妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
「ケーキ、おいしかったね!」
外に出ると、暖房の効いていた店内とは異なり、涼しい気温が肌に触れる。
僕と茜は小一時間ほどゆっくりとして、他愛もない話をした。僕は専ら聞く方に徹していて、話題を提供することはあまりなかった。
学校の話や部活の話。他にも読書の話。僕が上手く話をできたのは、その読書についてくらいだった。読書は茜も最近始めた趣味。僕との話がきっかけだったそれは、今でも続いているらしい。
ただ、一つだけ気になることがあった。
「……そうだね」
それは、遥の話題が一切出なかったことだ。
最近、遥と茜は本の感想をよく話し合っていたと聞く。だから、その流れで遥のことも話題に挙がると思っていたのだけれど。
でも、よく考えてみればわざわざ話すことではないのかもしれない。茜にとっては僕の双子の妹でしかないのだから。
それに、文化祭のあの日。喧嘩別れのような形になっていたし、茜からしても話に出しづらいのだろう。ただ、茜ならそんなことはあまり気にしないと思っていたから、そこが意外ではあった。
喫茶店から出てしばらく歩いて、ショッピングモールに着いた。茜の行きたい場所に付き添って、近くの服屋でウインドウショッピングをする。そろそろ冬物が欲しいらしく、セーターやコートを中心に見て回った。僕は別に欲しい服もなかったからほとんど茜に着いていくばかりで、ときどき茜が試着した服の感想を言うくらいだった。
「そろそろ冬休みだよねー。何か予定とか入ってる?」
「いや……」
冬休み。そう言えば、もうそろそろそんな時期だ。終業式が終われば今年も終わって、また新しい一年が始まる。大掃除をして、正月に備えて。ありきたりだけど、やることとしてはそれくらいだろう。
「茜はどうなの?」
「うーん……。あたしはちょっと悩み中かな」
茜は少しだけ視線を下げながら、ぽつりと零す。
「毎年、家族みんなで過ごしてるの。ただ、それ自体に不満はないけど、そろそろそういうことも卒業しなきゃなって。ほら、大学生になったら独り暮らしとかするでしょ?」
……それは、卒業しなきゃいけないものなのだろうか。世間でよく言われる、思春期を迎えた中学生が親を遠ざけるように。いつか、家族は離れ離れになってしまうのだろうか。
もちろん、茜が話しているのはそういうレベルの話じゃない。もっと軽い意味合いの話でしかない。それなのに、こんな揚げ足取りのような醜いことを考えてしまうのは、きっと僕が普通とは違うから。そんな風にしか考えられない自分が、確かにそこにいた。
「だから……」
茜が地面に目を落としながら。
少し、僕に近寄った。
「ちょっとだけ、背伸びしてみたいなって」
近い距離。気まずさも甘さも、苦しみも喜びも、その全てを孕んだ距離感。僕と茜の関係は、僕自身でもよく分からない。たぶん茜もそのはずだ。それは僕が、きちんとした返事をしてないから。
「……?」
そっと隣の茜の表情を見ると、その言葉とは反して、どこか儚げな笑みを浮かべていた。そこにあったのは期待でもなく、失望でもなく。僕には茜が今、何を考えてその言葉を口にしたのかは分からなかった。
「……なんてね!」
「あ……」
ぱっと。先ほどまでの儚さを吹き飛ばすように、ぼやけた輪郭がくっきりと浮かび上がった。浮かぶ笑みには、もう陰りは感じられない。
……さっきから、どうしたのだろう。
「さ、早く行こ!」
結局僕は、その違和感を拭えなかった。
昼もだいぶ遅く、夕方に近い時間。僕たちは周辺にあった書店に立ち寄った。大通りから少し離れた通りには人がまばらに通り過ぎるだけで、そこまでの活気はない。
書店に入れば、本の独特の匂いが鼻腔を満たす。森の中のような静謐さはやっぱり落ち着くもので、僕は自分でもリラックスしているのを感じた。
「最近はどんな小説を読んでるの?」
小説が並ぶコーナーに向かう道すがら尋ねる。少しばかり、心に余裕ができたかもしれない。
「恋愛小説、かな」
茜はぽつりと言った。そう言えば、恋愛小説と聞いて思い出した。
茜が家に来たときに、僕は遥が恋愛小説を書いていることをうっかり話してしまったことがあった。僕が勝手に話したことに遥が怒っていたのは、記憶に新しい。
「色々な恋の仕方があるのかなって、読んでて色々考えちゃった。たまに、そんなのあり得ないでしょ、って思っちゃうのもあるけど」
パンを咥えた女の子と男の子がぶつかっちゃうとかね、と。茜は苦笑しながら言った。
アニメとか少女漫画でよくある展開と聞いたことはあるけれど、確かに現実には起こりづらいことだと思う。
「……そっか」
恋の仕方。偶発的に発生するその気持ちは、未だに僕の中には発生していない。誰かに恋したことがないから、僕には分からない。だから想像したり、本で読んだことを思い返したりすることくらいしかできない。
会話してみると意外に面白い人だったり、容姿が良い人に惹かれたり。人によって始まりはばらばらかもしれないけれど、最後には同じ感情に行きつくのだろう。
……茜はどうなんだろう。
告白してくれたあの日。茜は、僕が笑ってるところを見たいと言ってくれた。
その気持ちの出発点は、いったいどこだったのか。もしかして、茜と初めて話をしたあの日から、こうなることは必然だったのだろうか。
気まぐれに発生するのに、必ず同じ場所に帰結する。それが僕には、ちょっとだけ残酷なことに思えた。
「舞台も高校だけじゃなくて、大学とか会社とかの場合もあって、その度に想像してみて。登場人物もいろんな人がいて、どんな風にこの人に恋したのかな、って。そうやって考えるのが楽しいかな?」
僕は、そんな風に考えて本を読んだことはなかった。そこに書いてあることだけを淡々と受け入れて、『そっか、そういう結末なんだ』って。感想と呼ぶのおこがましい稚拙な気持ちしか湧いてこなかった。感受性がないのか、想像力に乏しいのか。僕はいつだって、うわべをなぞってばかりだった。
「ちょっとずつ関係が進んでるのを見ると、応援したくなっちゃう。大変なことがたくさん起こるけど、幸せになってほしいなあって」
「……そうだね」
そんなのただの妄想だと笑われてしまようなハッピーエンドや、どこまでも非情な現実を突き詰めたバッドエンド。どちらも等しく一つの物語であって、優劣をつけられるようなものではない。
でも、せめて。叶わないことだとしても、なるべく多くの人が幸せであってほしいと、確かに僕もそう思う。
小説のコーナーに着くと、茜は本棚から一冊の小説を取り出した。
空と海を彷彿とさせる青いデザインのカバー。彼女がじっと見つめるその先には、空と海以外、何も映っていない。空を自由に羽ばたく鳥さえも存在していなかった。
「ほんと、色々な関係があるよね」
手元に取ったその小説の表紙を眺めながら、茜は目を細めた。
「疎遠になっちゃった幼なじみだったり、クラス替えで隣の席になった同級生だったり。他にも──」
何気ない会話。
けれど、だからこそそれは不意打ちで。
「──喧嘩しちゃった兄妹、とか」
──真実をかする言葉。
僕は一瞬、呼吸ができなくなった。たった一言に、僕は全身に緊張が走るのを感じる。血の気が失せそうな感覚に、たまらない自己嫌悪に陥った。
「最後のは、実際に聞いたこともないけどね。きっと小説の中だけの話だと思うし」
茜は小説の表紙を、そっと指でなぞった。
「あ……。そう、だね」
動揺が表に出ないように、努めて平静を装って声を出した。落ち着くはずの本の匂いも、今となっては効果が切れてしまったようで全く機能しない。グラグラと揺れる平衡感覚の消失に、僕は今にも倒れてしまいそうな錯覚に陥った。
けれど、それをぐっと堪える。これは僕自身の気持ちの問題だ。悩みがあって、迷いがある。だから僕は悩んでもいけないし。迷ってもいけない。
そう言い聞かせ、なんとか踏みとどまった。
「……茜?」
少しの間流れた沈黙。茜が小説を手に取ったまま微動だにしないことに、僕は今更気づいた。
「……ううん。なんでもない」
首を振りながら、茜は小説を元の棚にそっと戻した。
喫茶店のときから、どうにも茜の様子がおかしい気がする。茜と話をしているはずなのに、どこかしっくりこない。
挙動不審という感じじゃなくて、ふとした瞬間に何か別のことを考えているような感じだった。上手く言葉に表すことはできないけれど、いつもの茜らしくないように感じられた。
僕が言葉に迷っていると、茜はふっと表情を緩めながら言った。
「そろそろ帰ろっか」
……
……
電車に揺られて十数分。降り立った駅構内から外に出れば、見慣れない景色が眼前に広がる。
しばらく歩くと、閑静な道に差し掛かった。決して狭くはないけれど、人の気配は全くなくて、人影一つ見えない。
「暗くなるの、早いね」
茜の言葉に、僕は歩みを止めずに空を見上げた。電車に乗る前はまだ明るかった空は急速に暗がり始めて、今は刹那の夕方を迎えていた。
棚引く雲。カラスの鳴き声。ほのかに色づくオレンジ。四季によって移り変わる景色の中で、最も短い時間。ゆっくり流れていたと思っていた時間は、気づけば駆け足で過ぎ去っていた。
目の前には、二人分の影が伸びている。身長も違う僕たちの影は、当然その長さも違っている。地面に映るのっぺらぼうは、表情もないし話すこともない。
「送ってくれてありがとう。この辺で大丈夫だから」
茜の家の近くまでやってきた。
「今日はすっごく楽しかった。付き合ってくれてありがと」
「……僕も楽しかったよ」
「ほんと? よかった」
柔和に笑む茜はそう言うけれど、僕はやっぱり違和感があった。
茜は僕の顔を真っすぐ見ていない。今も向かい合っているはずなのに、その視線はどこかずれたまま。
「また学校でね」
「……」
そんな僕の思考を打ち切るように、茜はくるりと振り向いてしまった。徐々に広がる僕と茜の距離。
また学校で。
僕もそう返すのが普通なのだろう。
休日にクラスメイトとデートして、少しずつ仲を深めていって。関係がどう発展するかは分からないけれど、それすらも青春の一ページとしてとらえる。絵に描いたような筋書きは、行先が丁寧に作られた一本の線路。
僕はずっと、そこに乗ることを望んでいた。そうすれば、安全で、正しくて、大切な人を守れると思っていたから。
でも。
「……待って、茜」
ここでお別れして、また線引きを曖昧にして。ただ居心地のいいぬるま湯に浸かって。誰かが示した道にしか従わない。
僕はもう、そんなのは嫌だ。そんな自分はもう嫌だ。だってそれが、本当に大切にしたかった人を、傷つけてしまっていたのだから。
だから……。
「告白の返事。させてほしいんだ」
ピタっと止まる足。
深呼吸する。動悸が激しい。バクバクと暴走しかける心臓の鼓動は、だんだんと大きく聴こえる。不安がうっそうと茂る森の中は明かり一つ見えず、一寸先は切り立った崖とも知れない。
だけど、僕は茜に勇気をもらったから。その分の勇気を、返さなきゃいけない。
「……ごめん、茜」
ただ一言だけ、僕は呟いた。
それは目の前の茜に伝えているようでいて、その実ただの独白でしかなかった。
僕の背中をまさぐる泥。それは少しずつ僕の足取りを鈍らせてくる。竦んだ足元はやっぱりよく見えない。今、僕がどこに立っていて、どこに向かおうとしているのか。全く分からない。
風が吹いた。僕と茜の間に吹き抜ける風は、かすかな砂ぼこりを伴ってさらさらと宙に消える。
「……理由って、聞いてもいい?」
冷静な声。カバンの紐を握りしめる手には、ぎゅっと力が入っていた。
見ていられなかった。見ていたくなかった。今、目の前の子を傷つけているのが自分自身であると、まざまざと思い知らされるから。
けれど、僕は逃げちゃいけない。ここで逃げてしまえば、僕はずっと逃げ続けてしまう。その逃げ続けた果てに待っているものは、きっと誰も幸せにしない。
深く息を吸う。ゆっくりと、自分の言葉を口にする。
「……どうしても、泣かせたくない人がいるんだ。茜と付き合うと、その人を泣かせちゃうから」
それは最低な言葉だった。茜の気持ちを踏みにじるような、ひどく醜い言葉。
現実も、事実も、いつだって僕たちを苦しめてきた。取り返しのつかないことが起きてしまったとき。僕たちはただ泣くことしかできなかった。
時間は戻らない。手のひらから零れ落ちていく砂の粒は、二度と手のひらに戻ることはない。
時の流れは不可逆だ。だから僕はせめて、あの日の約束を違えたくなかった。あの日僕が決めた、本当に大切にしたいものを決して見失いたくなかった。
「だから……ごめんなさい」
僕は茜の気持ちを、受け止められない。
後ろに見える茜色に染まっていた空は、その刹那の輝きを曇らせて、徐々に姿を隠していく。
もうそろそろ夜の時間だ。みんな家に帰って、それぞれあたたかな家庭でゆっくりと休む時間。そこがきっと、みんなが帰るべき場所。
……ああ、そう言えば。
遥との約束、破っちゃったな。
夕方になる前には帰るって言ったのに。ひょっとしたら怒るだろうか。でも、あの遥のことだ。そこまで気にしてないということもあるかもしれない。
僕と遥の間に生じた数年間に及ぶ隔絶。遥からの一方的な拒絶に対して、僕はただショックを受けることしかできなかった。自分に一番近い存在のことさえ、何も理解できていなかった。だから今、遥がどんな気持ちでいるのか分からない。
「……」
沈黙が痛かった。グサグサと針で刺されるような痛み。
思わず唇を噛んだ。これはケジメだ。僕はずっとこの痛みを覚えて、向き合いながら生きていく。そうしなきゃいけない。
けれど。
「……なんとなく、分かってた」
「……え?」
ぽつりと呟いた一言に。
そんな痛みが一瞬だけ消え去った。
「……分かってたって……」
茜は、ゆっくりと振り向いた。
「カナは、優しいから」
そこにあるのは失望でもなく、絶望でもなく。優しく労わるような、気遣った微笑み。茜が何故そんな顔をするのか、僕には分からなかった。
「……カナって、やっぱり自分のことになると本当に鈍感だよね」
僕の目の前まで、茜が歩いてくる。
静かな歩みは、真っすぐこちらに向かって来ていて。
「カナ。今日の間ずっと、苦しそうな顔してたよ」
「……あ……」
僕は、やっと分かった。
どうして茜の様子がおかしかったのか。
どうして僕を真っすぐ見ていなかったのか。
頬に触れたのは茜の温かい手。頬の形をなぞる指が、こそばゆかった。
僕は動けない。その手があまりにも柔らかくて、優しくて。そのまま、溺れてしまいそうで。何もかもを委ねてしまいそうな自分が、心の中に確かにいた。
「……あたしの方こそ、ごめん」
「な……」
……なんで。
「ずっと、言い出しづらかったんだよね。だから、あたしの方こそごめん」
そんなのおかしいじゃないか。茜が謝ることなんて何一つないはずなのに。どう考えても謝るべきなのは僕のはずなのに。どうしてそうやって優しくするんだよ。
茜の手がゆっくりと離れ、そこにあった熱は泡沫の夢のように消える。俯いた茜に浮かぶ表情は僕からは見えない。
背筋を撫でる冷たい予感。ひりつきだす喉。冷たい空気が肌を通り、血管を通り、心臓の奥深くまで浸透する。
胸がひどく苦しい。眩暈さえした。べったりと塗られる罪悪感に、僕は何も抵抗できない。抵抗する気もない。これは僕が独りで背負うべき咎だから。
「……一つだけ訊いていい?」
それはまるで、最後の宣告のように。永遠に答えの出ない問題のように。
俯いたまま、茜が僕に問う。
──その人って、誰なの?
分かっていた。急所をえぐるその一言が来ることを、僕は分かっていた。茜はその先の真実を求めてきた。僕が決して言いたくない言葉を、純粋に追い求めてくる。茜には当然、その権利があった。僕には答えを返さなくてはならない義務があった。
分かって、いたのに。
「それは……」
夕方の光が、影を長く伸ばす。地面に乖離するのはもう一人の自分。影の伸びた先に待つのは陽の光もない真っ暗な夜。
僕の手は、やっぱり震えていた。ガタガタと、ガタガタと。震えが止まらない。何か大切なものが、壊れてしまいそうで。
「……」
怖い。僕は怖い。
「……っ」
胸を抑えた。動悸が激しくて、息が苦しくなる。
覚悟を決めたつもりだったのに、どうしてこうも躊躇してしまうのか。難しいことはない。ただ一言だけ、その名前を告げればいいだけ。それだけなのに。
「僕は……」
喉が、体が、心が、動かない。
何やってるんだよ。早く動けよ。
黙ったままじゃあ、何も分からないじゃないか。
早く言うんだ。決着をつけるんだ。
手を強く握り込む。手のひらに爪を食い込ませて、迸る痛みに言葉にできない思いを塗り込む。自分の考えを貫くということは、誰かの考えを、思いを否定すること。その誰かを深く傷つけてしまうこと。そしてそれこそが、僕が選んだ道。
深く息を吸う。今にも倒れそうな体を無理やり抑えつけた。
「僕は──」
「──待って!」
──それは、半ば叫ぶような声だった。
僕の喉から出かかっていた言葉は、茜の突然の声にぴたりと止まった。
吹き抜ける一陣の風。なびく風が木々や髪を揺らす。騒めていた鼓動も、今にも倒れてしまいそうなよろめきも、その全てが瞬時に消失した。
「やっぱり……待ってっ……」
「……茜?」
顔を上げて、僕は気づいた。
震えていたのは、僕だけじゃなかった。
セーターの裾をぎゅっと掴む茜の手。彼女の手は、まるで寒さに震えているようで。ぽたぽたと流れ落ちていく雫。乾いた地面に落ちるそれは、少しの爪痕を残して地面に染みこんでいく。
「やっぱりっ……言わなくて、いいから。それ以上を聞いたら、もっと泣いちゃうからっ……」
……それは、僕にとってあまりにも優しくて、あまりにも許されないことだ。言わなくてもいい、だなんて。その優しさに甘えてしまえば、僕は逃げ続けてしまう。それは僕が幼い頃に抱いていた理想とは大きくかけ離れたものだ。
「……でも──」
だから僕は食い下がろうとした。たとえ、それを伝えることで嫌われることになったとしても。僕にはもったいないくらい、優しいその気持ちを踏みにじることになったとしても。それがきっと、茜の真摯な気持ちに対して僕ができる唯一の誠実さだから。
だけど……。
「いいから!」
「っ……」
「何も……。何も、言わなくてっ……いいから……」
振り乱される髪と、降りしきる雨のような涙。
「あたしは……」
掠れてしまいそうな声で、俯きながら何度も何度も目を拭って。
「あたしが好きなのはっ……」
一歩、また一歩と、よろけるように歩き出して。
温かくて柔らかい感触が、胸に触れた。
「笑顔のカナだからっ……」
「あ……」
それはまるで、文化祭のあの日のように。
胸に感じるのは、茜の体温。
「カナにっ……そんな苦しそうな顔……してほしくないからっ……」
シャツに染み込む涙の跡だけが、その隙間からは見えた。僕はやっぱり、動くことができない。垂れ下がる腕が、その細い両肩を掴むこともない。鼻をくすぐるシャンプーの甘い香りが、どうにも悲しく思えて仕方なかった。
「カナはっ……その子のことが、大切なんでしょ……?」
「……」
「その子のことが……好きなんでしょ……?」
そろそろ夕方が終わる。地面に映っていたもう一人の自分の姿は、既になくなっていた。形のない影はそこにあるはずだけれど、僕の目には映らない。
ここにいるのは影じゃなくて僕自身。だから、僕の口からはっきりと言わなきゃいけない。思い浮かべるのは、この世界でたった一つしかない絆。
「……うん」
泣きじゃくる茜が、果たして誰を想像しているのか。どうして、言わなくていい、だなんてことを言ったのか。本当に意味するところを、僕は知らない。
けれど、だからこそ僕は、誰でもない僕自身としてちゃんと話さなきゃいけない。
自分で考えて、自分の言葉で、自分の責任で。
何度目かの深呼吸をする。体の力を抜いて、ごく自然に。
ゆっくりと、口を開いた。
「僕は──」
すっかり日の暮れた夜の帰り道。
隣には、誰もいない。
街灯の頼りない光は等間隔に足元を照らしていて、僕は一つ一つそれを数えながら歩く。腕時計を見れば、だいぶ遅い時間になってしまっていた。
朝早い時間から出かけて、教科書をなぞったようなデートをして。ふわふわとした夢心地で、楽しくも苦しい時間だった。ゆっくりと長く続いてた時間は、太陽の降下と共に終わりを迎えた。
空を見上げる。見上げた夜空には星が輝いていた。きらきらと輝く星は、日々変わることなくそこに佇む。季節によってその見え方は変わるけれど、その存在自体は何も変わらない。
「……」
胸元をそっと触る。
少しだけ湿った感触が指に触れた。
これからも学校で何度も顔を合わせることになる。だって、僕たちは隣の席同士だから。そのときにどんな顔をして会えばいいのかは分からない。
ただ、去り際に一言だけ。
「……ありがとう、か……」
たった一言だけど、あまりにも複雑な感情が内包されたその言葉が、夜風に冷えることなくいつまでも脳裏に焼きついている。
泣き笑いを浮かべていた彼女。僕が伝えたその名前の意味が、正しく伝わっていたのかは、彼女自身に訊かないと分からないまま。
でも、どうしてだろう。不思議と、彼女は悟っていたようにも思えた。表立って口にしてしまえば、場合によっては忌み嫌われてしまうようなその言葉を、真の意味で理解していたんじゃないかって。根拠も何もないけれど、そんな気がした。
「……」
足を止めた。目の前に佇むのは住み慣れた家。
寂しいときも、悲しいときも、苦しいときも、つらいときも。いつだって優しく包み込んで癒してくれた僕の居場所。
あともう一人。僕には、話をしなきゃいけない人がいる。今度こそ、ちゃんと向き合わなきゃいけない。
ポケットから鍵を取り出して、玄関のドアを開いた。
「……ただいま」
静まり返った家。真っ暗な家の中。今では見慣れた景色が、何も言うことなく僕を出迎えた。僕はスイッチを押して玄関の明かりをつけた。
「……?」
靴を脱ごうとして、あることに気づいた。
今では二人暮らしも同然のこの家。玄関に並ぶ靴も当然、二人分しかないはず。だからすぐに分かった。
「……遥?」
そこにあるはずの靴が、何故かなくなっていた。