妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
開かれたドアの向こう側。そこに佇む茜のセミロングの髪は、窓から吹き込む風に揺れていて、静かで穏やかなように見える。けれど、彼女の鳶色の瞳はそうではなかった。
細められた目は僕ではなく後ろの遥へと向けられていて、ピンと張りつめた糸のような緊張感があった。
「……遥ちゃん。それ、どういう意味?」
かすかに震えた声が聴こえた。一緒に文化祭を回っていたときに楽しい感情を滲ませていた茜の姿はそこにはなくて、手をぎゅっと握りしめながら何かをこらえているようだった。
後ろを振り向いて遥を確認すれば、突然部室に入ってきた茜に驚いていた。けれど、すぐにその表情は伏せられた顔と共に隠れてしまった。
「……」
遥は制服の上から、左腕をそっと掴んだ。袖から覗く手はただでさえ肌白いのに、今は真っ白に思えるほど力が込められていた。茜の問いかけに遥は答えない。僕もまた、何も言うことができなかった。それは気まずいからではなく、ただ呆然としていたからだった。
痛い沈黙が続く。頭の中では遥に言われた言葉が頭の中でがんがんと響いていて、万力で締め付けられるような痛みが支配していた。
自分が今どこに立っているのか。母さんとの約束は一体何だったのか。僕は、どうしたらよかったのか。
分からない。遥の考えてることも、これからどうすればいいのかも。何もかも分からない。だから僕は何も言うことができない。
「……どうして茜が」
僕を余所に、遥が静かな声で茜に問う。すっと耳に通る透明度の高い声は、触れても通り抜けてしまうように掴みどころがないものだった。生まれてからずっと同じ屋根の下で生きてきた僕たちなのに、僕は触れることができない。
茜は小さく嘆息して、慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……カナが教室に戻ってこないから、もしかしたらって思って。文芸部には来たことなかったけど、パンフレットに地図が載ってたから来れたんだ」
……そう言われれば、確かに学内の地図が載っていた。そこには部室棟の中にある部活の名前も一覧で載っていたから、それで場所が分かったのだろう。
「それより遥ちゃん。さっきのどういう意味なの?」
「……茜には関係ない」
そっぽを向くでもなく、唇を尖らせるでもなく。遥はただ顔を伏せたままだった。暗く沈み込んでいく空からは、夕日の光を見ることはもう叶わなくなっていた。在りし日の郷愁の証であるオレンジ色の光は、この部室にはもう差し込んでいない。
「……あたし、カナから何回も聞いたよ。遥ちゃんに避けられてるって。あたしずっと知ってたもん」
「っ……」
「何の話をしてたのかは知らないよ。カナが何か気に障ることを言っちゃったのかもしれない。……でも、そうだとしてもあんな言い方。ひどいよ」
「だからっ……貴方には関係ない。他人が割り込まないでよ」
遥の突き放す口調は、誰も寄せ付けない強い拒絶の証だった。けれど、茜は真っすぐに遥を見つめる。
「関係ないなんて、そんなこと言わないでよ」
震えていた声音は、徐々に熱を帯びて芯のある強いものへと変わっていた。
「……ねえ、遥ちゃん。あたしやっぱり分からないよ」
「……なにがよ」
「遥ちゃんが、なんでカナにそんなに冷たくするのか」
「……」
それはちょっと違う。最近はそんなことはなかった。会話もそれなりに増えたし、ご飯だって一緒に作るようになった。それに、僕が遥にずっと避けられ続けていたのは、僕を嫌っているからじゃないと言っていた。遥にあんなことを言われたのは、ただ僕が言ったことが癇に障っただけ。
……なんて。そんなわけない。そんな簡単な理由なら、遥はあんな苦しそうな顔はしないはずだ。話せないけど苦しくて、苦しいけど話すこともできない。今の遥はそういうもどかしいもがきが見える。
そして何よりも、そんな顔をさせている原因は……。
「あたし、どうしても不思議なの。遥ちゃんはカナのことすごく大切に思ってるのに、どうしてカナを避けてるのかなって」
「……知ったようなことを、言わないでちょうだい」
「だって、見てれば分かるよ。この前カナが針で指を刺しちゃったとき、すぐに下に絆創膏取りに行ってたし。なのにカナが話しかけても、ちょっとそっけないし」
「そんなことだけで──」
「そんなことだからこそ、だよ」
茜は真っすぐに遥を見ながら言う。
「……自分で言うのもなんだけど、あたしは人を見る目はあるつもりだよ。だから遥ちゃんがカナに、意味もなくあんなことを言うわけがないって思う」
僕もそうだと思いたい。思いたいけど、胸を取り巻くこの不安と不甲斐なさが、ひっそりと心の穴に忍び寄ってくる。
最近は、少しずつでも何かが変わってきたと思っていた。けれどそれは、結局は同じところに行きつくだけの輪廻の輪だった。
「確かにあたしは、遥ちゃんと知り合ってから全然時間も経ってないけどね……」
「……」
僕が遥と一緒に過ごしてきた時間に比べれば、それは微々たるものかもしれない。それなら、僕はどうなのだろう。その長い時間の中で、僕は本当に妹のことを知ることができていたのだろうか。
茜の言葉が、他でもない僕自身に鋭利な針となって突き刺さる。傷口からツーと一筋の血が流れ出るように、それは少しずつ僕から僕である証を零していく。
僕は今まで、遥とどうやって接してきたんだっけ……?
「私、は……っ……」
戸惑い。迷い。葛藤。遥は逡巡するように、口をパクパクとさせた。
「──!」
「遥ちゃん!」
ガタン、と椅子が倒れる音。遥はカバンを乱暴に掴むと、逃げるように僕と茜の間を走り抜けていった。
風が頬をかすめる。冷たいはずなのに、何故か熱く感じた。
「……」
遥が部室から出て行って、より一層空気が重く感じられた。しんと静まり返る室内には、僕も含めた二人分の呼吸しか聴こえない。
「遥ちゃん……」
僕は何も言えない。こんな兄妹喧嘩を友達に見られて恥ずかしいだとか、これからどうすればいいだとか。思うことはいくつもあるけれど、僕は遥に言われたことが何よりもショックだった。
道しるべを失った旅人のように彷徨う思いは、出口のない迷路に囚われているようでその先に進むことができない。いくつもの疑問が浮かんでは消え、結局は自分が何かをしてしまったのだという曖昧な結論にしか至らない。それではどうやっても根本的な解決にならないというのに。
僕はぬか喜びしていたんだ。遥と話せるようになったからといって、その裏側にある気持ちの変化を知ろうとしなかった。その結果がこれだ。僕は自分のことしか考えていなかった。遥が抱えてるものの大きさが、僕はずっと見えていなかったんだ。
……あんなことを言われるだなんて、僕は……。
「……カナ」
「……ごめん、茜。ちょっと一人になりたい」
茜の気遣うような目にも、そっと触れようとしてくる手にも気づいている。けれど今は、その優しさに触れたくなかった。触れてしまえば、僕はそれこそ誰かに依存してしまう弱い人間になってしまうと思ったから。
「でも、すごいつらそうだよ……」
僕は今、どんな顔をしているのだろう。茜が言う、つらそうな顔ってどんな顔なのか。僕は僕自身の表情が分からない。
「このままカナをほっとけないよ……」
「……大丈夫だよ。たかが兄妹喧嘩なんだから、そんな気にすることじゃないよ」
いったいどの口がそんなことを言うのだろう。自分が一番気にしてるくせに。一番問題にしてるくせに。そのせいで茜に慰めてもらったこともあるのに。心の内を閉ざした言葉はひどく空虚なもので、砂漠に揺らめく蜃気楼そのものだった。
うわべを取り繕うことだけは、僕はこの人生の中で学んできた。だって僕は、そうしないといけなかったから。本当は平気じゃないのに平気なふりをして、僕は理想の自分をつくってきた。
兄として、正しく生きてきた。
……でも、それは自己満足だ。その本質は醜く歪んだ自己愛。誰かのためではなく、自分のための行い。一見正しく見えたそれは、いつからか間違った方向に進んでいたのかもしれない。
「なんかごめんね。変なところ見られちゃって」
だから僕は、自分の姿を見せない。
「全然──」
──気にしないでいいから。
そう言おうとしたはずだった。けれど、僕は続きの言葉を口にすることができなかった。
「え……」
トン、と胸に感じた、柔らかくて温かい感触。
それと同時に、ほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。
「茜……?」
僕の服をぎゅっと掴む彼女は、潤みを帯びた鳶色の双眸で僕を見上げている。苦しそうに、切なそうにする彼女は、小さな桜色の唇をきゅっと結びながら、僕に何かを訴えかけていた。
ともすれば泣き出してしまいそうな顔に、僕はズキッと胸が痛んだ。
「……なんで茜がそんな顔するんだよ」
胸をつく痛みの出所が、僕には分からなかった。ジクジクと傷口は徐々に広がっていき、やがて大きな傷跡として残り続ける。
だけど僕はそれを見せたくない。茜に見せたくない。これ以上を見せてしまえば僕は……。
「……だって、あたし」
静かな部屋。生ぬるい呼吸と、胸を掴む小さな手のたおやかな温度。茜はそっと、言葉を綴った。
「カナのことが、好きだから」
「……え……」
──時が止まった。
茜の言葉の意味を、即座には理解できなかった。たった一言なのに、まるで現実味もなければ実感も湧かなかった。
「……好き……って……」
「……あたしは、カナのことが好き」
もう一度。今度は泣き笑いのような顔で言う。
……好きって。茜が、僕のことを……?
「だから……。カナが苦しんでるのにほっとくなんて、あたしにはできないよ……」
「あ……」
ぐっと。胸を掴む手に、少しだけ力が籠められた。
途端、心臓がバクバクと鼓動を立てる。制御のかない胸の高鳴りと共に、顔に熱が帯び始めた。体に触れる女の子らしい柔らかな身体に、僕は今更になって意識し始めた。
「……ごめんね。こんな卑怯なことしちゃって」
「……もしかして、話があるって言ってたのは……」
コクリと。茜が頬を朱くしながら、小さく首肯した。
「いつ……から……」
上手く言葉が出ない。僕は自分が誰かに好かれることなんてないと思っていたから。ずっと遥に避けられ続けて、何もできない自分が嫌いだった。
「……分かんない」
首を振りながら、けれど茜は「でも」と言って再び僕を見上げた。
「いつの間にか。カナが笑ってるところを、もっと見たいなって思ったんだ」
泣き笑いにも似た柔和な笑みと、彼女の髪から香るシャンプーの甘い香りに、僕は思わず目をそらす。そんな風に言われたことなんてなかった。誰かと深く付き合うことをしなかった僕は、茜の言葉の一つ一つに心をひどく乱された。
……僕はどうしたらいいんだろう。
茜の気持ちは嬉しい。こんなに優しくて素敵な子に好かれているということは、きっと限りない幸福に近くて。茜の気持ちに答えられたら、それこそ彼女も喜んでくれて、幸せに満ち溢れるはずで。
「……」
……それなのに。
『──彼方と兄妹になんて、生まれたくなかった!』
それなのに、どうしても遥のことが頭をよぎる。茜の真摯な気持ちを、僕は未だに受け止めきれずにいた。激情を含んだ慟哭を見せた妹のことが、今も頭の中を埋め尽くす。僕の目の前にいるのは茜なのに、彼女のことだけを考えることができない。
「茜……僕は──」
ピタっと。僕の口を止めるように、彼女は人差し指を当ててきた。
「……何も言わなくていいよ」
「え……」
唇に触れた茜の指先から体温が伝わる。少し冷たくて、けれどすっと馴染むような心地よい温度。
「返事はすぐにはしなくていいから。カナの弱みにつけこむみたいで、卑怯だと思うから」
唇から指の感触が消えた。
「……遥ちゃんのことで、あたしにできることがあったら何でも言ってね。力になりたいから」
「あ……」
茜が僕から離れ、すぐ傍で感じていた温もりは消える。自分の気持ちを真っすぐに伝えてくれた彼女は、どこまでも優しくて、僕と遥のことを気にかけていた。
……こんなに優しい子の気持ちに、僕はすぐに答えることができなかった。
「……ごめん、茜。今日は……」
茜と交わした後夜祭の約束。僕は彼女と一緒に参加する予定だった。でも……。
茜は僕の言わんとすることに気づいたのか、小さく息を吐いて静かに笑んだ。それは陽だまりのようにあたたかくて、舞い落ちる花弁のように儚くも優しい想い。また僕は、胸がズキッと痛んだ。
「……ううん、気にしないで。早く遥ちゃんと、話をしてあげて」
茜は首をゆっくりと振って、開け放たれたままのドアに向かう。そしてドアに手をかけると、一度僕の方に振り向いて、「またね、カナ」と言い残して去っていった。
廊下を歩く音が徐々に遠ざかっていき、やがて何も聴こえなくなった。
……
……
「……」
いったいどれくらいの時間が経っただろう。数分か数十分か。
近くの椅子に深くもたれかかってから、時が経つのをただ待っていた。そうしたところで、何も変わるわけないというのに。
頭がパンクしそうだった。
遥と喧嘩して、茜に告白されて。僕は今、自分が何をすべきかを見失いそうになっていた。
床に視線を落とせば、木製の床が複雑な模様を描いて渦巻いている。ともすれば、その渦の飲み込まれてしまいそうなほどに。まるで、戻ることのできない螺旋の中へと沈み込んでいくように。
……今はとにかく、家に帰ろう。帰って遥と話をしなくちゃ……。
覚束ない思考を頭の中でぼやきながら、僕は立ち上がろうとした。
「あ……」
伏せていた顔を上げる最中。
床に落ちていた
シンプルな青色のカバーはどこまでも深く澄み渡る海を彷彿とさせていて、僕はまるで吸い込まれるように歩き出した。
本にも似たそれは、僕が以前見たことがあるものだった。あのときは中までは見なかったけれど、頭の片隅では気になっていた。
僕は、ゆっくりと拾い上げた。
「……日記……」