妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
朝と昼の分のご飯を作り終えて、出かける準備を手早く進めていた。もう冬も近い。家の中にいるとはいえ、外が冷え込んでいることは想像に難くなかった。
クローゼットの奥からコートを引っ張り出す。一年の内にそう何度も着ることはないコートの手触りは、改めて冬の季節を実感させた。
着替え終わると部屋から出て、洗面台の鏡の前で櫛を使って髪を整える。服装や髪形に変なところがないかチェックした。不慣れなことをしてる自覚はあったけれど、今日は外出するから人前に出ても恥ずかしくない格好をしなきゃいけない。
「……よし」
出かける準備も終わり、廊下を抜けて玄関に向かう。靴を取り出して、履くためにしゃがみこんだ。すると同時に、後ろから階段を降りる音が聴こえてきた。
パタ、パタ、と。スリッパが床を擦る音が、ゆっくりと近づいてくる。
フローリングの床は乾いた音を立てながら小さな振動を伝えてくる。トクン、トクンと心臓が鼓動を打つような音が、リズムよく足に伝わった。
そしてその音は、小さな声と共に止まった。
「あ……」
振り向けばそこには、パジャマ姿の遥が階段の上で立ち尽くしていた。
陰が差す表情には、戸惑いと怯え。そして、目の下にくっきりと浮かんだクマ。
遥はどうやら、こんな早い時間に僕が玄関にいるとは思っていなかったようで。僕を見るその顔も体も、強張っているようだった。
「……出かけるの?」
小さく、蚊の鳴くような声。
遥は、壁についたままだった手を胸元まで運んで、ぎゅっと握った。
不思議だった。僕が遥に話しかけようとすれば、僕との会話を拒絶していたのに。今度は遥の方が、そんな不安げな顔をしながら声をかけてくる。
「ちょっと、用事があるから」
「……そう」
ふいっと背けられた顔。濡羽色の長い黒髪がふわっと揺れて、階段の照明がヘアピンに反射して光り輝く。けれど、その視線は僕と合わせようとしてくれない。
一週間以上もの間、僕と遥はこんな感じだった。ギクシャクとしてしまった僕と遥の兄妹関係は、修復という名の前進をするわけでもなければ、崩壊という名の後退をすることもない。
「いつもみたいに、ご飯はリビングに用意してあるから」
「……ええ」
当たり障りのない会話から入る。一つ屋根の下で暮らす中で、顔を合わせることはどうしても避けられない。だからこうして一言二言は言葉を交わすけれど、中身なんてあってないようなものだった。
「……遥」
一度、家に上がり直した。
「え……な、なに」
いきなり近づいてきた僕に対して、遥は怯えたように後ずさる。けれど、階段の途中で立ちすくむ遥に逃げ場はなく、僕が徐々に迫ってくるのを待つしかなかった。
「ちゃんと寝てる?」
「……寝てるわよ」
透明度の高い、けれど掠れた声。
もしかしたら遥は、こんな風に話しかけてくる僕を不思議に思っているのかもしれない。遥の気持ちを知ってしまった僕が、避けることもせずこうして声をかけてくることに、戸惑っているように見えた。
気をつかわれているのか、同情しているのか。顔を背けた遥の横顔には、そんな不安が浮かんでいる。雪のように白い肌はまるで生気が薄れてしまったようで、小さく形の良い唇は血色も悪く見えた。
ここ最近、遥はご飯にもあまり手をつけず、まともな会話もしようとしない。この家には僕たち二人がいるはずなのに、自分一人しかいないように感じた。
時が経つにつれて寂しくなっていった、僕たちが暮らしてきたこの家。他の誰も介在しない揺り篭の中は、実は右も左も分からない真っ暗闇。僕はずっと、そんな先の見えない暗闇にポツンと一人立たされてきた。
そして、僕がそうであるならば。
きっと遥の方も、そうであるはずで。
「私のことは放っておいてよ……」
投げやりな言葉と共に、鋭い切れ長の目も伏せられる。
仮に、このまま放っておいたとして。その先に待っているのは、誰も望んでない未来。平穏に、静かに、ゆっくりと朽ち果てていく。
僕はそんなのは嫌だ。
「……じゃあ、そろそろ出かけるね」
「あ……」
遥に背を向けて歩き出す。けれど。
「……?」
ぎゅっと。
かすかな抵抗が、僕の歩みを止めた。
後ろを振り向くと、遥が僕のコートの裾を摘まんでいた。おそらく無意識にやったのだろう。遥自身、驚きに目を見開いていた。
「遥……?」
「……ごめん、彼方」
遥の手が、すっと離される。全く同じ景色をあの日、僕は部室で見た。
痛いくらいに握りしめられた手。あのときはその意味が分からなくて、感情を爆発させる遥と衝突してしまった。お互いに傷つけて傷ついて、その結果がこれだった。
「……行ってくるね」
僕よりも少しだけ小さな遥の手。その手が震えていたのは、きっと気のせいじゃない。幼い頃にずっと握っていた大切な感触は、昔も今も変わらない。
だから、早く行かなくちゃいけない。
どんなに逃げたくても、苦しくても。誰かが示してくれた道しるべがなくても。丁寧に舗装された安全な道じゃなくても。
再び靴を履き直す。玄関のドアに手をかけながら、一言だけ言った。
「夕方になる前には、帰ってくるから」
駅前までの道を歩きながら、腕時計を確認する。朝のそこそこ早い時間の空は、清々しく晴れていて雲一つない。
休日の今日。行き交う人々の関係は様々だ。子どもを肩車する家族連れや、僕と同じくらいの年の高校生グループ。それに、腕を組みながら歩くカップル。交差して、離れて、それぞれが目的地へと向かう。
アスファルトを踏みしめる足取りは、少しだけ軽い。理由は自分でもよく分からない。ただいつもよりもちょっとだけ早めにベッドに潜って、寝る間際まで考え事をしていて、少しだけ目覚めが良かっただけ。変わらないようでいて、実はほんの少しだけ違う一日の過ごし方。
しばらく歩くと最寄りの駅が見えてきた。整然とした住宅街は、そびえたつビル群へといつの間にか姿を変えている。ガラスに反射する陽光はキラキラと輝いていて、中々に眩しい。
人が増えてきて、耳に届く喧騒はより深まる。息苦しさから逃れるように上を向けば、ビルの一角に存在する大型ディスプレイに今日のニュースが流れていた。
よく晴れた日の今日は、ニュースキャスターも笑顔を綻ばせるほどに澄み渡る空だ。道行く人々も自然と見上げてしまうほどに美しい。今日の夜は綺麗な夜空が見られると、キャスターや出演者が口々に語り合っていた。なんでも、運が良ければ流星群が観測できるらしい。普段の生活にはない珍しさに、彼らは興味津々だった。
「……」
ディスプレイから視線を戻せば、いつの間にか結構な距離を歩いていたらしく、目的地はすぐそこにあった。
駅の入り口まで向かう。
「あ……カナ!」
耳に届いた明るい声。どうやら僕よりも早く来ていたらしい。
声の方を向く。彼女は、寒空の下で白い息を吐きながらこちらまで駆け寄ってきた。
「遅れてごめん」
「ううん。あたしが早く来ただけだから気にしないで」
セミロングの茶髪を耳にかけながら、呼吸を整える茜。冬も近づいてきた今日この頃。茜の服装は冬らしいものになっていた。
真っ白なセーターに、シックな柄のミニスカート。レースがあしらわれた靴下と、流行りものらしいレディース靴。
そして以前、僕と出かけた時に買ったフェザー型のネックレスを首から下げていた。
「カナとデートするの二回目だけど、なんかドキドキしちゃう」
はにかむ茜。僕は曖昧に笑みを浮かべた。
優しく、可愛らしく、あたたかな笑み。
だからだろう。さっきから、胸が痛くて仕方がない。
「さ、早く行こ!」
……
……
高校生がどんな風に遊ぶのか、なんてことは当事者自身が考えることじゃない。普通に暮らして、普通に集団生活を送って、普通に価値観を養っていって。その過程で自然と考えられるものだ。けれど、僕は茜がどういうことが好きで、どこに遊びに行きたいと思うのか分からない。今更ながら、そんなことを思ってしまう。
普通って、いったい何だろう。そんな抽象的なことばかり考えてしまったのが事実だった。
「最近、あそこに喫茶店ができたらしいよ? ケーキがおいしいんだって。ちょっと寄ってみない?」
茜の手元には手書きのメモ。茜はある程度事前に調べてくれていたらしく、行きたい場所をいくつかピックアップしてくれていた。僕としては他に行きたいところも特に思いつかないため、彼女の意見に従うことにした。
駅が近いということもあるけれど、休日の外はやっぱり活気があって賑わっている。平日は学校に通ったり仕事に行ったり。そんな忙しない毎日を過ごす人々が、心安らかに過ごせる休日だ。
「ケーキって、あんまり普段食べないよね」
「うん。あたしはクリスマスのときくらいかなあ。あと誕生日とか」
そう言えば、最後にケーキを食べたのはいつだろう。もうずっと前のことのような気がする。
クリスマスにツリーを飾ることも、誕生日を祝うことも。全て、もうなくなってしまった。世間が一般的に祝うようなことを、僕と遥はしてこなかった。
淡々と毎日を。大切な何かが欠けてしまった日々を過ごしていた。僕自身、それに気づくこともなく。
「ケーキを食べる日って、特別な感じがするよね。さっきのクリスマスとかもそうだけど、ちょっといいことがあった日とか」
「……そうだね」
特別な日なんていらなかった。平坦な日々が続けば、それだけで良かった。だけど、そうはならなかった。あの日から、今この時までも。
人波に紛れるように、茜と隣並んで整備された街を歩く。果たして、僕たちは周りからどう見られているのだろう。同じくらいの年の男女。ひょっとしたら、付き合っているように見えるのだろうか。
茜の横顔を覗く。さらさらと揺れるセミロングの茶髪。整った顔立ちはクラスでも人気が出るくらい可愛くて、誰にでも分け隔てなく接してくれる優しい女の子。
「……?」
ぱったりと目が合った。ぱっちりとした鳶色の瞳に、吸い込まれそうになる。
「ごめん。なんでもないよ」
「……そう?」
極力、その瞳を見ないようにしながら。
僕は少しだけ、歩くペースを速めた。
喫茶店に入って一息つく。外観通りの雰囲気が良い店内には、ゆったりとしたBGMが流れていて、僕と茜は席に座りながら店内を見回した。
休日の割には人が少なくて、意外だな、と思った。ただ、よく考えてみれば朝でも昼でもない中途半端な時間。たぶん、これからどんどん客が来るのだろう。
「何頼もうかなー」
対面の茜はメニューを楽しそうに眺めながら、ページをめくって行ったり来たりしてる。女の子は甘いものが好きだとよく言うけれど、茜も例に漏れずそうらしい。
「カナは何頼むの?」
「僕はコーヒーだけでいいよ」
「えー。折角だし、何かケーキ頼もうよー」
ぷくっと頬を膨らませる茜。リスが威嚇するみたいな小動物的な仕草。一つ一つの何気ない行動が、爪でひっかくみたいにくすぐったい。
「じゃあ、イチゴのショートケーキでも頼もうかな」
「ショートケーキ、好きなの?」
「ん……というか、それしか食べたことないから」
メニューには他にもチョコケーキやモンブランなんかもあるけれど、僕はそもそも食べたことがない。食べる機会自体がなかった。
「じゃあさ、あたしモンブラン頼むから、半分交換しない?」
「うん……いいよ」
メニューが決まって、店員を呼んで注文を済ませる。やってきた店員は営業スマイルを浮かべ、洗練された所作で去っていった。その姿を横目に落ち着いた店内の意匠を観察すると、ささくれ立ちそうになっていた心が少しばかり落ち着いた気がした。
店員が持ってきたコップの水で唇を湿らせる。気づけば、大して話してもいないのに喉はカラカラに乾いていた。砂漠に垂らした一滴の水のように、それはまるで意味を為さない。
……気持ちを固めてきたはずなのに。
実際に茜に会うだけでこのありさまだ。
平静を装うとする自分がいて、今すぐにでも逃げ出したいと思う自分もいて。そんな自分が、あまりにも情けない。
茜に気づかれないように、小さく息を吐く。吐いた息は外とは違い、白くなることもなく透明なまま。言いたいことも、話したいことも、まだ表には出せない。
本当は、
「……カナ」
「っ……なに?」
ぼーっとしていて、つい反応が遅れた。顔を上げると、茜が何か言いよどんでいる様子が目に入った。
「……ううん、やっぱりなんでもない。ところで──」
けれど、その葛藤もすぐに消えたようで。そう言って首を振った茜は、すぐに別の話題に切り替えた。
このデートの意味。
僕も茜も、本当はお互いに気づいてる。けれど……。
「……」
店内の静かな話声と、ゆったりとした音楽。
今はどうか、それらが途切れないことを願った。