妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
夕暮れも終わりを迎えそうな公園には誰もいない。ブランコの鎖がきしむ音が、カラスの鳴き声に重なって聴こえていた。ぶらつく足元には、僕の影がある。地面に
『本当の彼方くんは、どこにいるの?』
美玖の問いかけが、心に深く突き刺さっていた。遥の兄としての僕と、他の誰でもない僕自身。それは同じようでいて実は違うものなのだと、美玖はそう言いたいのだろう。
仮に僕が、遥の兄ではなかったとして。僕は遥のことをどう思うのだろう。あまりにも非現実的な思考になってしまうけれど……。
僕は兄だから遥を大切に思っている。それは当然のことなのか?
家族だから大切に思っている。それは普遍のことなのか?
家族仲が悪い人だって世の中にはたくさんいるだろうし、血のつながりのない家族でも仲の良い人たちはいるだろう。だったら僕の前提は間違っている。僕が遥のことを大切に思うのは兄だからじゃない。それ以前にもっと根本的なものがあるはずだという結論に落ち着いてしまう。
「……」
いったい、何を考えているのか。馬鹿正直にこんなことを考える人なんて、きっと僕以外にはいないだろう。この広い世界の中でたった一人。
いや、一人じゃない。悩み苦しんでいるのは、僕だけじゃない。
ゆらゆら揺れるブランコと共に、もう一度空を見上げた。黄昏時にゆっくりと流れるうろこ雲。その向こう側はここから見ることはできない。いつもと変わらないはずの空は、果たして本当にあるのだろうか。
そう言えば。遥と久しぶりにちゃんと話したのは、この公園だった。決して穏やかなものではなかったけれど、偽りのない本心を久しぶりに吐露した。遥だって冷静じゃなかったけど、ちゃんと感情を顕わにして話してくれた。
視界の端から、一匹の小鳥が飛んできた。茜色に染まり始める空に、一匹の小鳥が大きく飛び回る。自由に空を駆け走る小鳥は、翼を力強くはためかせる。飛んでいく先は僕には分からない。目的地があるのか、ただ彷徨うだけなのか。
……僕はどこに向かえばいいのだろう。
ブランコを掴む手を離す。動くことを拒んでいた体は、こうして立ち上がるまでにひどく時間を要した。家に帰りづらいと思うのなんて初めてかもしれない。
遥はどうだろう。僕に帰ってきてほしくないと思っているだろうか。
いずれにせよ、このままではいけないのは分かってる。
公園から出て数分歩くと、見慣れた帰り道に差し掛かる。眩しい陽の光も、もうそろそろ夜へと姿を隠す時間。遊んだ帰りなのか、はしゃぎながら駆け走る子どもたちもいれば、犬の散歩をしている人もいた。
みんな家に帰る時間だ。それぞれ、あたたかな家庭が待っている自分の家へ。
公園から家までの距離は割と近い。さほど時間もかからず、すぐに家まで着いてしまった。玄関のドアノブをぐっと握る。冷たい鋼鉄が手のひらを襲った。僕はゆっくりとドアを開いた。
「……ただいま」
開いた玄関の床には、やっぱり僕のシルエットが映し出される。背中から差し込む陽光は、まるで僕をそっと押すようで、僕はゆっくりと歩を進めた。
リビングには誰もいない。テーブルの上には、朝食が残されたまま。遥は手をつけてもいないようだった。
二階に上がって、遥の部屋をノックする。木製のドアの乾いた音。返事はきっとないだろうと分かっていながらも、僕は数回ノックを繰り返す。
返ってくるのは、空しい反響音だけ。
ノックしながら思う。僕はまだ何も答えを出せていない。もし、今ここで話をうやむやにしてしまえば、おそらく表面上は元に戻れるかもしれない。けれど、それだと遥はずっと傷ついたままだ。傷を癒すこともなく、そのまま苦しみ続けてしまうだろう。僕はそんなことは望んでいない。
僕はスマホを取り出して、以前と同じようにメールを送った。せめてご飯はちゃんと食べて欲しいと、内容は簡潔にした。
とにかく今は、考える時間が必要だ。
遥ではなく、僕が考える時間が。
……
……
晩御飯も済ませ、お風呂も入り終わった。一日の生活リズムが崩れることはない。ソファに背を預けながら、コーヒーを一口啜った。無感動に熱い黒色の液体が、強烈な苦みを伴って喉を流れる。
コーヒーカップを覗きこむ。液面には何も映らず、コールタールのようにどろどろとした黒沼だけが見えた。
トン、と聴こえた小さな物音。僕は天井を見上げた。たまに聴こえる足音だけが、遥の存在を証明していた。時折リビングに降りてきてはいるらしく、冷蔵庫の中の飲み物だけは減っているのを確認した。遥は明らかに僕を避けている。
……遥は、何も悪くないのに。
コーヒーカップを片付け、二階の自室に戻る。昔、父さんが使っていた古めかしい部屋。僕がこの部屋を譲ってもらっときとあまり変わらない。本棚もクローゼットも戸棚も。模様替えもせず、ずっとそのままだ。
戸棚に近づく。僕はその上にある写真立てに触れた。僕と遥、父さんと母さんの四人が映った家族写真。父さんは物静かであまり話をしない人だけど、男手一つで僕たちを育ててくれた。
もし、僕が遥の気持ちを受け入れたら。父さんは僕たちのことをどう思うだろう。勘当されても文句は言えないかもしれない。世間一般では、兄妹の恋愛なんてあってはならない。倫理に反することだ。誰が決めたことでもない自然の理だ。
そして、母さんはどう思うだろう。もう、話すことはできないけれど、母さんは……。
『私はっ……彼方が好きなのっ……』
……ああ。頭が痛い。
写真立てを元に戻し、僕はベッドに身を預けた。ぼふん、と柔らかいクッションが背中を受け止めた。
考えようとすればするほど、頭が痛くなる。その先の思考に意味などないのだと、現在までの歴史のレールが厳かに告げてくる。
正しさの象徴であるその道から外れてしまったあのときから、僕はそこを見上げることしかできなかった。幼かった僕と遥は、ただそこに立ち尽くしてしまった。母さんがいて当たり前。父さんがいて当たり前。そんな一般論に沿った言葉の中に、僕たちはいなかった。きっとあの瞬間から、何かがズレてしまった。
僕は無力な子どもだ。母さんがくれた芯の強さも、父さんが施してくれた優しさも、僕はその全てを無駄にしようとしてる。僕はまるで操り人形だった。考えることを放棄した愚かな僕は、絶対的なルールの下でしか物事を判断できなかった。
それが無意識にでも、誰かを傷つけていたことになんて気づかずに。
真っ暗な闇の中。掛布団の隙間から滑り込んでくる寒さを遮るように潜り込む。でも、眠気は一向に訪れない。
「……」
眠れない。コーヒーを飲んだせいか、他の要因があるのかは分からないけれど、とにかく眠れない。
僕は掛布団をどけた。ふと隣を見れば、カーテン越しに月の光が差し込んでいる。しゃっとした音と共にカーテンを開いた。窓から見渡せる外の街並み。いくつもある家屋はそのほとんどが灯りがついてないようで、みんな寝静まっていることが分かった。
リモコンのスイッチを押して部屋の電気をつける。真っ暗な部屋が徐々に光で満たされていく。眩しさに目を細めながら、僕はそっとベッドから降りた。
部屋を出て、物音をたてないように階段を降りる。木製の手すりの感触は、冷たくさらさらとしていた。
「あ……」
それは本当に偶然だった。階段を降りてきた僕は、リビングの電気がついてるのに気づいた。
リビングのドアは少しだけ開いていて、中から淡い光が廊下に漏れ出ている。僕はそっと、隙間から覗き込んだ。テーブルの上にはマグカップが置いてある。
そして。
「……遥?」
「え……」
僕が思わず声をかけると、遥がビクッとしながら後ろを向いた。どうやら階段を降りてきた僕に気づかなかったみたいだった。僕に会わないようにするために、わざわざ深夜にこうして出てきたのだろう。遥の目の下にはくっきりとクマができていて、全然眠れていないことが分かった。
遥は僕を見て、口をパクパクと開いては閉じて呆然としていたけれど、はっと気づいたように目をそらしてしまった。
「……なんの用?」
「あ……えっと。喉が渇いたから飲み物を取りに来たんだ」
「……そ」
静かな遥の様子にほっとしながら、僕は脇を抜けてキッチンに向かった。
蛇口を捻ってコップに水を注ぐ。とぽとぽとした音が不思議と心地良かった。注ぎ終わって、ここから去るべきかどうか悩んで、結局僕は遥の向かい側のソファに座った。
一つ屋根の下で暮らしている以上、やっぱり顔を合わせることは避けられない。
「……体調は大丈夫?」
訊いて、我ながらなんて残酷な問いかけなのかと思った。誰が遥をこんなにボロボロにしているのかなんて、分かり切っているのに。
「……大丈夫。明日から、学校もちゃんと行くから」
「……うん」
不思議な気分だ。遥の想いを知ってしまったというのに、今の僕はひどく落ち着いていた。気まずい、という気持ちは確かにある。けれど、この場から逃げ出してしまいたいと思うほどではなかった。
もしかすると、美玖と話をしたからだろうか。自分自身、いまいち理由が分からない。
遥は手を温めるように、マグカップを両手で包み持った。秋も終わりが近づいて、今度は冬がやってくる。冷たい雪が気まぐれに降ってきては、人に触れてあっという間に消える。そんな冬が、もうそろそろやってくる。
遥の方をちらと見る。すると、どうやら遥の方も僕の方を見ていたようで視線がぴたりと合った。瞬間、さっと目をそらされる。
「……お腹は空いてない? 何か作ろうか?」
「……いらない」
ふるふると首を振られる。長いまつ毛に縁どられた瞳は伏せられ、僕を見ることはない。僕と遥を隔てるのは透明な壁だ。その壁はどんな形をしていて、どれだけ堅いものなのか。未だに分からない。
キッチンの水道から水滴が落ちる音が聴こえる。それはまるで心臓の鼓動のようだった。トクン、トクンと。
「……彼方は……」
「……?」
「なんで彼方は、私を避けないの?」
パジャマ姿の遥が、ソファの上で体育座りをする。膝の上に顎をのせて、ゆらゆらと揺れる。らしくない仕草だった。子どもがいじけたときみたいな、ちょっとしたあどけなさがそこにはあった。
今まで僕のことを避けていた遥に対し、今度は僕が避ける。それは全くもって皮肉なものだな、と思った。
カチ、カチと。リビングに掛けられた時計の針が進む。時が刻まれるのを止める術は無い。
「……遥は、僕の顔も見たくない?」
「っ……」
パジャマの皺がくしゃっと、一際大きくなった。
「どうしてっ……そんな意地悪なこと言うのよっ……」
見れば、遥はいつの間にか顔を伏せて隠していた。肩を震わせながらすすり泣く声が聴こえてきた。真夜中のリビングには僕と遥しかいない。遥を泣き止ませることができるのは僕だけだ。けれど、その方法も答えも、まだ見つけられてない。
テーブルの上にコップを置く。
僕は立ち上がって、遥の座るソファにそっと座り直した。
真横に座る僕に対し、遥は何も言わなかった。ただ、腕を握る手がより一層白むだけだった。
遥の傷つく姿を目の当たりにするこの時間が、僕にとってどういう意味を持つのか。誰が遥を傷つけているのか。僕にはそれを自覚する義務がある。
誰にとっても誠実な対応をすることなんて、僕には不可能だ。誰もが幸せになる未来などあり得ないし、誰もが納得する理屈も存在しない。誰かの気持ちに応えようとすれば、誰かを傷つける。それを避けることはできない。
僕の目の前には二つの道がある。一方を選べば、もう一方に進むことはない。そして、二つの道が交差することは決してない。
「うぅ……あぁ……」
組んだ腕の隙間から見える透明な雫。遥の嗚咽を聴きながら、天井を眺めた。
僕と遥はいつの間にかすれ違っていた。
遥が下を向けば、僕は上を向いて。
僕が遥に近づこうとすれば、遥は僕を避けようとした。
お互いが大切にしているものに、気づいてなんていなかった。
「……ごめん、なさいっ……。ごめんなさい……彼方っ……」
……
……
「……何やってるんだろう」
自嘲気味に呟き、部屋の壁に寄りかかる。眠気はやっぱり訪れない。
遥が自室に戻っていき、僕も自分の部屋に戻ってきた。最後に見た、遥の憔悴しきった表情は、触れるだけで消えてしまいそうなほど儚く、白磁の肌は青白く霞んでいた。
ふらつくようにリビングを去る遥に、僕は声をかけることはしなかった。今はまだ、何も言うべきときじゃない。自分の心の整理がついてない状態でその場しのぎの言葉を口にしても不誠実になってしまうから。
横になる気分にもなれず、僕は部屋の隅にある戸棚を開く。
中に入っているのは古びた一冊のアルバム。
母さんと父さんが残してくれた僕と遥の思い出。
久しぶりに取り出した分厚いアルバムの重みに、僕は胸が締めつけられるようだった。最初のページを開く。最初にあったのは僕と遥の出生後の写真。僕たちを抱いて微笑むのは母さんだった。
アルバムとは記録だ。その記録は一人のものだったり、複数人のものだったり。形は人それぞれ違う。このアルバムは、僕と遥のアルバムだった。
春の桜の下で花見をしながらお弁当を食べる僕たち。夏の日差しの中で水遊びをする僕たち。秋の紅葉の絨毯を不思議そうに眺める僕たち。冬の降り積もった雪に倒れ込む僕たち。
……遥……。
一つ一つの思い出が、優しく、甘く、切なく染み込んでくる。遥は僕の妹だ。純然たる家族として、双子の兄妹として。楽しいときも、つらいときも毎日を生きてきた。
「あ……」
一枚の写真が目に留まった。
僕の腕に抱き着く遥。今ではきっと考えられないその光景。そこに写る遥は、子どもらしく無邪気な笑顔を浮かべていた。
──『わたし! かなたとけっこんしたい!』
その言葉にはたぶん、深い意味はなかった。その単語が意味することも、現実問題としてどうなのかということも、分かってなかったはずだ。
でも、大切なのは
……。
「……母さん。僕は……」
戸棚の上の写真立てに手を伸ばした。今はもうこの世にいない、写真の中の幻想に問いかける。ぽつりと呟いた声は、広い自室に静かに消えていく。陽だまりのような笑みを浮かべる母さんは、何も言わない。
「……いや、そうだよね。これはきっと、誰かに訊いちゃいけないことだよね」
カチカチと、時計の音が聴こえる。時を刻む音が、絶え間なく聴こえる。
僕はずっと迷路に囚われていた。いつからか、自身の心の在処を見失っていた。誰かの言葉に依存して、誰かの存在に依存して、僕は自分のことさえ分からなくなっていった。
でも美玖の言う通り、僕が他でもない彼方だとして。僕は遥のことを、どう思っているのか。
目を閉じる。
冷たくて、そっけないようで、でも時折見せる不器用な優しさ。勉強に付き合ってくれたり、買い物を手伝ってくれたりした。変わってしまったようで、実は変わっていなかった臆病なところ。雷に怯える姿を見て、僕はどこか安心した気持ちだった。
僕の一つ一つの記憶の中には、必ず遥がいる。遥と喧嘩したり、怒らせてしまったり、泣かせてしまったり。数えればキリがないくらい、多くのことがあった。その中で大切に育ててきたこの気持ちは、どうしようもないくらい深いところで根付いてしまっている。
決して切り離せない、切り離したくない想いとして。
「……」
……もう、やめにしよう。
僕は変わらなきゃいけない。僕はあの日からずっと、時が止まったままだった。十年近くの間、ずっと。僕は誰かがくれた言葉に依存するだけだった。今でも、何が正しいのかは分からない。いや、そもそも正しいのかどうかなんて、この際どうでもいい。
大切なのは、僕が遥をどう思っているのかだ。たとえ
僕は、僕自身がどうしたいかで決める。
だから、もう……。
「……母さん」
目を開く。僕はそっと、写真立てを横に倒した。