妹と仲直りしたい   作:Shinsemia

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第十八話

 

 

 

「まさか……見た、の……?」

 

 

 

 力なく頼りない声。おそるおそると唇を震わせながら、縋り付くように手を伸ばす遥。その真実を、決して信じたくない現実を、嘘だと思うように。僕は何も言えず、黙ることしかできない。

 でも、ここでの沈黙は紛れもない肯定の証で。凍りついた空気の中で、遥がぽつりと言葉を零した。

 

 

「……そう……なのね……」

 

 

 伸ばされた手が、だらんと下がる。遥の呆然とした顔にはもう取り繕えるものは何もなかった。薄氷の上で成り立っていた僕たちの関係が、根本から崩れ落ちていく。

 遥は俯くと、乾いた笑いを上げ始めた。もう何もかもどうでもいいと、全てを諦めきった声。今まで必死に隠してきたものが暴かれてしまったことに、遥は何の感慨も抱いていないだろう。抱けるわけがない。

 僕も顔を伏せた。妹の秘密を知ってしまった今、どういう目で遥を見ればいいのか分からなかったから。気づけば、また手が震えていた。理由は分からなかった。喜怒哀楽の何にも属さない心の行き場はどこにもなく、真っ暗な深い闇へと姿を隠していく。

 

 

 部屋の中は静謐だ。僕と遥以外、誰もいない僕の部屋。小さなテーブルと勉強机とベッド、そして本棚しかない簡素な部屋。広々とした部屋にポツンと立ち尽くす僕は、日記を強く握りしめる。

 

 

 遥が、伏せていた顔をゆっくりと上げた。

 ポタっと。床のカーペットが濡れた。

 

 

 

「気持ち悪いって……思ったでしょ……? 私がっ……彼方を、異性として好きだなんて……っ……」

「あ……」

 

 

 

 遥は泣いていた。儚く、何かを諦めたように薄く笑みながら、頬を濡らしていた。

 今までの妹の姿で、僕が一度も見たことがない顔。冷然で凛然とした相貌はそこにはなくて、突っぱねるような強い拒絶もない。白磁のような頬を滑る雫は止まることがなく、静かに流れ落ちていく。寒さに凍える幼子のように体を小さく震わせて、遥は今まで閉じ込めてきた想いの全てをさらけ出していた。

 それなのに、僕は手を伸ばすことができない。もし触れてしまえば、雪のように儚く消えてしまうような気がしたから。

 

 

「……遥。この日記に書いてあることは、やっぱり……」

「……ええ、本当よ」

「どう、して……」

 

 

 混乱する頭の中でぼやいた言葉。それが今の遥をひどく刺激してしまうことに僕は配慮できなかった。

 

 

「”どうして”……だなんて」

 

 

 ぎゅっと目を瞑って、制服の胸元を掴むように手を握り込む。切れ長の目許から涙を落としながら、遥は首を振った。

 

 

 

「──そんなの、私にも分からないわよ!」

 

 

 

 怒りや悲しみ、嘆きと苦しみといった、あらゆる思いが叫びに籠る。でも、僕にはその想いの深さを、強さを知ることができない。僕はたった一人の妹のことを、何も知らなかったのだから。

 

 

「私にだってっ……分からないわよ……! なんで彼方を、そういう目で見るようになったかなんて……分からない……!」

 

 

 遥の握りしめた手は青白んでいた。部屋の中は秋の気温らしからぬ寒さに満ちている。この部屋はもはや、厳寒な冬さえも凌ぐ孤立した世界へと移り変わっていた。

 

 

「……彼方はいつもそばにいてくれた。母さんが亡くなる前も、亡くなった後も。……私は彼方がいたから、寂しくなんてなかった。彼方といると、誰よりも安心するの……」

「……」

「私はっ……彼方が好きなのっ……」

 

 

 全てを白状する遥の姿があまりにもつらそうで、苦しそうで。遥の痛々しい姿に僕もまた、胸が苦しくなった。

 本来なら僕は、その言葉を素直に喜べたのだろう。家族を愛し、家族に愛される。当たり前のようでいて、実は難しいことだ。

 それに僕は母さんと約束した。母さんが安心して眠れるように、僕は母さんとの約束のために頑張って生きてきた。ずっと兄妹で仲良くって、約束したんだ。

 

 ……なのに。

 

 

「……彼方は覚えてる? 中学校に入学した時期のこと……」

 

 

 僕はその言葉に、遥が何を言いたいのかが分かった。遥が僕を避けていた理由。僕がずっと、心の底で気にしていたことだった。

 

 

「もしかして、僕を避けていたのは……」

「……そうよ。中学生になってから、父さんが家を空けることが多くなったでしょ? 私は怖かった。彼方と二人きりになると、自分の気持ちを抑えられなくなりそうで怖かった……」

「……」

「だからっ……なるべく、彼方と一緒にいないようにしようって……っ……」

 

 

 ぼたぼたと、床のカーペットを濡らす涙に。

 僕は遥の態度の意味を、やっと理解した。

 

 

 ──もう、学校には一緒に行かない。

 

 ──話しかけてこないで。

 

 ──絶対に私の部屋には入らないで。

 

 

 ……そうだ。遥が僕を避け始めたのは、まさにその時期だった。

 

 遥はずっと、自分の気持ちが僕にバレてしまうことを恐れていた。だから遥は、わざと僕に嫌われるように振舞ってきた。僕に嫌われてしまえば、その気持ちはきっと隠し通せるから。

 今までの遥の冷たい言葉や態度。普段の生活での僕を避けるような行動。その全ての裏側に、途方もない苦しみがあった。

 

 

「それが彼方を傷つけてるって……私、分かってた。分かってたのにっ……」

 

 

 遥にかけるべき言葉が、何も思いつかない。僕が遥を強く拒絶すればいいのか、優しく諭してあげればいいのか。

 だけど、そもそも何を諭せばいいというんだ。その気持ちは絶対に間違ったものだから捨ててしまえと、そう言えばいいのだろうか。遥が僕を想う気持ちが、間違ったものだと。

 

 

「私のこと、嫌いになったでしょ……?」

「……」

「私なんかっ……大嫌いになった……っ……でしょ……?」

 

 

 濡羽色の美しく艶やかな髪は、力なく垂れ下がったまま。白く輝くアネモネのヘアピンが、照明に反射して強く輝いていた。

 

 

「早く……言ってよっ……」

「え……」

 

 

 掠れそうな声がひどく痛々しくて。それなのに、僕は何も言えなくて。遥は俯きながら、首を振って吐き捨てるように言った。

 

 

 

「──私のことなんか嫌いだって、早く言ってよ!」

 

 

 

 それはきっと、遥の本心じゃない。苦しくて悩んで、でも誰にも言えなくて。想いを自分の中に閉じ込めるためのただの自傷行為だ。社会の正しさや理に反した自分を制御するために、遥は必死に我慢していた。

 両手で顔を覆う遥。けれど、それでも涙が滴り落ちていく。しゃくりあげる遥の姿は、昔のようにあどけなかった。母さんが死んで、途方に暮れていたあのときみたいに。

 

 

「おかしいことくらい分かってるっ……。兄妹なのに、こんなのっ……」

 

 

 僕はどうしたらいいんだろう。兄妹で恋愛感情を持つことなんて許されるわけがない。現代の社会で忌避されるその想いは、決して明るみに出てはならないものだ。

 限りなく近い距離にいる僕たちの、限りなく遠い関係だ。

 

 

「もういやっ……いやぁ……。彼方といるとっ……気持ちが抑えられないっ……」

 

 

 叱りつけられた後の子どものように、遥は泣き止まない。手の甲で目元を拭う遥に、よく兄妹喧嘩していたあの頃の光景が重なる。拭っても拭っても、止まることのない涙。

 

 だけど。

 

 

「遥……」

 

 

 僕の手は、あの頃のように差し伸べることを躊躇っていた。ここで、何をするのが正しい選択なのか、間違った選択なのかが分からなかった。

 

 ……いや。そもそも正しい選択って何なんだろう。間違った選択って何なんだろう。世界のルールや常識に従うのが正しいのなら、僕はきっと遥を傷つけなければならない。それは本当に正しいことなのか。

 

 

「何か言ってよ……彼方……」

 

 

 遥は僕の方を見ずに、胸を抑えつけながら俯く。家族として言うべき言葉も、兄として言うべき言葉も、()()として言うべき言葉も、きっとそれぞれが違うものだ。

 

 ……どうして、遥がこんなに苦しまなければならないんだろう。

 

 僕はずっと、そうならないように努めてきたつもりだった。遥が毎日を穏やかに、健やかに過ごせるようにしてきたつもりだった。

 でも、所詮は”つもり”にすぎない。僕のやってることはただの自己満足であり、自己肯定なのだと。見て見ぬふりをしていただけで、ずっと分かっていたことだ。こうして真実を目の当たりにして、僕は理解した。

 

 今まで積み重ねてきた時間の全て。

 その正体は、遥を苦しめる悪夢だった。

 

 僕がいるから。

 僕の存在そのものが、遥を苦しめていた。

 

 

 

「……ごめん」

「っ……それは、何に謝ってるのよっ……」

 

 

 

 自分でも分からなかった。謝ることで、何が変わるわけでもないというのに。

 やっぱりそうだ。僕のやることなすこと、全てにおいて、結果的に何かを残せているわけじゃない。

 小学校、中学校、高校と。時間が進むにつれて、僕は何か変わっただろうか。妹を守れる存在になりたいと願った昔の自分に、僕は胸を張っていられるだろうか。

 

 

「僕は……」

 

 

 それでも、僕と遥は双子の兄妹。兄妹じゃなくちゃいけない。

 

 

「僕、は……」

 

 

 ──ずっと兄妹で仲良く。

 

 

「……」

 

 

 ……僕はいったい、いつまでその言葉に依存するつもりなんだ。

 

 頭が痛い。割れるように痛い。あの日の母さんの言葉は決して間違ったものではないと断言できるのに、遥が苦しんでいる現状がその記憶にノイズをかける。今こうして泣いてる妹の顔が、強く握られる手が、怯えるように震える肩が。僕に何度も、このままでいいのかと問い詰めてくる。

 

 

「私はっ……わた、しは……っ……」

「あ……遥!」

 

 

 突然、遥がくずおれた。ふらっと倒れそうな妹の体を、僕は慌てて受け止めた。荒く不規則な呼吸に、真っ青な顔。

 

 

「かな……た……」

「……」

 

 

 目を瞑りながら、眠りに落ちる遥。

 僕はただ、呆然と見ていることしかできなかった。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

 すぅ、すぅと。ごく小さな寝息が聞こえる。

 

 シックな雰囲気の部屋は、年ごろの女の子の可愛らしさのようなものはない。派手さや煌びやかさもない部屋は、モノクロのように色褪せてさえ見えた。僕は一度、ぐるっと部屋の周りを見渡してから、再び視線を元に戻した。

 

 ベッドの上で眠る遥は、目を閉じて規則正しく胸を上下させていた。

 

 僕の部屋で倒れてから、僕は妹の部屋まで背負ってベッドまで運んだ。遥が倒れたのはおそらく過呼吸のせいだ。精神的に不安定になって、呼吸がまともにできなかったのだろう。遥は時折うなされていたけど、今はようやく落ち着いて眠り始めた。

 

 

「……」

 

 

 ……遥が、僕のことを好きだなんて……。

 

 時間が経ってある程度頭の中の整理がついたのか、僕は幾ばくか冷静になることができた。遥の秘めていた想いが、決して嘘などではないのだと、その現状を実感することができた。ただ、それと同時にのしかかるのは非情な現実。僕と遥の、双子の兄妹という関係そのものだった。それは、僕と遥をつなぐたった一つの絆。

 きっとこのまま、何もかもなかったことにして、知らないふりをすることが穏便に済む一番の方法なのだろう。前みたいにとはいかなくても、時間が経てばその内、元通りになると信じて。

 

 ……でも、それだと遥はどうなるんだ。ずっと苦しんでいた遥は、いったいどうなるんだよ。

 

 このまま、遥を苦しませていいとでも言うのか。

 

 

「……」

 

 

 そう言えば、僕が熱で倒れたときも、遥はこうやって僕のことを看病してくれたのだろうか。ずっと寝てたから、実際にどうだったかは分からないけれど。さっき僕がやったみたいに、こんなに細い体で僕のことを背負ってベッドまで運んでくれたのだろうか。

 

 

「……ん……」

 

 

 身じろぎした遥の髪が乱れて、頬にかかる。僕はそっと髪に触れて、横に滑らせた。長く綺麗な濡羽色の髪が、しゅるっと横に流れる。白色のヘアピンは部屋の照明に照らされて、光そのもののように玲瓏(れいろう)だ。閉じた瞼には長いまつ毛が縁取っていて、形の良く小さな唇から吐息が漏れる。

 

 

 僕は遥を起こさないようにゆっくりと立つと、部屋を出て、廊下にへたり込むように座った。

 

 パタン、とドアが閉まる。

 

 冷たい床。冷たい壁、冷たい空気。全部が冷たい。そのまま凍りついてしまえば、何も考えなくて済むのに。このままここで目を閉じて、次に目が覚めたときに、今日のことがなかったことになっていれば……。

 

 

「……あ」

 

 

 ポケットからスマホの振動音。取り出してタップして確認すると、茜から一通のメールが来ていた。開封して中を確認する。

 

 

『遥ちゃん、大丈夫だった? あたしでよければいつでも力になるから、なんでも相談してね』

 

 

 茜からのメールは、僕と遥の二人を思いやるものだった。その優しさは、羽のようにふわりと柔らかく、そっと胸に落ちる。なのに今は、その柔らかさが、しなやかさが痛かった。

 今日の文化祭でずっと一緒にいた茜。茜に励まされたあの日、僕は改めて妹と向き合えた。あの日からずっと、茜は僕と妹のことを気にかけてくれていた。

 

 でも。

 

 

「……」

 

 

 ……話せるわけないだろ。誰かに相談なんてできるわけない。ましてや、茜に対してそんなことを。僕を好きだと言ってくれた茜に、こんなこと……。

 

 

「うっ……」

 

 

 胸が苦しい。言いようのない不安と、強い孤独感が身を襲う。

 

 膝を抱えて、顔を腕で覆った。深い闇の中に逃げ込むように、周囲の景色も自分の姿さえも隠す。

 もし、このまま消えることができるのだとしたら。僕はこの現状から逃げることができる。茜の想いも、遥の想いも、全てを捨てる勇気と覚悟があるのなら。

 

 ……そんな勇気、ないくせに。

 

 誰も答えなんて教えてはくれない。僕が導くべき答えは、僕しか知り得ない。それは分かってる。分かってるんだよ。

 

 

「分かってるよっ……」

 

 

 自問自答を繰り返す。いや、それはたぶん、自答にはなっていなかった。自問だけを繰り返す自分に、僕は何も答えられない。正真正銘の卑怯者だった。

 

 

 壁に手をついて立ち上がる。ふらふらと、幽鬼のような足取りは、自分が今どこにいるのかさえさえ分からない。

 階段を降りて、リビングへと降りる。キッチンの蛇口をひねり、コップ一杯の水を飲み干した。いつまでも胸の中に巣食うもやもやを、綺麗に洗い流してしまいたかった。

 

 

「……っ」

 

 

 真っ暗なリビングには、僕以外に誰もいない。四人から三人、三人から二人へと、食卓を囲む人数は減っていった。そして今は……。

 

 

「うぅ……あぁ……」

 

 

 ずるずると、僕は再びへたり込んだ。体の力は抜けていき、理解の範疇を越えた現実に、脳がフリーズする。散漫な思考には誰の姿も映らない。白昼夢の中でただぽつんと立つように、現実と非現実の狭間に囚われる。ずっと探していた妹の想いの正体を、どうしても受け止めきることができない。

 

 

 僕はしばらくの間、そこから動くことができなかった。

 

 

 

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