妹と仲直りしたい   作:Shinsemia

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第八話

 

 

 鼻を掠めたのは、いつもとは異なる甘い香り。

 夕暮れに佇む僕の目の前には、梓さんがいた。

 

 深い紺色の浴衣の袖口からは、細く真っ白な腕が伸びている。また、射的か何かの景品で取ったのか、彼女の髪には狐のお面がついていた。

 てっきり遥が戻ってきたと思っていた僕は、言葉が詰まりそうになりながらも、なんとか口を開いた。

 

 

「……梓さんも夏祭り来てたんだね」

「うん。ゼミのみんなと一緒にね。でも、少し風にあたりたくて今は一人で散歩してるの」

 

 

 目を細めながら、彼女は後ろ髪を少しかきあげ、熱を冷ますように手で仰いだ。

 

 

「ちょっとびっくりしたよ。彼方くん、ゼミのグループチャットで、夏祭りには行かないって言ってたから」

 

 

 確かに、ゼミのみんなと夏祭りに行こうという話はあった。ただ、それは僕が遥と夏祭りに行く約束をした後だったから、断りの連絡を入れた。だから特に必要ないと思って、あまりチャットの履歴は見ていなかった。どうやらそのあとで、梓さんや他のみんなが夏祭りに行くことが決まったらしい。

 

 

「本当はね、私も夏祭りは乗り気じゃなかったんだけど……」

「……そうなんだ」

 

 

 そう言うと、彼女はゆっくりと歩いてきて、僕の隣に並んだ。

 意外だった。浴衣を着たり、お面を付けてたり、純粋に楽しんでいるように見えたから。それに彼女は、人づきあいがうまくできる人だし、人が集まるようなイベントならなおさら得意にしていると思っていた。

 一方で彼女の火照った顔には、幾ばくかの疲労が見て取れた。人混みにまぎれた夏の温い風では、確かに疲れが出ると思う。僕自身もそうだ。

 

 

「彼方くんは妹と来てるの?」

「よくわかったね」

「わかるよ。なんとなくね」

 

 

 それはどういう意味だろうか。彼女は僕と遥の関係性を知らないはずだから、別に他意はないのだと思う。僕が過剰に反応しているだけかもしれない。

 ただ、彼女にそう言われてしまうと、心の内を見透かされているようで、胸がざわついた。

 

 

「あーあ。私も彼方くんとだったら、一緒に夏祭り来たかったなー」

「……それはどうして?」

「前に言ったでしょ?」

 

 

 彼女は、長い金髪を形の良い耳にかけながら、言葉を続けた。

 

 

「彼方くんと出かけるのが楽しかったから、またデートしたいって。予定とかあったら教えてって言ったのに、全然連絡くれないんだもん」

 

 

 小さな唇を尖らせながら、拗ねるような仕草を見せる彼女の首元からは、やっぱり甘い香り。その言葉は覚えていたけど、あれは社交辞令ではなかったらしい。

 社交性のある彼女のことだから、お世辞でそう言ってくれているものだと思っていた。あのときは、僕自身が上手に話したり、もてなしたりしたわけではない。きっかけを作ったのも、行き先を用意したのも彼女だ。

 

 

「あの言葉。本当なんだからね?」

「……ごめん」

 

 

 ジトっとした眼差しにたじろいでしまう。彼女の眼差しや仕草に、茜のことを思い出してしまった。茜と過ごした高校生活の中で、忘れることのないアルバムにそっとしまわれた、あの頃の記憶を。

 この前もそうだ。梓さんに会うと、茜のことを思い出した。理由がわからないまま浮かび上がる動揺に、少し眩暈がした。

 

 

「……っ」

「……? 大丈夫?」

「ごめん……大丈夫だよ」

 

 

 不安そうに僕を覗く彼女の瞳から視線をそらすようにして、こめかみのあたりを指でつまんだ。僕も彼女と同じように、夏祭りの特有の熱気で疲労が出てしまったのかもしれない。

 そんなことを考えていると、腕にたおやかな感触が伝わった。

 

 

「ここはまだ騒がしいから、静かなところで休んだほうがいいよ」

 

 

 目を開けてみれば、梓さんの白い手が僕の腕を掴んでいる。僕はそのまま、近くの林の茂みあたりにそのまま連れられた。夏祭りの通りからはそこまで離れていないけど、見えにくい茂みだった。

 喧騒が和らぎ人の熱気からも遠ざかる。緑の匂いが鼻腔に満ち、少し気が楽になった。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 梓さんも同様に一息ついたようで、赤らんでいた顔が少しずつ白磁に戻っていった。頬を手でパタパタと仰ぐと、それに乗って彼女の麝香が香る。

 

 

「さっき思ったんだけど、今日つけてる香水っていつもと違う?」

 

 

 思わず、呟くようにそう言った。梓さんは面食らったみたいで、頬を仰ぐ手をピタッと止めた。そして目許を緩めながら、「よく気付いたね」と返した。

 

 

「いつもつけてるのはシトラス系の香水なんだけど、今日はムスク系の香水にしてみたの……って言っても、彼方くんにはわかりづらいかな?」

「言葉だけは聞いたことあるから、なんとなくイメージはできるよ」

「ふぅん……そっか」

 

 

 香水の種類に詳しいわけではないけど、言葉と香りのつながりは感覚的に理解できる。

 彼女は近くの木に寄りかかりながら、所在無げに足をぶらつかせた。彼女の表情はからは、感情があまり読み取れない。

 

 

「……」

 

 

 無言の時間が続く。目を伏せると、彼女の浴衣の裾から、細く白い足首が見え隠れしていた。夏祭りらしく、彼女は下駄を履いている。鼻緒のあたりが少し擦れているように見えた。

 

 

「彼方くんはさ、夏祭り楽しい?」

 

 

 どれくらいの時間がたったのか。気づけば、彼女の声が耳に届く。

 彼女のぶらつかせた足が、小石を蹴飛ばした。蹴り飛ばされたそれはころころと転がり、林の茂みへと消えた。

 

 

「まあ、それなりには……」

 

 

 言葉とは裏腹に、正直なところ違う気がしてしまう。僕が夏祭りに来ようと思ったのは、僕が憧れていた経験そのものだったからだ。そこに楽しい、つまらない、といった感情はそんなに重要ではなかった。

 

 

「……私って、自分で言うのも恥ずかしいんだけど、社交性がある方だと思ってる。でもね、本当はちょっと違うの」

 

 

 社交性があるというのは、僕が彼女に抱いた第一印象そのものだ。分け隔てのない態度で、ゼミの集まりや行事に積極的に参加している。僕や他の人も、同じ印象だったと思う。

 でも、彼女と最近よく話すようになって、それは本質ではないのかもしれないと思うようになった。彼女は、色々な人と知り合いになると、一人ひとりとの人間関係が深まらなくなると言っていたから。

 

 

「ただ、周りと同じように普通の経験をして、普通に過ごして……。そうすることで、周りに馴染もうって思ってた。この夏祭りに参加したのだって、その一環。そうやって、色々な人と知り合いになって……でも──」

 

 

 ──どうしても、自分だけ浮いてる気がするの。

 彼女の言葉が、唐突に僕の胸を刺した。

 

 

「だから、私は……って、ごめんね。いきなりこんな話しちゃって。人混みに酔って、疲れちゃったのかな」

 

 

 そう言いながら、彼女は長い睫毛と共に目を伏せる。街灯で微かに照らされるその横顔は、今に消えそうな粉雪のように、儚くて。それでいて、はっとするほど綺麗だった。今まで見てきた、穏やかな様子や飄々とした姿からは、まるで想像もつかない。

 どう声をかけたらいいのかわからなかった。彼女が吐露した心情はきっと、本当の気持ちだろう。理由や理屈は何もないけれど、直感的にそう思った。

 だけど、強いて言うなら、その気持ちがわかったのはたぶん……。

 

 

「……僕も」

「……?」

「僕も、同じだよ」

 

 

 吐き出した言葉は、自分で思っていたよりも遥かに容易く、そして冷たく零れ落ちた。口が滑った、に近かったかもしれない。

 不思議な気持ちだった。昔から、それはおそらく無意識に考えていたことで。胸の(うち)からときどき、こっそり顔を覗かせては、気まぐれに潜ってしまうものだったから。

 こんな風に、すんなりと吐き出せてしまえたことが、不思議だった。

 

 

「周りと同じ景色が見たくて、同じ時間にいたくて……だけどそこには、自分たり得るものがなくて……」

 

 

 だからこそ、僕は変わろうとしていた。それではダメだって、教えてくれた子がいるから。僕がどうしたいかが大切だって、そう教えてくれた子がいたから。

 でも、変わることは全く簡単ではなかった。大学に入って色々努力してきたつもりだったけど、自分がどう成長しているのかわからない。わからなくて、ときどき不安になるんだ。

 

 

「右に倣えのまま生きて、それで何が残るのかなって。いつもそんなことを考えてる」

 

 

 梓さんは黙ったまま僕の話を聞いている。

 ひぐらしの鳴き声が響き始めた。

 

 ……僕らしくない、と思う。なんで僕は、こんなことを話したのだろう。誰にも言う必要がないし、言っても暗い雰囲気になるだけ。話のきっかけは梓さんだったかもしれないけれど、それでもこんなことを言うつもりじゃなかった。

 彼女の纏う空気が、僕の心を揺さぶってくる。梓さんには、僕がどう考えているのかを話してみたくなってしまった。

 

 

「ふふ。やっぱり、私が思った通り」

「……? 何が?」

「彼方くんは、不思議な人だね」

 

 

 ふと、彼女の方を見れば、狐のお面を外して手に持っている。彼女の大きなアーモンドアイは、心なしか目尻が下がっているように見えた。

 夏の風に乗って、彼女の綺麗な金髪がたなびく。きめ細やかなそのシルクは、一本一本が微細で、繊細で。

 ぼうっと、彼女の横顔に見惚れた。

 

 

「彼方くんといると、なんだか落ち着くなあって」

「それは……どういたしまして?」

 

 

 そう言うと彼女は、そっと距離を縮めた。麝香がより強く、首元を包み込む。

 今の会話の中に落ち着ける要素があったとは思えないけれど、彼女は何か納得したような顔をしていた。

 そして、続けて口を開いた。

 

 

「私、特定の人と仲良くなったことがないの」

「……全く?」

「うん、本当に全く。別にそれが辛いとか、悲しいとかってことはないんだけどね」

「……」

「でも、もし誰か1人だけとの仲を深められるなら、そのとき私はどうなるんだろうって。たまに考えちゃうの」

 

 

 彼女自身のことを聞けば聞くほど、僕は誤解していたのだと気づかされる。僕は表面上でしか、彼女のことを把握していなかった。

 誰からも好かれて、誰にも平等で……。ある意味、僕が理想とするような性格だと思っていた。けれど、彼女の様子を見るとそれだけじゃないんだと感じた。

 僕はまた、同じ間違いを犯すところだった。遥のことを、表面上でしか分かろうとしなかったのは、他でもない僕自身だったから。

 

 

「なんとなくね。彼方君には自分の、そんな考えを共有したかったんだ」

 

 

 ……ようやく。ようやく、今まで捉えどころのなかった梓さんが、少しだけ見えてきたような気がする。

 僕と梓さんは、似ているんだ。

 世界に馴染もうとしても、上手に馴染めなくて。周りと合わせようとしても、自分だけ浮いてるような疎外感があって。

 だから僕は、無意識に梓さんのことが気になり始めたのかもしれない。

 

 

「誰にも言わないでね、秘密だよ?」

 

 

 しーっと、ネイルが施された人差し指を唇にあてた彼女は、悪戯好きな子供のような顔で笑った。今まで見た彼女の表情の中で、一番混じり気のない笑顔だった。

 

 

「わ、わかったよ……」

「ふふ、秘密の関係だね」

 

 

 また、ゆっくりと距離が詰まる。彼女の熱がそよ風に乗って、僕の肌を撫でた。風に揺られたきめ細やかな金髪が僕の腕に触れて、くすぐったかった。

 彼女の秘密。今、僕たちはそれを共有した。そしてそれは、僕についてもまた同じことだ。

 大人に近づけば近づくほど、こうして何かを本音で話すのは難しくなるのだと思う。けれど、それができているあたり、僕は成長したのかあるいは子供のまま停滞しているのか。どちらとも判断がつかなかった。

 

 

「……彼方くんは、こういう話されるのは嫌かな?」

「そんなことないよ」

 

 

 むしろ、僕は心地いいとさえ感じている。

 彼女には不思議な魅力がある。話をすればするほど、彼女の人となりをもっと知りたいと思うようになった。

 

 少しだけ、無言の時間が続いた。その無言の時間も、気まずいとか何か話さなきゃとか、そんな気持ちにはならなかった。

 次に口を開いたのは、僕の方だった。

 

 

「僕さ、昔はずっと友達がいなかったんだ。本当の意味での友達ができたのは、高校の時なんだ」

「この前言ってた、帰省するときに会う友達のこと?」

「うん」

 

 

 僕にとって茜や美玖は友達だけではなく、恩人とさえ言える存在だ。僕が少しずつ前を向けるようになったきっかけは茜で、進む道をそっと見守ってくれたのが美玖だった。

 触れれば折れてしまいそうな虚勢で塗り固められていた僕が、やっと前を向けたのは……。

 

 

「色々なことがあったんだけど、それらを含めて今では笑いあえる、本当の友達なんだ」

「……へぇ、羨ましいなあ。そういうの」

 

 

 僕自身、茜や美玖と出会えたことに心の底から感謝している。

 

 僕が偶然、教科書を忘れていなかったら。僕が偶然、教室に戻っていなかったら。

 僕と遥はきっと、交わらない平行線の上を歩むしかなくなっていたと思う。

 本当に……本当に些細な偶然の連続で、僕の人生は成り立っている。

 茜や美玖と本当の友達になれたから、今の僕がある。彼女たちを、決して失いたくないし、大切にしたいと思える。

 そう思えることが、僕にとっては重要なことで……。

 

 

「……だからさ」

「……?」

 

 

 梓さんが、小首をかしげる。

 そう、だから──。

 

 

「僕は梓さんと、そういう友達になりたいって思ってるよ」

 

 

 この偶然を、大切にしたい。

 

 彼女のアーモンドアイが、より大きく見開かれた。ぱちくりと瞬きを繰り返した彼女は、珍しく動揺を覚えているようだった。そして次第に、うっすらと頬が赤みがかった。

 

 

「えっと……なんか顔が熱くなってきちゃった。そんな風に、面と向かって言われたのは初めてかも……」

「……正直、僕も顔が熱い」

「ほんとだ、ちょっと赤いね」

 

 

 お互いに、頬が紅潮しているらしい。こんな風に面と向かって『友達になりたい』と言ったのは初めてだ。茜の時でさえ、わざわざそんなことは言わなかった。

 でも、梓さんにはちゃんと言葉にして伝えたほうがいいと、そう思った。

 彼女と話していると、純粋に楽しいと感じている。ふとした瞬間に詰まりそうになる胸が、楽になるときがある。簡単に言えば、一緒にいて居心地がいい相手。

 だから僕は、彼女と友達になりたい。

 

 

「ふぅん……そっかぁ」

 

 

 梓さんは、小さく息を吐いた。彼女は揺らしていた足を止めた。

 

 

「……私もね」

 

 

 彼女はそう言いながら、狐のお面を髪から外して、手提げのカバンへとしまった。

 

 

「私も……彼方くんと、本当の意味での友達になりたい」

 

 

 そっと、白い手が差し出された。透き通るような肌は、混じり気のない白だった。

 目の前には、今まで見たことのない顔をしている梓さんがいて……。僕はその手に、努めて優しく触れた。

 

 

「梓さんの言うとおり、やっぱりちょっと恥ずかしいね」

「ふふ……そうだね。これで秘密の契約成立だね」

 

 

 はにかむ彼女の頬は、まだ少し赤い。たおやかな手のひらは、ちょっとだけ汗ばんでいた。けれど、その汗ばみこそが、彼女の気持ちを表していて、それが僕には嬉しかった。

 

 

 

☆─────☆

 

 

 

「私はそろそろ戻るね」

 

 

 遥と別れた場所まで戻ってきた。梓さんは少し足を痛そうにしながらも、何とか歩いている。やっぱり、鼻緒の部分が痛むらしい。

 

 

「じゃあ……今度こそ空いてる日あったら、教えてね」

 

 

 梓さんはそう言って、小刻みに手を振りながら去っていった。

 長い金髪が人混みに紛れ、彼女の姿が見えなくなった。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 意図せずため息をついた。どうやら思ったよりも緊張していたらしい。あんなことを言うのは、あまりにも僕らしくはなくて……。でも、だからこそちょっとした変化を心のどこかで望んでいた僕にとっては、大切な機会だった。

 

 

「──お待たせ、彼方。少し道に迷って遅れたわ」

「ん……」

 

 

 ぼぅっと空を見上げていると、涼やかな声が耳朶を打つ。梓さんとちょうど入れ替わる形で、遥が戻ってきた。少し息が上がっているあたり、ごみ捨て場が思ったよりも遠かったらしい。申し訳ないことをした。

 

 

「彼方、疲れてる?」

「いや、大丈夫」

 

 

 遥は、僕が変わることを恐れている。それは、自分の知らない僕がいることが怖いからだと言っていた。そうならば、僕が梓さんと友達になったことをきちんと伝えるべきなのかもしれない。

 けれど以前、梓さんと奇遇にもスーパーで鉢合わせした時の様子を考えると、伝えるのをためらわれる。

 

 

「それなら……次に行くわよ?」

「あ……うん」

 

 

 自然につながれた遥の手。さっき、梓さんの手を握った時とは全く異なる感触。僕がずっと守るべき、大切な妹の手。

 ……きっと大丈夫。僕がどう変わろうとも、遥を大切に想う気持ちはずっと変わらない。

 

 

 さっき感じた梓さんの体温と、今感じている遥の体温。

 二つの体温が入り混じった手のひらに、自分でもよくわからない感情が芽生えるのを感じていた。

 

 

 

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