その途中で霧散していた。
「……彼方は、あの子のことが好きなの?」
「……え?」
遥の質問の意味を、すぐには理解できなかった。だけど、それが異性に対してのものだと気づいて、僕は言葉を返した。
「友達として好きだけど……。どうしたの? そんなこと訊いてくるなんて」
「……」
遥の、濡羽色の長いポニーテールが揺れる。
同時に瞳の波紋も揺らめいた。
僕はその光景に既視感を覚えた。どこで見たものか思い返そうとすると、割合すぐに思い至った。
そうだ。茜に好きな人がいるかと訊かれたときと同じだ。今日だけで二回も同じような内容の話をするとは思ってなかった。
遥は僕から目をそらした。そして、腕を手でさすりながら「彼方は……」と小さく。
「……私に好きな人がいるって言ったら、どうする?」
「……え」
トン、と。包丁を持つ手が止まった。
一瞬、頭の中が空白で埋まる。
それが、遥の口から語られたものだとすぐには認識できなかった。異世界での遠い出来事のように感じてしまうのは、僕に恋愛経験がないからなのか、もっと別の理由なのか。だけど、言葉の意味はすんなりと飲み込めた。
……妹に好きな人がいたらどうするか、か。以前も僕は同じことを考えた。刺々しく、冷たい性格の妹にもし、そんな相手ができたのなら。
そんなの簡単だ。僕が兄としてできることは……。
「もちろん応援するよ?」
妹の方を真っすぐ見ながら答える。今まで生きてきた時間の中で、僕は恋愛を経験したことがない。でも、応援くらいはできる。
……しかし、どうしたのだろう。こんなことを訊いてくるなんて、はっきり言って妹らしくない。
「まあ、遥が好きになった人なら、きっと間違いないんだろうね」
特に何も意識せずそう言った。まさか遥に想いを寄せてもらえるような相手がいるとは思わなかった。いったいどんな人なんだろう。部活の先輩、後輩。それとも、クラスメイトの内の誰かだろうか。取り留めもない考えを巡らせる。
「……?」
僕は、妹が落ち込むように顔を伏せてしまっていることに気づいた。濡羽色のポニーテールが、力なく垂れ下がっているようにも見える。頼りなく、元気なさそうな姿。
「……そんなわけない。きっと、間違ってる」
「……? それって、どういう……」
「……ごめん。やっぱり、今の話は忘れて」
僕が問い返そうとすると、遥は拒否するように自分の作業に戻った。怜悧と凛然を備えていたはずの遥が、今はその欠片もなかった。
そこに宿るのは、どうすることもできないやるせなさ。届かないものに対する悲しみの諦念だった。
僕はその横顔に、それ以上声をかけることができなかった。