妹と仲直りしたい   作:Shinsemia

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 今回はかなり長くなってしまいました。すみません……。


第十五話

 

 

 喫茶店を模したクラスの出し物はそれなりに好評で、絶えず列ができていた。

 

 クラス全体で着るフード付きのTシャツが若干苦しくて、首元に手をかけて整える。着心地はあまり良いとは言えないけれど、クラス全員で同じ色の服を着ると一体感のようなものが出るから不思議だ。ちなみに僕のクラスの色はオレンジ色だった。

 

 

「結構大変だねー」

 

 

 同じシフトに入っていた茜がちょっとだけ疲れた顔を見せながら注文されたコーヒーを淹れる。湯気と共に漂う香ばしさに、心が落ち着くようだった。

 クラスの女子たちが主に接客して、男子たちは裏方で作業することが多かったけど、時間が経つにつれてそのあたりの境界も曖昧になっていた。文化祭の出し物なんてそこまで厳格にやるものではないし、みんなはそれぞれ一緒にいたい人と行動している。

 

 

「……?」

 

 

 裏側で在庫のチェックをしていると、クラスの女子二人組から声をかけられた。何の用だろうと思い話を聞くと、もうそろそろシフトを変わるよ、と話す。

 教壇の上の時計を確認すれば、確かにいい頃合いだった。

 

 

「はい、ごゆっくりどうぞ!」

 

 

 茜が客に向かって丁寧に頭を下げると、こちらに戻ってきた。これで茜のシフトの時間も終わりだ。

 

 ここからは──

 

 

「おまたせっ。それじゃあ、回ろっか!」

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 廊下を出ると、行き交う人波が目についた。老若男女問わず、それぞれが楽しそうに親しい人と話をしながら歩いている。

 

 

「それにしても、いいのかな」

「んー? なにが?」

「だって、僕のシフトなんて無いに等しかったからさ」

 

 

 最初にクラスの文化祭実行委員に当日のシフト表を渡されたとき、みんなに比べて明らかに仕事量が少なかったのでずっと疑問だった。

 

 

「それはたぶん、カナが準備をすごい頑張ってたからだよ?」

「……?」

「……やっぱり気づいてなかったんだ」

 

 

 茜は苦笑交じりに話し始める。

 

 

「カナの作ってくれたテーブルクロス。みんな褒めてたよ。女の子の間だと、自分も欲しいって言ってたくらいなんだから」

 

 

 流石にそれは言い過ぎな気がする。そもそも僕は、確かに進捗が良くなかった人の手伝いをしたけど、それだって大した量じゃない。

 

 

「まあ、とにかく! カナは今日くらい、ゆっくりする権利があるんだよ」

 

 

 僕としてはありがたい話だけど、クラスのみんなは納得しているのだろうか。でも、折角の好意だしありがたく時間を使わせてもらおう。

 

 

「……それで、最初はどこに行くの?」

 

 

 問うと、茜はパーカーのポケットから文化祭のパンフレットを取り出した。

 

 

「実はね、ちょっと決めてきてたんだ」

 

 

 そういえば、僕も昨日渡されていた。茜の横からパンフレットを覗き込むと、クラスの出し物の名前の上にマルやバツがつけられていた。入念に読んできたのか、紙の折れてる部分が散見された。

 

 

「カナは行きたいところある?」

「いや……茜に合わせるよ」

 

 

 茜がここまで調べてきてくれたのだから、彼女の行きたいところを優先したい。

 

 

「……」

 

 

 辺りを見渡せば、各部活動の人やクラスの人が出し物の宣伝をする様子が目に入る。活気あふれる彼らを眺めていると、少しだけ疎外感を覚えた。

 いつもより大きな話し声。浮かれたようにも見える溌溂さ。彼らに顔に浮かぶのは笑顔で、つまらなそうにしている人は見当たらない。

 

 彼らを見ると、何故か胸がざわついた。湧き上がってこの気持ちは、きっと羨ましさとは違っていた。馴染めないことが悲しいわけでもないし、寂しいわけでもない。

 

 僕はたぶん、怖いのだろう。

 当たり前のことに埋没できない自分が、怖いんだ。

 

 足元に目を移せば、廊下の床が目に映る。耳に届く喧騒が遠く聴こえて、僕は意識が徐々に乖離していくような錯覚を抱いた。

 何気ない毎日から脱線したあの日から、僕はそれまでの日常とはまた別の日常を送らざるを得なかった。そして僕はもう、それに慣れてしまっていて……。

 

 

 

「カナ」

 

 

 

 ふわりと。甘い香りが鼻をかすめる。

 

 いつの間にか、茜が僕の手を握っていることに気づいた。柔らかくて温かい感触が僕の手をそっと包み込んでいて、少しこそばゆかった。

 

 

「早く行こ!」

「あ……」

 

 

 にこっと笑った茜の顔が、眩しいくらいに輝いていて。

 

 僕にはそれが、強く印象に残った。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 茜は運動系の部活の出し物を見たいらしく、そこを中心に回っていた。例えばバスケ部でスリーポイントシュートを何本決められるか挑戦したり、サッカー部でリフティングをいつまで続けられるか競ったり。僕は運動があまり得意ではないけれど、茜の楽しそうな横顔を見て、来て良かったなと思った。

 そして一度、他のクラスの出し物のクレープ屋さんで休憩を挟んでまた回り始めたのが今だった。

 

 

「弓道部の出し物って、実際に打たせてくれるみたい」

 

 

 今は弓道部が出し物をする場所である弓道場へと足を運んでいた。和の雰囲気が漂うその場所は、木張りの床と壁が一面に広がっていて、厳格な佇まいだった。

 

 

「結構人気なんだ」

 

 

 先ほども出てくる人を何人か見かけたので、客の入りは良いらしい。

 中を覗けば、何人かが弓道部の人たちにアドバイスをもらいながら弓を引いていた。簡易的に弓道を体験できるように、前方数メートルくらいの場所にある的に向かって矢を射ることが、例年の弓道部の出し物らしい。

 

 

「カナも一緒にやろ?」

「……そうだね。こんな機会、中々ないし」

 

 

 丁度人が捌けたところで、弓道部の人から使い方の説明と共に道具を渡された。弓を引いてみると、思いのほか力が必要で僕は驚いた。

 

 

「……」

 

 

 しばらく弓の持ち方や力の入れ方の説明を受けて、いよいよ自分の番が回ってきた。

 

 一度深呼吸する。

 

 近いような遠いような、そんな微妙な距離にある的は、渦を巻いているように見えた。説明を受けた通り、正しい姿勢で正しく力を籠める。その正しさが体に染みつけば、それが自分にとっての自然な姿勢となって、矢は正しく的を射抜くらしい。

 

 ぐっと弓を引く。

 そして、つがえた矢を放った。

 

 

「……あ」

 

 

 すっと放たれた矢は、的の中心とは少しずれた場所へと吸い込まれた。

 

 真っすぐに飛んでいくはずの矢は僕の思いとは裏腹に、逸れた軌道を描いて渦の中へと飲み込まれる。正しい姿勢と正しい力。僕はそう信じて矢を放ったはずだったけど、どうやらそうでもなかったようだ。

 

 ……これはたぶん、弓道に限った話じゃないのだろう。バスケだってサッカーだって、正しいやり方があって、それを踏襲するところから始まる。間違ったやり方をしてしまえば、それは傍から見れば歪みのように見えるだろう。

 

 その結果として今、僕の矢は中心からずれた位置に突き刺さっている。

 

 

「わ……すごいね、カナ。真ん中に近いよ」

 

 

 先に体験を終えた茜の声にはっとした。弓道部の人からも、初めてにしては筋が良いと言われて、僕はとりあえず礼を言った。

 

 

「……カナって、どんなことも真面目に取り組んでるよね」

「……? そうかな?」

 

 

 弓道部の人に道具を消す最中に隣の茜にそう言われて、僕はぼんやりと考えるように宙に目を向けた。

 僕は色々と言えるほど何かに挑戦したことはない。部活だってやってないのだから。

 

 

「さっきだって、すごい真剣な顔してたよ」

「それはまあ……怪我したら大変だし。普通じゃない?」

「あはは……。そうかもね」

 

 

 けれど茜はそこで「でもね」と、言葉を続けた。

 

 

 

「それがカナの良いところだと思う」

 

 

 

 にこりと笑った茜は、少しだけ僕との間の距離を縮めた。セミロングの茶髪を揺らす彼女の鳶色の瞳が僕を真っすぐ見ていて、なんだか気恥ずかしくなった。

 

 

「……ありがとう、でいいのかな?」

「うん!」

 

 

 心がくすぐったくなるような温かさと、胸にじんわりと広がる茜の言葉。

 

 

 ……ああ、そっか。

 

 

 すとんと、僕は不思議と腑に落ちたような気がした。自分が何故こんなにも茜といる時間に心地よさを感じるのか。上手く言葉にできずに悩んでいたけれど、僕はやっと分かった。

 

 

 僕はずっと、褒められたかったんだ。

 

 

 誰かに頼ることが弱さであると自分を律していたあの頃から、僕はそれがずっと正しいものだと信じていた。だって、誰かに頼ってしまえば、誰かを助けることなんてできないと思っていたから。僕にとって妹が正にそうだった。

 母さんの最期の言葉を守るために、僕は自分なりに頑張ってきたつもりだった。けれど、所詮それは僕の中だけの話であって、他人には全く関係ないものだ。

 

 僕が、僕の中だけで完結させなければならない思いだった。

 

 ……でも。

 

 

「……?」

 

 

 黙り込む僕に、茜が小首を傾げる。

 

 自分に何も自信が持てなくなったことが原因で、世界はくすんだ灰色のように色褪せて見えた。

 だけど、それはきっと僕の思い込みで。閉鎖的な世界で見てきた光景は、外に出てみればまだ続きがあった。

 

 あの日家族で見た、遠くまで続く海と空のように。

 

 

「ごめん、ちょっとぼーっとしてた。次行こうか」

「あ……うん!」

 

 

 

☆─────☆

 

 

 日も暮れ始めて、文化祭は徐々に終わりを迎えつつある。あれほど騒がしかった校内も、幾ばくか落ち着きを取り戻していて、祭りの後のような寂しさがあった。階段の踊り場の窓から見える外には、ちらほらと帰る人が見受けられた。

 

 これからクラスの喫茶店の最後のシフトの時間。僕は無かったけれど、茜はシフトが入っていたのでここで解散することになった。

 

 

「うーん! 楽しかったね!」

 

 

 ぐっと腕を伸ばす茜を見て、僕は一先ずほっとした。歩き回ったせいで気怠い疲労感はあるけれど、不思議な心地よさがあった。

 

 

「……ありがとう、茜。誘ってくれて」

「お礼なんていいよ」

 

 

 そこで茜は、くるりと僕の方に振り向いた。

 

 

 

「……ねぇ、カナ」

 

 

 

 茜はポケットのパンフレットをもう一度取り出した。折り目がところどころについたそれは、茜と過ごした今日一日の思い出の数だけ存在する。

 僕と一緒にいてもそんなに楽しくないかもしれないと、そう思って隣の茜を見るたびに、彼女はにこりと微笑んでくれた。他愛もない話をしながら友達と過ごす時間というものを、僕は本当の意味で理解したかもしれない。

 

 

「その……後夜祭、なんだけど。カナも一緒に出てみない?」

「……後夜祭か」

 

 

 パンフレットの最後の方に書かれているのは今日の最後の予定。夜空を見ながらキャンプファイヤーの周りを囲む後夜祭だ。例年半数くらいの生徒は参加しているらしく、シフトの合間でもクラスの人たちがその話題を出していた。

 

 なんでも、好きな人と後夜祭を一緒に過ごせば恋愛成就するという迷信があるのだとか。でも、迷信だしそんなものを信じる人もあまりいないだろう。そもそも、後夜祭に参加する生徒だって半数しかいないのだし、ただの噂話だ。

 

 

「それでね、その……」

 

 

 パンフレットを持つ手を下げて、茜はもじもじと細い脚を揺らす。

 

 

 

「後夜祭のときに、話したいことがあるの」

「……話したいこと?」

 

 

 

 こくりと頷く茜の頬は、かすかに赤く染まっていた。パーカーの下のスカートの裾をぎゅっと握る手は、どうしてか緊張したようにぷるぷると震えていた。けれど、鳶色の瞳は穏やかな優しさを纏ったまま僕を真っすぐに見ていて、僕はその姿に数瞬の間、見入っていた。

 

 

「ここじゃ話しづらいこと?」

「……うん」

 

 

 ……何だろう? 

 

 でもまあ、家に帰ってもやることは特にないし、晩御飯は遥の勝手にしてもらえば問題なさそうだ。

 

 

「……分かった。後夜祭、僕も出るよ」

 

 

 

 ……

 

 

 

 ……

 

 

 

 茜を教室まで送り届けて、普段はあまり使わない部室棟がある校舎を歩き回る。

 

 ポケットからパンフレットを取り出した。茜の持っていたものとは違う、僕のパンフレット。そこには何も書き込まれていない。けれど、ただの紙切れにすぎないパンフレットはどこか重さのようなものを感じた。

 今日は一日中、茜と色々な場所を回った。文化系の展示物やお化け屋敷、体験したことが色々ありすぎて回想するだけで時間があっという間に過ぎていきそうだ。

 

 人波も引いて、寂しげな雰囲気が漂う校内。周りには人の気配は無く、長い廊下を一人で歩き回っていた。

 

 

「……あ」

 

 

 僕はふと、頭上に書かれたその名前を発見した。

 教室のドア上部に掛けられた一枚のネームプレート。

 

 

 ──文芸部。

 

 

 僕は知らなかったけれど、どうやらここは文化系の部室が集まった場所のようだ。旧校舎と言う程ではないけれど、比較的古びた部室棟だった。

 耳を澄ましても特に声らしきものは聴こえない。そうだ。文化系の出し物はここにはなかったはずだ。文芸部だって図書室に展示しているのだから。

 

 

「……」

 

 

 ……そういえば、遥はこの部室にいるのだろうか。

 

 昨日、僕は妹に一緒に文化祭を回ってみないかと提案したけれど、返事は芳しくなかった。美玖は僕が遥を誘えばきっと一緒に回ってくれると言っていたけど、それは結局間違いだったようだ。もちろん僕と二人きりというのは嫌だろうから茜も一緒だと話をしたのだが、それでもだめだった。

 

 

「……」

 

 

 意を決して、ドアを開いた。

 ガラッと音を立てたドアの先にいたのは──

 

 

「……彼方?」

 

 

 手に文庫本を持ったまま椅子に座る遥。どうやら、突然開いたドアにびっくりしているようだった。目を丸くする妹の姿に、僕は珍しい顔を見たな、と思った。

 

 

「ここが文芸部の部室なんだ」

 

 

 決して広くはない部室。でもそれは、文集や書籍が大量に詰まった棚が所狭しと並んでいるからだった。比較的古い部室の中は畳を敷いてある場所もあって、和風な雰囲気が出ていた。

 

 

「……何しに来たの? それに、茜は?」

「ん……文芸部って、どんな部室なのかなって興味があったから。それと、茜なら今はシフト中だよ」

 

 

 と言っても、そこまで長い時間ではないけれど。

 

 

「……面白いものなんて何もないわよ」

 

 

 横に置かれたスクールバッグの中から、もう一冊本を取り出しながら遥は冷たく言う。娯楽の類もなさそうだし、隣の作業場らしきところには、文化祭に出展する文集の原稿が整理整頓されていた。文芸部はいつも真面目に部活しているらしい。部活によっては、ほとんど遊んでいるところもあるようなのだけれど。

 

 

「ここにいてもいいかな? 嫌なら出ていくけど……」

「……別にいい」

 

 

 ぱらりと。ページをめくる音と共に、妹はそう言った。

 

 明るく差し込む夕焼けの光を背に読書する妹は、それ以上は何も言わずにただ本に目を落とす。ときどき、夕焼けの光が白いヘアピンを反射して眩しかった。

 妹の席と斜向かいの椅子に腰かける。僕と妹以外に誰もいない部室は静寂に包まれていて、文化祭中の学校の中だというのに、この世界から切り取られた空間のように感じた。

 

 

「……文化祭はどうだったの?」

「結構楽しかったよ。遥はずっとここで?」

「……ええ」

 

 

 小さな声と共に、ページをめくる音がまた聴こえる。騒がしい文化祭からは隔離された空間には、静かな息遣いやかすかな布擦れの音が鮮明に耳に届く。だからこそ、互いの存在を強く意識する。

 

 

「……茜はどうだった?」

「……ん?」

「だから……茜はどうだったの?」

 

 

 ページをめくる音が止まった。

 目をそちらにやれば、遥の氷のように整った顔立ちが僕の方に向けられていた。

 

 

「茜も楽しそうだったよ。そもそも、文化祭を回ろうって言ってる人はみんなそうじゃない?」

「……それは、そうかもしれないけど」

 

 

 妹のいまいち要領を得ない質問。僕はかすかに違和感を覚えた。

 けれど、一先ずそれを無視して、いい機会だと思い話を続けた。

 

 

「遥は茜とはどう? あの後も、本の感想を話したり意見交換してるみたいだけど」

 

 

 妹は小さく体を揺らした。そこに含まれているのは動揺にも似た何か。

 でもそれは一瞬のことで、小さく息を吐いて本を閉じた。

 

 

「……茜は変。私と話なんかしても楽しくないはずなのに……」

 

 

 遥は言葉に悩むように顔をしかめた。

 

 ……そっか。

 

 

 

「……僕もさ、同じこと考えてたんだ」

「……え?」

「なんで僕なんかと、友達になってくれたんだろうって」

 

 

 

 ずっと考えていた。僕が人に対して誇れるものや、自分だけの長所は何か。でも、何度考えてもそんなものは見つからなくて、僕はいつしか何に対しても自信が持てなくなっていた。

 人を好きになるのに理由はいらない、なんて言葉は詭弁だ。理由や納得いく説明がなきゃ、不安で心が押しつぶされてしまいそうになる。ふわふわと宙を漂う感覚は、微睡の中を揺蕩うようで心地よいかもしれないけれど、それと同時に足場がないことによる不安がずっと付きまとう。

 

 だから僕は、茜に対しても同じような感じだったと思う。話をするようになったきっかけは確かにあったけれど、所詮はきっかけに過ぎない。そこから仲良くなれるなんて保証はどこにもない。

 

 でもそれは、あくまで僕だけの考えであって。

 茜はきっと、違ったんだ。

 

 僕が僕のことをどう思っているのかではなく、茜が僕をどう思っているのか。大切なのはそれだけだった。だから茜が僕と友達のように接してくれる限り、僕も友達でありたいと思う。

 

 

 遥にそんな風に、一通りの話をした。妹は黙って僕の話を聞いていて、とくに僕の言葉に相槌を打つようなことはなかった。

 

 

「……彼方はそう考えてるんだ」

「うん」

「……」

 

 

 それ以来、遥は黙りこんでしまった。

 僕はやっぱり、そんな妹の姿に違和感を拭えずにいた。

 

 文化祭という日常から切り取られたこの空間では、互いの存在を強く感じる。だからこそ、僕は妹が何を考えているのかを探ろうと思って話を続けようと思ったのだけど。言葉も交わさずにそんなことをするのは不可能であって……。

 

 結局、僕は何も言うことができなかった。

 

 

「……っと、僕はそろそろ行くよ」

「あ……」

 

 

 壁に掛けられた時計を見れば、もうそろそろ茜のシフトが終わる時間だ。僕もクラスに戻って合流しなきゃいけない。

 

 そこで僕は「ああ、それと」と、言葉を付け加えた。

 

 

 

「僕は後夜祭に出るから、帰りは遅くなるかも」

「……え?」

 

 

 

 後夜祭が終わるのは、いつもの夕飯を優に超える時間になる。だから今日は、妹に料理を教えることもできない。

 

 

「じゃあ、僕は──」

 

 

 椅子から立ち上がって、ドアに手をかけようとしたそのとき。

 

 

 

「──待って!」

 

 

 

 ぐっと。手が柔らかい何かに包まれた。

 痛いぐらいに強く握りしめられて、僕はびっくりして後ろを向いた。

 

 

「……遥?」

 

 

 さらさらと。窓から吹く風が妹の濡羽色の髪を揺らす。風に乗って、甘い香りがする。金木犀の香りか、それともシャンプーの香りか。あるいは、そのどちらもかもしれない。

 遥は咄嗟の行動に自分でも驚いているのか、目をかすかに見開いていた。長いまつ毛が縁取る純度の高い水晶は、僕の姿だけを映している。白いヘアピンは相変わらずオレンジ色の光を反射していて、僕は一瞬、妹が泣いているようにも見えた。

 

 

「あ……」

 

 

 遥から小さく漏れた声は、この部室に静かに溶けていった。置いてかれそうになった迷子のような声と、今にも泣き出してしまいそうな顔。

 

 いつになく感情を滲ませる妹に、僕は一瞬ドキリとした。

 

 僕はここ最近で妹の色々な姿を見てきた。久しぶりに本心をぶつけて、僕は改めて妹と向き合うことができた。問題ははっきりと解決したわけじゃないけれど、ちゃんと話もできるようになって、朝の登校も一緒にするようになって。料理も手伝ってくれるから自然と会話も増えた。それはきっと、昔のように懐かしくて、温かくて、嬉しくて。

 

 ……じゃあ、今の遥は? 

 

 僕の目の前にいる遥の姿から感じるのは、懐かしさだけじゃない。僕が幼い頃ずっと引いてきた妹の手のはずなのに、手のひらからは痛いくらいの熱を感じた。それは、ぽかぽかとした温かさではなく、焦がれるような熾烈な熱さ。

 

 いったいこれは……。

 

 

「……後夜祭。茜と二人で出るの?」

「……その予定だけど」

「……」

 

 

 ふわっと。

 

 僕の手はまるで、宙を切るように解放された。ぷらんと垂れ下がる遥の腕からは、さっきまでの力強さは夢のように消え失せていた。

 

 

 

「……どうしたの、遥? ちょっと変だよ」

「……変なんかじゃ、ない」 

 

 

 

 遥は自分の腕を握りしめながらそう言った。今の妹は傍から見れば、誰だって様子がおかしいように見える。

 

 

 

「そもそも、ここ最近ずっと元気がないよ。食欲だってあまりないみたいだし……」

「……彼方に何が分かるっていうのよ」

「分かるよ、だって──」

 

 

 

 その先の言葉は、僕にとって魔法の言葉。ずっと胸に秘めてきた勇気の言葉。

 僕はその言葉があったから、自分を強く奮い立たせることができた。苦しくて挫けそうなときや、悲しくて泣き出してしまいそうなときも、母さんの託してくれた言葉があるからこそ、僕は僕でいられた。

 

 けれど。

 

 

 

 

 

「……『兄妹だから』って。また言うつもり?」

 

 

 

 

 

 続けようとした言葉は、鋭い日本刀のようにバッサリと斬られた。俯いた妹の言葉は、すっと冷や水を打ったかのように響いて、僕は体が固まった。

 静かな部屋に差し込んでいたオレンジ色の光は、いつの間にか暗く陰っていて、息がつまるような暗闇が徐々に近づいていた。

 

 

 

「なんで彼方はそれしか言わないのよ」

「……そんな、ことは」

「そんなことあるわよっ」

「……でも、事実じゃないか。なんでそんなに突っかかるの?」

 

 

 

 語気が強まる。何が逆鱗に触れてしまったのか、僕は分からないままだった。

 遥はまだ俯いたままで僕に顔を見せない。

 

 

 

 

 

「……もう、いい加減にしてよ」

「え……」

 

 

 

 

 

 震える声が、握りしめられた手が。

 ひどく痛々しかった。

 

 

「彼方が私のことをっ……嫌ってくれればよかったのに……。そうしたら、きっと諦めだってついたはずなのに……」

「……いったい、何を言って……」

 

 

 妹の独白にも似た呟きに、僕は言葉が詰まった。とめどない言葉が、一つ一つ羅列される。けれど、僕はその言葉の意味をどうしても理解できなかった。

 

 

「……本当にどうしたの、遥? 今日は早く家に帰って休んだ方が──」

 

 

 戸惑いを隠せないけれど、僕はとりあえず妹を落ち着かせることを優先した。どうしてそんなに取り乱しているのかは未だに分からないけれど、とにかく。

 

 でも。

 

 

 

「──うるさい!」

 

 

 

 ぱしっと。差し伸べた僕の手は、力強く跳ねのけられた。

 僕は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。けれど、手に奔るひりひりとした痛みが、僕を現実に引き戻した。

 

 

 

「早く茜のところに行けばいいじゃない! 私のことなんか放っておいてよ!」

「……なんで、茜が出てくるんだよ」

 

 

 

 それでも僕は言葉を続けた。いや、続けてしまった。このまま続けてしまえば、きっとお互いにとって良くないって分かってるのに。そもそも何故、茜に対してそんなに過剰に反応するのか僕には分からない。

 

 

 

「ちゃんと話してくれないかな。どうしてそんなに怒るのか、僕はやっぱり分からないよ……」

「分かってほしくないから話さないのよ! なんで彼方にはそれが分からないのよ……!」

「……分かるけど、でも。遥が何かに苦しんでるのは分かるよ。話すことで楽になることだってあるはずだし、少しくらい話してみてよ。()()なんだから──」

 

 

 

 茜に昔のことを話したとき。

 僕は確かに、心が軽くなった気がしたんだ。

 

 自分だけで何かを抱え込んでしまうのは、きっとつらいことだ。僕はそのことを、やっと知った。誰かに自分のことを知ってもらうことでこんなにも心強い気持ちになれることを、僕は茜から学んだんだ。

 

 遥が何に対してこんなに怒っているのかも、何故落ち込んでいたのかも分からない。だからそれを話してほしかった。もしそれが、あの日遥に問いかけた僕を避ける理由につながっているのだとしても。

 

 ……だけど。

 

 

 

「だから! もう、やめてって言ってるでしょ!」

「え……」

「兄妹だからって何よ! そんなことに何の意味があるって言うのよ!」

 

 

 

 ドクンと。心臓が強く打った。

 ……なんで、そんなことを言うんだよ。

 

 

 

「私のことを分かってるつもりなの!? だったらそれは彼方の勘違いよ!」

「ま……そんな、つもりは──」

 

 

 

 ドクンと。また心臓が、強い鼓動を打つ。

 

 だめだよ。僕は母さんの言葉を守らなきゃいけない。それが、僕が僕である唯一の証なんだ。この絆だけは、絶対に揺るがないものでなくちゃいけないんだ。

 

 

 

「もううんざりよ……! こんなに苦しくなら私は──!」

 

 

 

 遥が俯いたまま、長い濡羽色の髪を振る。

 そして、吐き捨てるように言った。

 

 

 

 

 

「──彼方と兄妹になんて、生まれたくなかった!」

 

 

 

 

 

 ──頭が真っ白になった。

 

 ドクン、ドクンと。心臓が早鐘を打つ。

 足元がガラガラと崩れ落ちていくような錯覚が僕を襲った。今まで築き上げてきたはずの心の柱は、ただの砂の城であったかのようにさらさらと零れ落ちていく。

 

 

「……あ……」

 

 

 遥がはっと気づいたように小さく声を上げる。でも、それが果てしなく遠い残響音のように聞こえた。

 

 僕たちはずっと昔、仲良しの兄妹だった。そうでありたかったし、そうでなければならなかった。

 いつだって母さんの言葉が前に向く力を与えてくれた。妹という、守らなければならない存在がいるからこそ、僕は母さんが亡くなったときでもなんとか立ち直れたんだ。

 それはきっと、妹もまた同じものだと思っていた。どんなに冷たくされても、どんなに嫌われていても、根っこの部分は変わっていないんだって思いたかった。

 

 ……思いたかった? 

 

 

 

「……はは」

 

 

 

 沸き上がった言葉に眩暈がした。僕のそれは妄想と言うんだ。

 

 僕は馬鹿だった。僕はただ、母さんの言葉を拠り所にして妹に依存していただけだった。妹と違って何も才能がなくて、自分の存在意義を妹に依存した愚か者。だから妹に世話を焼く兄という体面を装って自分の生きる理由を作っているだけだ。

 

 果たして、それは本当に妹のことを思っていると言えるのか? 

 

 遥の言う通りじゃないか。僕は遥が妹であるというだけで何かを知った風を装っていたんだ。

 

 

「ち、ちが──」

 

 

 聴こえない。僕の耳には、妹の声がノイズに混じったように聴こえない。

 

 

 ……やっと。やっと昔みたいに、話せるようになれたかもしれないと、そう思っていたのに……。

 

 

 僕はどこで間違ったのだろう。何が正しかったのだろう。今の言葉がつい、口をついて出てしまったものだとしても、紛れもない妹の本心な気がした。

 

 僕なんかが兄であることを、認めたくないと思っているんだ。

 

 

 ……もう、僕は……。

 

 

 

 

 

「──遥ちゃん。それ、どういう意味?」

「……え?」

 

 

 

 

 

 そのとき、もう一人の声が聴こえた。僕と妹しかいないはずのこの部室から、もう一人誰かの声が。

 

 彼女の名前は──

 

 

 

「……あか……ね?」 

 

 

 

 

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