妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
学食で適当に昼を済ませ、帰路に就く。大学前の通りには行き交う人々。近くには学生向けに格安メニューを提供している飲食店が多く参列している。だけど、僕も遥も基本的に外食はしない。格安とはいえ、積み重なればそれなりに高くつくし、遥もあまり外食したがらないから。唯一外食するところと言ったら、僕のバイトしている喫茶店くらいだろうか。まあ、それもケーキとコーヒーを頼むくらいのものだけど。
金曜特有の解放感に満ちた空気の中、辺りを見回しながらゆっくりと歩く。この三年間で、だいぶ見慣れた景色がそこにはある。大学に入りたての頃は、大学内でさえ敷地が広くて右も左も分からなかったものだけど、今では不自由ない程度には地理を把握している。
大学から少し離れたところまで来ると、ポケットからスマホのバイブレーションが伝わる。遥からだろうか。時間を見れば、昼をちょこっと過ぎたくらいだ。調べものが長引いてしまったから、心配してるのかもしれない。表示された名前を確認してみる。
「……茜?」
遥からだと思っていたメッセージの着信。それは、大切な友人からのものだった。トークアプリを開くと、メッセージが表示された。
『カナ! 夏休みの予定なんだけど、いつ空いてる? それと、飲み屋さんはどこがいいかな?』
可愛らしいぬいぐるみが映ったアイコンは、茜のアイコンだ。小まめに連絡は取っていたから、見慣れたものだった。
そうだ。遥と茜、それに美玖も一緒に飲む約束をしてるんだった。みんなもう、お酒を飲める歳だから。
『八月の中旬辺りならいつでも空いてるよ。遥も同じみたい』
バイトがあるから夏休み中、とまではいかないけれど。
メッセージを返信する。すると、ぱっと既読がついて、すぐに返信がきた。
『よかった! じゃあ、あたしも日程合わせるね! 四人でお酒飲むの楽しみ!』
茜のメッセージを見てすぐに思い至ったのは、遥のことだ。一度お酒を飲んだ時に、すぐに酔っぱらってしまったのは記憶に新しい。けれど、折角の機会だし、茜と飲んでみたいのが本音ではある。
『そう言えば、茜って美玖と結構連絡とってるの?』
そもそも、茜と美玖がそんなに連絡をとり合う関係になるとは思っていなかった。高校のときに遥づたいに知り合ったのは覚えてるけど、そこまで仲がいいとは思っていなかった。
『うん。大学も割と近い方だし、たまに遊んでるよー』
言われて思い出す。高校の卒業式のときも、大学が近いとか遠いとか、そんな話をしていた。大学は全国に存在しているから基本的には遠く離れ離れになってしまう。だから、長期休みを利用して会う約束をしていた。でも、茜と美玖は割とすぐに会えるくらいの距離だから、別に長期休みとかは関係なく遊んでいるのだろう。
茜と数度メッセージを交わし、僕はスマホをポケットにしまった。
夏休みが楽しみだ。
数分歩けば、住宅街に差し掛かる。それなりに人はいるけれど、決してうるさくはない。
僕は住宅街のそばにある公園に立ち寄ることにした。何度か立ち寄ったことのあるこの公園は、地元の公園とは違って割合綺麗に整備された公園だった。
敷地に入ると、一際大きい一本の木が目に入る。その周りには円形にベンチが並んでいて、他にも端の方に等間隔にベンチが置かれている。
僕は橋の方の、木陰に隠れたベンチに腰掛けた。中央の木の近くには、滑り台やブランコがある。どこの公園にでもありがちなその遊具には、数人の小学生がいて。散歩にでも来たのか、缶コーヒーを片手にゆったりと座るおじいさんもいて。幼稚園児を連れた母親グループが世間話に花を咲かせている。
疲れがとれていくようだった。牧歌的な光景は、日々の忙しなさを和らげてくれる。いつも大学では活字とにらめっこして、ペンを走らせ、液晶画面に向き合ってタイピングする。ここはそんな場所とは正反対の場所に思えた。
……そう言えば、僕も遥も全然出かけない。お互いの趣味のメインは読書だから、わざわざ外に出る必要もないのだけど。買い物は二人で行くこともあるけど、どこかに遊びに行くということはあまりしたことない。
今更ながらに思う。遥は僕をどう思っているのだろう。以前と決定的に違うのは、僕と遥は互いの気持ちを理解し合うようになったこと。それだけはきっと間違いないことだ。
じゃあ、その先はどうなのだろう。踏み出した先にある僕たちのありかたはどういったものなのか。
言葉だけで物事を考えるのは簡単だ。それでもまだ螺旋のようにぐるぐる考えているのは、具体的な行動を取っていないから。
……今度、どこか誘ってみようかな。
「……」
いや。そんな風に考えること自体、僕が遥に対して一線を引いていることの証左に他ならないんじゃないか。
僕と遥は家族だ。そして、今はもうわだかまりも無くなっている。だったら、僕はもっと自然であるべきなんじゃないか。家族でどこかに出かけたり遊びに行ったりするのに理由なんていらない。
「……」
腕時計を見れば、昼をだいぶ過ぎてしまっている。僕は荷物をもって、木陰から出た。
眩しい空は、朝から変わらずに澄み渡ったままだった。
「ただいま」
扉を開くと涼しい空気が流れてきた。そして聴こえてきたのは、パタパタと鳴るスリッパの音。
リビングから遥が姿を見せた。
「おかえりなさい」
涼し気な声。わざわざ玄関まで迎えてくれた。どうやらリビングでくつろいでいたようだ。
「結構遅かったけど、どうしたの?」
「ん……ちょっと寄り道してた」
靴を脱いで玄関に上がると、僕たちはそろってリビングに向かう。
僕たちの住むアパートは家族みたいに複数人が住むタイプのアパート。父さんの伝手で紹介してもらったこの物件は、充分な広さがあった。父さんには本当に頭があがらない。
リビングに入ると、冷たい空気が頬を一撫でした。汗をかいた体がひんやりとして気持ちいい。
「麦茶出すから待ってて」
遥はまた、パタパタとキッチンに戻り配膳を始めた。僕はその間に、洗面所で手洗いうがいを済ませることにした。蛇口を捻って水に手を浸し、顔面にバシャっとかける。
「……」
軽くタオルで拭いて、目の前の鏡を見る。前髪の先からぽたぽたと流れる水滴。髪が伸びてきたかもしれない。
髪と言えば、遥の髪はだいぶ長い。お風呂上りも手入れに相当時間を費やしているみたいだし、面倒じゃないのだろうか。でもまあ、遥が髪を短くしているところは全然想像できない。本人も好きで伸ばしてるのだろう。
「彼方? どうしたの?」
いつまでも戻らない僕を不思議に思ったのか。遥がひょこっと、洗面所に顔を覗かせた。長い髪がふわっと揺れる。
「いや……髪が伸びてきたかなって」
くりくりと自分の前髪を触る。そんな僕に対して、遥は訝し気に首を傾げた。
「……そう?」
遥はそう思ってないらしく、僕の髪全体をしげしげと見回した。前に美容室に行ったのはいつだったか。そんなに時間が経っていないようにも思うけど、最近は忙しかったし、体感的に短く感じただけかもしれない。
……そうだ。この際だし訊いてみよう。
「遥は暑くないの? 夏でも全然髪を短くしないけど……」
物心ついたときから、遥は長髪だ。腰のあたりまでまっすぐ伸ばされた髪をさらさらと揺らす姿を、僕はずっと見てきた。
「暑いに決まってるでしょ?」
「じゃあ、どうして切らないの?」
「……」
疑問に思ってそう訊くと、何故か遥の目がジトっとしたものに変わってきた。
「……彼方は短い方が好きなの?」
「え?」
軽く唇を尖らせて、不満そうに口にする。別にそんなつもりはなかったのだけれど、遥は自分が咎められているように感じてしまったのもしれない。
「あ、いや……。そんなことはないよ。ただ純粋に、どうして髪を伸ばしてるのかなって思っただけで。手入れとか大変でしょ?」
「それはまあ……そうね」
僕の隣まで来た遥は、同じように鏡を見ながら自分の髪を触る。鏡の中には、似た顔が二つ。少し違うのは目の形と背の高さ。大きく違うのは髪の長さ。
「遥は長い髪が似合うと思うよ」
不思議な気分だった。肩と肩が触れ合うくらい近くにいても、遥は僕を避けない。そうなれたのは、僕と遥がお互いの気持ちを知ったから。その上で、共にいたいと思えるから。あの日の僕たちが吐露した感情は、きっと今でも変わっていない。
「……なに? 急にそんな恥ずかしいこと言って」
鏡越しに遥と目が合う。鏡の中の遥は居心地が悪そうにそわそわとしていた。うっすらと薄紅色に染まった頬。別にそんなおかしなことを言ったつもりはないのだけれど、遥はふいっと顔を背けた。
そしてちらちらとこちらを見ながら、「ねぇ」と言って。
「……そんなに気になるなら……触ってみる?」
……
……
「……じゃあ、お願い」
静まりかえった夜。僕は先にお風呂に入って、丁度さっき遥もお風呂から上がってきた。
遥から櫛を受け取る。ソファに座ったままこちらに背を向ける遥。試しに軽く髪に触れると、ピクっと肩が震えた。
「っと、ごめん」
「……別に。大丈夫」
少し強張った声だった。今思えば、こんなことするのは初めてかもしれない。
僕は再び遥の髪を一束持ち上げて、ゆっくりと櫛で梳いた。きめ細やかでしっとりとした髪の間をひっかかることもなく、櫛は滑らかに通っていく。お風呂から上がりたてだからか、シャンプーとコンディショナーの甘い香りがした。
「痛くない?」
「……平気」
こちらからは遥の表情は見えない。でも、さっきみたいな体の強張りはなくなったように見えた。
エアコンの音と櫛が髪を擦る音。外の明かりも落ち着いてきて、眠りにつくことも考えられる時間帯。この街に住む人たちは、どんな夜を過ごしているのだろう。家族団欒で話に花を咲かせたり、自分の趣味に没頭したり。千差万別だ。彼らにとって、僕たちもまたそうなのだろう。
櫛を通すたび、濡羽色の髪はリビングの照明を反射する。幼い頃からずっと見てきた遥の髪。改めてこう間近で見ると、よく丁寧に手入れしてるのがよく分かる。傷つけないように、慎重に髪を梳かす。
……そう言えば、母さんもこんな風に髪を伸ばしてたっけ。母さんの髪も、こんな感じの綺麗な髪だった。母さんの元へ向かうと、いつも軽く屈んで頭を撫でてくれた。そのときにふわりと揺れる柔らかい髪が、僕は好きだった。遥もきっとそうだ。
「……彼方」
「ん……?」
「今、何考えてるの?」
声音からは、妹の感情は読み取れない。
「……母さんのこと。こんな風に髪を伸ばしてたなって」
「……そうね」
柔らかい声音だった。詰まっていた思いが、言葉になって流れる。母さんと過ごしたあの時間が、たとえ遠い過去のものだったとしても、僕の中に残り続けている。
ゆっくりと、ゆっくりと。櫛を遥の髪に通していく。ほつれもなく、枝毛一つ見当たらない遥の髪。幼き日に見た母さんの髪とよく似ていた。
……。
「もしかしてさ、遥が髪を伸ばしてるのって……」
「……ええ」
……そっか。
僕はひょっとしたら、軽率なことを言ってしまったのかもしれない。遥が髪を伸ばしているのには、想像以上に深い意味があって。その理由も、僕たち兄妹には大きな意味を持つもので。僕は昼間の発言に対して、今更ながら後悔が湧き始めた。
櫛を動かす手が鈍る。すると、遥が急にこちらに振り向いた。
「私も彼方の髪。梳いてあげる」
「え? いや、僕は……」
「いいから」
言葉を遮って、遥は僕の手から櫛を奪い取る。遥は僕に、「そのままじっとしてて」と言うと、ソファに座ったまま僕の裏から髪を梳き始めた。遥の細い指が髪に触れてこそばゆい。
「僕の髪なんて触っても楽しくないでしょ?」
「それを決めるのは私よ」
遥は僕がしたときと同じように、静かにゆっくりと髪を梳く。
「……」
とりあえず、好きにさせてみよう。僕はじっとしたまま、遥に身を任せることにした。
人に髪を梳いてもらうなんて、生まれてからあっただろうか。もしかしたら母さんにしてもらったことがあるかもしれないけど、記憶にはない。
髪が軽く引っ張られる感覚に揺られながら、ベランダから外を見た。そこにはすっかり暮れた夜が佇んでいる。空には小さな星が一粒一粒、人工の光に負けないように輝いていた。
チクタク、チクタク。壁に掛けた時計の針が進む。実家とは違う狭いリビング。けれど、僕と遥にとっては心地よい狭さだった。あの家は、僕と遥が二人で暮らすにはあまりにも広すぎたから。
「……彼方」
ぽすっと。柔らかい何かが、僕の肩に触れた。櫛を動かす手を止めた遥が、僕の肩に額を当てるようにしてくっついてきた。
「……遥?」
「……」
シャツを掴む手に、少しだけ力がこもった。そしてぽつりと話し始めた。
「……こうしてると安心するの」
ソファは、二人分の体重を受けて沈み込んでいる。一人ではなく、二人の体重。
「変な話よね。あんなに彼方を拒絶していた私が、今更こんなことするなんて……」
遥が僕を遠ざけていた空白の期間。僕たちはそれをなかったことにはできない。だから今は、こうして近くにいることが、僕たちにとっての
「私怖いの。彼方がこうして拒絶しないでくれて、嬉しいって思ってるのに。やっぱり、怖いの……」
僕はたぶん、意味のないことをしているのかもしれない。結論の引き延ばしになっていて、具体的な形に起こせるものではないのかもしれない。
その宙ぶらりんな時間があまりにもふわふわとしているから、遥はどこか不安を抱えてしまっている。
それでも。
「彼方……」
「ん……?」
「……ありがとう」
それっきり遥は黙った。
小さくあどけない息遣いが、トクントクン、と伝わる。
ぽつりと漏らしたその言葉は、恐らく遥の本心なのだろう。真っ暗な闇の中で独りぼっちで苦しんでいた遥。でもそれは、僕もまた同じだった。遥が独りなら、僕もまた独り。だけど、僕たちはもう独りじゃない。
遥との関係の答え。それは、これから長い時間をかけて見つけていくものだ。僕はひょっとしたら、焦っていたのかもしれない。このまま穏やかに時が経ってしまえば、あの日の決意も、母さんとの想いでも、何もかもがなくなってしまうような気がして……。
でも、そんなことはあり得ない。僕は、僕たちは絶対に忘れない。だから焦らなくていい。ゆっくりでいい。
「ねえ遥」
「……」
「今度、どこか出かけよっか」
「……別にいいけど」
もごもごとくぐもった。シャツ越しの吐息がくすぐったかった。
「……もう少し、このままでいい……?」
「いいよ」
遥の抱えてる不安や恐怖が、こうすることで少しでも和らぐなら。先の見えない真っただ中にいる僕たちは、今もこれからも一緒だから。
だから今は。
今だけはまだ、この心地よさに浸っていたいと思った。