妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
ガタゴトと、規則的に揺れる車内。車輪が回る音と、過ぎ行く窓の外。初めはぽつぽつと人がいたけど、今となっては他に誰もいない。もっともそれは、この電車が田舎の方に向かっているから当然ではあった。
『──』
電車のアナウンスが鳴った。告げられた地名は僕らの目的地。間もなくして、車両は徐々に減速を始める。駆け足だった景色はその速度を緩めていき、外の景色を鮮明に映し出した。
線路と車輪が摩擦する音がキィと鳴り響く。その音が終わると共に、慣性に従って体が揺れた。
音を立てて開く自動ドア。僕は荷物を持って、静止した車内から無人のホームに降り立った。
「……暑いなあ」
空から降り注ぐのは燦々と輝く太陽の光。見渡す限りに映るのは紺碧の海と、群青色の空。潮の香りを乗せた風は生ぬるく頬を撫でていき、瑞々しく生い茂った樹木の木の葉を揺らす。これだけ暑いと、涼しい電車から降りたことを少しだけ惜しく思えてきた。
空に手をかざしながら、僕は後ろの連れ人に問いかけた。
「遥は大丈夫?」
振り向いた先には、麦わら帽子を片手に持つ妹の姿。停車場の陰から出てきた遥は、空の眩しさに目を細めながらも頷いた。
「……平気」
ひらりと、シルクのレースを施した純白のワンピースが揺れた。同時に、艶やかな濡羽色の長い髪が柔らかくなびく。
肩から指先まで真っ白な肌を晒す遥。日に焼けてしまわないか心配だったけど、出かける前に日焼け止めを塗ってきたらしく、そんなに心配しなくてもいいと言ってきた。
一息ついて、再び辺りを見渡す。広大な海の手前には白い砂浜。陽の光を受けてきらきらと輝いて眩しい。
ポケットから一枚の写真を取り出した。
ここに来たのは二度目だ。
写真の景色と寸分違わない光景。天気だけが心配だったけれど、晴れて良かった。
二人で海岸沿いをゆっくりと歩く。田舎特有の空気と言えばいいのか、とにかく長閑なところだ。気温も湿度もそこそこに高く、少し歩くだけで額に汗が滲んできた。でも、ときどき吹いてくる風が気持ちいい。
「……ここかな」
写真と見比べて、その場所がこれを撮った場所と同じであることを確認する。
ここに訪れたのは一度だけだった。そのたった一度が、今でも心の中に息づいている。
カバンから一輪のカーネーションを取り出す。
そして手向けるように、そっと地面に置いた。マナーが悪いとは分かっているけれど、これくらいは許してほしいと願って。
目を閉じて、黙とうを捧げる。今はもういないけれど、それでも確かに見守ってくれているはずの人に向かって。
耳に届く涼やかな潮騒。押し寄せては返していく波の音に身を埋没し、まるで一体化するような没入感に浸った。
……
……
母さん。僕たち、二十歳になったよ。
信じられないかもしれないけど、もう大人になったんだ。
今は都内の大学に通ってるよ。僕が法学部で、遥は文学部。目標とかはまだおぼろげだけど、法律について勉強したいと思ったんだ。覚えることがすごく多くて大変だけど、色々なことを学びたいと思ってる。遥は確か、文学作品の研究をしてみたいって言ってたかな。どういうことをやってるのか、僕は具体的には分からないけれど。
そう言えば。僕たちなんだけど、実は大学の近くのアパートで二人暮らししてるんだ。父さんにも相談したんだけど、自由にやってみなさいって言ってくれて。大学の講義とバイトの両立は結構大変だけど、それなりに楽しく過ごせてる。
バイトだけど、僕はカフェで働いてるんだ。接客とか中々慣れないけど、いい経験をさせてもらってる。それと、遥は本屋でバイトしてる。受付だけど手持無沙汰らしくて、控室で小説書いてるらしいんだ。僕が読ませてって言っても、頑なに読ませてくれないけど。高校の頃からそうだったけど、何を書いてるんだろうね。いつか、教えてくれるといいな。
それと、今度実家に帰ったら、高校のときの友達と飲む約束をしてるんだ。男は僕一人で、女の子は三人。ちょっと肩身が狭いけど、みんなと会うのがすごい楽しみなんだ。
……僕さ、自分はずっと独りだと思ってたんだ。母さんがいなくなったあの日から、ずっと。遥の傍にいるって決めていたはずなのに、遥のことをちゃんと見ていなかった。
でも、大切な友達が勇気をくれた。
大切な友達が、否定しないでくれた。
それは小さな世界かもしれないけど、僕にとってはとても暖かくて、優しい場所なんだ。
大切な人たちに支えられて、今を生きています。
だから母さん。どうか、安心してください。
……
……
「……」
指先に触れた細い指。隣の遥が僕の指をつまむようにして握っていた。遥は一輪のカーネーションの花を見ながら、僕の肩に頭を寄せる。
その横顔は、優しくて、温かくて、穏やかで。
僕はそっと、指先に力を籠めた。
海に沿って、砂浜を歩く。きめ細やかな砂のクッションは靴の裏を少しだけ沈み込ませ、僕の体重をしっかりと受け止める。自然の整備がなされた景観は、都会では中々見られない景色だ。都会だと、コンクリートの建物やガラス張りのビル群。狭い道路にひしめく車と、蠢く人々。都内は日々の忙しなさに満ちていて、毎日が活発だ。
でも、ここは違う。ありのままの雄大な自然には人の介在する余地はない。息を吸い込めば潮の香りが胸いっぱいに満ちて、忙しなく乾いた日常の隙間をゆっくりと満たす。
「そう言えば、父さんからメール来てたんだ。今度帰省したときに、飲まないかって」
父さんは僕たちが大学に進学したことを機に実家に戻ってきた。それは、僕たちが家を空けてしまうことになるから。ときどきは海外に行くこともあるけど、なるべくはこの国にいられるようにしたらしい。
「……お酒は苦手」
「はは……そうだね」
苦い顔をする遥に、この間のことを思い出す。
僕たちがちょうど二十歳になった誕生日。ちょっとだけ背伸びしたいと思ったのか、遥がバイト帰りにお酒を買ってきた。アルコール度数の低い缶チューハイを数本。僕はそれを見たとき、そういえばもうそんな年齢になったのだと、改めて実感した。
それで夕飯を食べながら、一缶だけ開けてみたのだけど。
「まさかあんなに弱いなんてね……」
「あまり言わないでよっ」
むっとしながら、いじけたように顔を背ける。
遥は思った以上にお酒に弱く、すぐに酔いつぶれてしまった。
「あの日は大変だったんだよ? ベッドに運んだら服を掴んで離してくれないし、それに──」
「だ、だから言わないでってば!」
記憶を掘り返そうとする僕に、背けていた顔をうっすらと赤く染めながら抗議してくる。
「……もう、ほんと最悪」
「はは……」
僕としては、遥の弱み、と言うほどのものではないけど、そういう一面が見られて嬉しくはあった。
「父さんの相手は僕に任せてよ。父さんがどれくらい飲むのかは分からないけど……」
そこはまあ、長男としての仕事、とでも言えばいいのだろうか。二十歳になった一先ずの節目として、ここまで面倒を見てくれた感謝の証を飾らずに伝えて。これからも迷惑をかけていくと思うけど、よろしくと伝えて。そんな風にしながら、父さんと久しぶりに腹を割って話をしてみたい。
それに、美玖や茜とも。
同じ大学ではないから中々会う機会もなかったけれど、今度会ったら、あの頃を懐かしく思いながら、思い出を語り合いたい。
「……」
さざめく波音。それは自然が生み出した天然のオルゴール。単調で面白みはないかもしれないけど、心臓の鼓動と同じような波長に心が安らぐ。
遠くには二匹の海鳥が佇んでいて、ゆりゆらと揺り篭に揺られながら、静かに体を休ませていた。こうして海を見ると、改めて夏を実感する。
一年の流れは、永遠に続く輪環の順。夏の日差しが翳りを迎えれば、秋の雅な紅葉が風と共にやってくる。真っ白な雪が降り積もる冬が終われば、大地に根付く樹木が力いっぱいに花を咲かせる春が訪れる。そうして、時は流れていく。
──バサバサッと、羽ばたく音。
二羽の海鳥が、水しぶきを上げながら水面を蹴る。見上げれば、大きく翼を広げて力強く羽ばたいていた。照り付ける太陽の日差しをものともせず、風を切りながら宙を走る姿は、海から空へ上る一つの線のようだった。
海鳥が遠く、ひたすら遠くへと駆けて行く。
果てのない旅路には、きっと幾多の困難が待ち構えていて、ときには力尽きて倒れてしまうこともあるだろう。それでも、海鳥は羽ばたいていく。
打ち寄せる波の音に混じり、鳴き声が聴こえた。ここではないどこか遠くへと響き渡るような歌声。
ゆったりと流れる、穏やかな群青色の空。
静かに澄み渡る、情愛深い紺碧の海。
海鳥が飛んだ先の水平線で、その二つは確かに交わっていた。
「……なにを見てるの?」
凛と響く涼やかな声には、強かな優しさがある。耳朶を打つのは、僕にとって一番心地よい声。怜悧な相貌と凛然とした装いを兼ね備えながらも、遥は不思議そうに僕を見上げた。
ここ最近で、僕は少しだけ身長が伸びた。そのことに、ちょっとだけ不満そうに唇を尖らせていたのを、僕は覚えている。
いくら僕と遥が双子と言えど、男女の違いがあるのだから仕方ないことだと思った。
「海を見てたんだ」
海鳥の鳴き声が、遠くへと静かに消えていく。太陽の光を受けてきらきらと輝く海が眩しくて、僕はわずかに目を細めた。僕に寄り添う遥も同じように、その目許をやわらかく緩めながら、海に視線を移した。
遥の綺麗な黒髪に飾られた、小さな白いアネモネのヘアピンがひっそりと輝く。白と黒のコントラストがシンプルで、やっぱりとても良く似合っていた。
暑い日差しが降り注ぐ中、僕は遥と隣並んで歩く。海岸の砂浜には誰もいない。この辺りは地元の人にもあまり知られていない場所なのだと、僕は幼い頃に教えてもらったことがある。
記憶の片隅に残る、お茶目であたたかくて、安心する笑顔。
……母さん。
──どうか、幸せに。
「あ……」
──風が吹いた。
木々の葉が揺れる音が一際強く響いて、押し寄せる波もより大きくなる。でも、その声は確かに聴こえた。それは風に乗せられた母なる調べ。
胸がつまった。もしかしたら幻聴だったのかもしれない。けれど、心の中に息吹いたのは間違いなく、かつての温かな灯。
思わず振り返った。
なだらかに続く砂浜には、僕と遥の二人分の足跡だけが残っている。しばらく歩いていたからか、自分でも気づかないくらい長い距離に足跡が続いていた。
始まりの場所に見える足跡は小さく、僕たちのいる場所に向かうにつれて、だんだんと大きくなっている。僕たちが歩んできた軌跡だった。
「……?」
ぎゅっと。腕を強く握られた。
目を戻せば、真っ白な片頬をぷくっと膨らませて僕を甘く睨んでいた。早く行こうよ、とでも言いたげだった。僕はその姿に、昔のことを想起する。
二人で遊んでたおもちゃを壊してしまったときも、公園の砂場で作った城を壊したときも、同じような顔をされた。
「……ちょっと暑い。早く日陰に行きたい」
そう言う割には、僕にくっついたままだ。それを指摘してしまうと遥はもっと拗ねてしまうから、あえて別の言葉を口にした。
「ごめん。でも、もう少し歩きたいなあ」
「……それなら、別にいい」
意地っ張りだったり、素直だったり。色々な表情を見せてくれるのは、僕にとってかけがえのないひと時だ。一時期はその声を聞くことさえも、ままならなかったのだから。
「……このあとは、どうするの?」
「ん……まだ決まってないかな」
海鳥の姿は、いつしか見えなくなっていた。目的地まで無事にたどり着けるのかは誰にも分からない。でも、何故か確信があった。きっと大丈夫だという確信が。根拠も何もないけれど、僕はそう思った。
彼らの行く末には未来がある。その歩みは小さいかもしれないけれど、ゆっくりと一歩ずつ。でも確実に先へと進んでいく。
二人分の、砂浜を踏みしめる音が子守唄のように心地が良い。隣から、ふわりとフローラルな香りがした。ずっと近くて、ずっと遠かった僕たちは今、こうして寄り添い合う。半袖のシャツを着ている僕は、遥のさらさらとした黒髪が腕に触れてくすぐったくなった。
「ねぇ、彼方」
しっとりとした声。甘えるような縋るような、でも芯の通った声。
「これからも、傍にいてくれる?」
その言葉とは裏腹に、あどけなさを孕んだ瞳は答えを知っているように思えた。
高校生だったあのとき。僕は遥の気持ちを知った。そしてそのことに、遥がずっと苦しんでいたことも。だからこそ、あのとき決めたことを、僕は守り続ける。
「もちろんだよ」
汗ばんだ手のひら。僕は少しだけ、力を籠めた。これからも僕たちは、何度だって喧嘩だってするだろうし、すれ違うこともあるだろう。
だけど大丈夫。僕と遥は双子の兄妹。僕たちの軌跡は、これからも続いていく。 形のないぼやけた未来でも、少しずつ形取って、僕たちなりの在り方を見つけていく。これからもずっと。
前を向く。
まだ真っさらな砂浜には、誰の足跡もない。ここから先は、誰かが教えてくれた道じゃない。僕たちだけの一つの道。時には荒れ狂う波が、僕たちの足跡を消し去ってしまうかもしれないけれど、その度に僕たちは再び歩む。
雨の日も、風の日も、雷の日も。
どんな日が来ても、必ず空は晴れるのだから。
──見渡す限りの水平線。
海と空の美しい境界。
その遥か彼方へと、想いを馳せて。
新たな足跡を、また一つ刻み始めた。
後書き
Shinsemiaです。この度は本作品を手に取っていただき、ありがとうございます。この作品が、読者の皆様の心に何かを残せたのなら、作者としてはこの上ない喜びです。
ここからは私事になります。実はこの作品を投稿した当初は、皆様から強く否定されるのではないかと怯えていました。扱っているテーマがテーマですし、不快感を覚える方がいらしてもおかしくないと思っていました。それに、勉強不足な面が目立ち、誤字脱字やおかしな描写も多々見受けられたかと思います。
ですが、皆様はとてもあたたかく見守ってくださいました。お気に入り登録、評価、感想をくださった全ての皆様のおかげで、ここまで書ききることができました。感謝申し上げます。
本作品はこれで完結ですが、これからも不定期に作品を投稿していこうと考えています。もし何かの折に見かけたら、読んでいただけると幸いです。
末筆ではございますが、皆様への深い感謝をもって、結びの言葉とさせていただきます。ありがとうございました。
追記 2021/6/6
先日、ツイッターのトレンドで近親相姦倫理学というものがあがっていて衝撃を受けたので、本編後の大学での話を書くことにしました。もしかしたら蛇足になってしまうかもしれませんが、興味のある方は読んでいただけると幸いです。投稿日は未定です。