妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
図書室で課題を淡々とこなす。僕と同じように勉強する人も数人いて、静かな図書室にはペンをカリカリと走らせる音がいくつも響いていた。気が楽だった。少なくともこうしてる間は、何も考えずに済む。
数式を淡々と変形していき答えを導く。こうして論理的に答えを導き出せるのが数学の良いところだ。正しい方法で、正しく問題を解く。その手法もある程度決まっていて、僕たち学生はそれをなぞればいい。ともすれば、自分の頭で考える必要のない操り人形のように。
ある程度課題が進み、肩をほぐす。とりあえずの息抜きとして席を立った。図書室から出ると少しの喧騒。外で部活動をしている人たちの声だ。窓際まで近づき、廊下を歩きながら見下ろす。放課後のグラウンドには、サッカー部や陸上部など、体育系の部活が精を出して活動している。
春夏秋冬。いずれの季節でも変わることのない光景。空の天気一つで活動が制限されることはあっても、基本的には何も変わらない。でもそれは、あくまで外部の人間から見たときに限っての話。彼ら彼女らは一人一人、ほんの少しだとしても、何かが変わった毎日を過ごしている。
階段を降りきって昇降口を抜ける。外に出ると、思った以上に寒くて身震いした。木枯らしが吹き始める季節は、真っ白な雪が舞い落ちてくる冬を迎え入れようとしている。気まぐれで、冷たくて、触れるとすぐに消えてしまう雪の季節が、少しずつ近づく。
体を温めようと思い、傍に設置されている自販機で缶コーヒーを買った。ガコっと落下する缶。下から取り出せば、温かい缶コーヒーが手のひらを温めた。
隣接されている近くのベンチに腰掛けて、フタを開けて一口含む。熱くて、苦くて、真っ黒な液体。口元から離し、開いたフタの隙間を覗き込めば、そこには先の見えない不安の象徴が広がっていた。
しばらく外の風に揺られる。
びゅうと吹く風に、思考が凍てついていく。
曖昧な距離感が隔てる現状の中、遥に話をするタイミングが掴めずにいた。話しかけても遥は相変わらず僕を避けるし、強引に話をするのも望むところではない。
涼しい風が吹いてきた。清涼なる風が木々と髪を揺らす。秋ももう終わりだよ、と耳元でささやいてくる。秋特有の紅葉が消えていき、花も葉もつかない寂れた木の枝垂れだけが、そこには残る。
「──あれ、カナ?」
ベンチに座る僕の耳元に、驚嘆の声。首を回して顔を向けると、そこにいたのは茜だった。ふわりと吹く風によって、茜のセミロングの茶髪がさらさらと揺れる。
僕が軽く手を振ると、茜がはっと気づいたように髪をいじって整え直した。そして近くに寄ってきて、「どうしたの、カナ?」と尋ねてくる。
そっと僕の隣に座る茜。爽やかな石鹸の香りがした。どうやら部活が終わってシャワーを浴びて来たらしい。よく見れば、髪がしっとりと水分を含んでいるように見えた。
「ん……ちょっと休憩してた」
「休憩?」
「課題やってたから」
そう言うと茜は、ああ、と一つ声を漏らし納得の色を見せた。
「今週の課題。結構重いよねー。あたしも家に帰ったらやらなきゃ……」
「まあ……。茜は陸上部で忙しいだろうから仕方ないよ。大会も近いんだっけ?」
「うん、今度は頑張らないと」
茜は脚をそっと触った。以前、茜は怪我をして大会に出られなかった。そのときのことを思い返しているのだろう。それは僕が茜と話すようになったきっかけでもあって。
「やっぱり走るのって、すごい気持ちいい。何かね、自由になった気がするの」
「……自由?」
いまいちイメージが湧かず、僕は聞き返した。
「よくある表現かもしれないけど……。このまま走れば、どこまでも行ける! ……って。そんな感じかな?」
茶目っ気を含ませる茜、彼女はふと、空を見上げた。群青色の空には、小鳥が鳴き声を上げながら飛んでいて、自由に駆け回っている。
……自由に、か。
「あたしね、昔はあまり走るの得意じゃなかったんだ」
「……そうなんだ?」
「うん……。でもね、やっぱり走るのが大好きだから。だから、ずっと続けてきたんだ」
そう語る茜の横顔。なびく風に目を細める彼女には、はっとする美しさがあった。
何か一つでも夢中になれるものがある。それはとても幸せなことのように思えた。茜と比べて、僕にはそういうものがない。
「そのおかげかもだけど、大会とかにも出られるようになってね。最近は練習もちょっと忙しくなってきちゃった。……って言っても。今回はレギュラーじゃなくて補欠なんだけどね」
「……え?」
「ほら。練習できなかった期間が長かったから。他の子よりも出遅れちゃってる状態なの」
「……」
「だから、ちょっと残念」
苦笑する茜は、何故かそこまで悔しそうな表情はしていなかった。僕はかける言葉に悩み、少しだけ冷めた缶コーヒーを飲む。缶の飲み口は外の寒さにあてられて、ひどく冷たくなっていた。
「……ふふ」
「……?」
「やっぱりカナは、こういうとき何も言わないんだね」
同じことを以前にも言われた。
やにわに、茜は周囲をきょろきょろと見回す。すると彼女は、少しだけ恥ずかしそうに微笑んで。
「ちょっと、ごめんね」
ぽふっと。
茜がそっと、僕の肩に寄りかかってきた。
熱い体温が、制服越しに肌に伝わってくる。しっとりとした声はどこか艶やかなようでいて、胸の奥をわずかにくすぐってきた。ゆったりと、甘えるように目を伏せる茜は、心地よさそうに目を細めていた。
茜が「ねぇ」と耳元でささやく。
「……文化祭の夜。カナに抱き着いたの、覚えてる?」
「……」
覚えてる、と言えなかった。肯定もせず。否定もせず。僕はただ、茜の綴る言葉を待った。
「あんな状況だったけど、あたしドキドキしちゃった。一見すると細い身体なのに、意外としっかりしてるところとか。カナの体温とか。誰かに抱きついたことなんてないけど、こんな感じなんだなぁって思った」
「……」
「それにね、ドキドキしたのもそうなんだけど、何より……」
あたし、すごい安心したの、と。
ひどく穏やかな顔をしながら、茜は言った。
金木犀の香りが、また鼻をくすぐった。それと同時に制服の袖が、きゅっとつままれる。女の子らしいたおやかな肌の感触が伝わってくる。僕はその手を振り払うことができない。そこにひっそりと灯る蝋燭の火を消すことは、何よりもむごい外道のように思えた。
「好きな人とくっつくと、こんなに安心するんだなぁって。あたし、初めて知っちゃった」
痛い。張り裂けそうなくらい、胸が痛い。
一途なその気持ちがあまりにも嬉しくて、つらくて。絡みつく糸は真綿となって、僕の首をゆっくりと締めあげてくる。脳に行きつくはずの酸素は徐々に薄まり、甘い痺れとなって思考を妨げる。
このまま流されてしまえば、僕がずっと欲しかった当たり前が手に入るのだと、心に巣食う誰かが訴えてくる。人の好意は優しく嬉しいものだという事実が、こんなにも憎く思えてしまうことがあるなんて、僕は知りたくなかった。
「……ねぇ。今度の休みなんだけど、空いてる?」
「……? 空いてるけど……」
「じゃあ、どこか遊びに行かない?」
純粋で真っすぐな目が、僕の瞳と向き合う。茜の気持ちを知ってしまった今、僕がそれに応えることは一つの意味を持ってしまう。茜に何かを期待させてしまう。
……だけど、だからこそ。
「うん、いいよ」
僕は、逃げちゃいけない。
夢の中で揺蕩っていた。ふわふわと浮く体と、周りに薄く張る透明な膜。まるでシャボン玉の中にいるようだった。
確か、僕は……。
普段よりも早めにベッドに入って、瞼を閉じて。言葉にできない思いを堂々巡りさせていたら、そのまま眠りに落ちて。気づいたら、ここにいた。
白い世界に広がるのは無限の空間。終わりなど見えやしない。ここがどこなのか、ここに来た意味はなんなのか。そんな意味のない疑問をかき消すように、一際強い光が輝いた。
『──』
誰かが、僕の名前を呼んだ。
聴き覚えのある声だった。
まばゆい光の向こう側から、揺り篭の中で揺られるような心地よい声。眠い目を擦りながら起きた日の朝も、遅くまで妹と公園で遊んで帰ってきた夕方も、遊び疲れて眠ってしまう日の夜も。変わらずに聴かせてくれた声。
『──』
姿が見えない。輪郭もない。ただ、間違いなくそこから聴こえていた。ずっと聴きたかった声。もう会えないと思っていた人。忘れるわけがない。
手を伸ばす。けれど、僕の手がそれ以上伸びることはない。透明な膜に、柔らかく弾き出されてしまう。
……どうして。
「どうして、いなくなっちゃったんだよ……」
あんなに元気だったのに、なんで。
どうしてなんだよ。
「母さんっ……」
どうして……。
母さん。僕、頑張ったんだよ。
痛くても、苦しくても。どんなときだって泣かなかったんだ。僕が泣くと、きっと心配かけちゃうから。母さんとの約束を守るために、自分なりに頑張ったんだ。
だから。
「もっと……声を聴かせてよっ……」
声にならない叫びが、閉じ込めてきた思いが、どんどん零れ落ちていく。ずっとつらいのに平気なふりをして毎日を生きてきた。守らなくちゃいけない大切な人がいたから。それが強さの証だったから。でもそれは決して、正しくなんてなくて。僕はきっと、母さんが死んだという現実を受け入れられていなかった。
泣かないために上を向いていたとしても、歩みは止まったままだった。
顔を拭い続ける。止まることのない涙を、僕は初めて流した気がした。我慢の限界を迎えた子どものように、涙は止まらない。
今は、今だけは。この瞬間だけは、誰も見てないから。誰にも心配をかけないから。
次の瞬間には、必ず変わってみせるから。
……
……
時間の概念がない停滞した夢の世界。いったいどれくらいそうしていただろう。
僕は今までの全てを吐き出した。母さんがいなくなってから、家の中は灰色に染まり、家族みんなが会話する時間も共に過ごす時間もなくなって。母さんがどれだけ大切な存在だったのか、一つ一つ確かめるように思い返した。
アルバムのページをめくる旅は、ころころと変わる万華鏡の美しい景色。
喜んで、嬉しくて、笑って。寂しくて、悲しくて、泣いて。その繰り返しだった。
シャボン玉に煌めく七色のように色とりどりの記憶の欠片を、少しずつ拾い集める。僕にとってのかけがえのない宝物。それぞれの写真を彩るエピソードの中に、僕たちは存在していた。
それは長い旅だった。記憶の一欠片を拾い上げてはまた積み重ねて、一から自分を見つめ直す。正しいようでいて、いつの間にか歪に曲がっていた僕の道のり。始まりの地点から、僕はひたすらに歩く。過去から現在へと向かって。
でも、アルバムのページは途中までしかない。
その先はまだ、真っ白だ。
「……僕さ、決めたことがあるんだ」
陽だまりの中の声は、既に止まっていた。
「ずっと傷ついていた人がいるんだ。誰よりも近くにいたはずなのに、僕はそのことに気づいてなんてなかった。その人は今まで、独りで苦しんでいたんだ」
どんな時も一緒だったはずなのに、僕は上を向いてばかりだった。その人と正面から向き合ってなんていなかった。
何かを誤魔化すような顔も、氷のように冷たい顔も、泣き出してしまいそうな顔も。僕は見ているようで、見ていなかった。
だから僕、前を向くよ。
もしかしたらいっぱい間違えるかもしれないし、情けない姿を晒すかもしれないけれど。
折角できた大切な友達も、泣かせてしまうかもしれないけれど。
母さんに決して許してもらえないようなことを、してしまうかもしれないけれど。
「だから──」
目が覚めた。水面から浮き上がる意識は、透明度の高い水晶のように鮮明だった。
休日の朝。いつもより早起きした。今日は出かけなければならないから。真摯な気持ちに対して、誠実に答えを示さなくてはならないから。
ぐっと背伸びする。窓から差し込む光が眩しい。掛布団をどければ、初冬の寒さが肌を撫でた。麗らかな春のような光は錯覚だったのだろうか。けれど、僕は確かに覚えてる。大好きだったあの優しい声を、温度を。間違いなく、覚えてる。
「……あ」
目尻から違和感。そっと触れると、指先はぴちゃっと濡れた。僕はゆっくりと目を擦った。
大丈夫。僕はもう、大丈夫だから。今までの分も、これからの分も、全部泣いたから。
光を見上げた。真っすぐな光が照らす指先は、ちょっとだけ暖かかった。
「──行ってきます」